「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第五部 残るもの 3

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第二十三章 堀内と美咲の夜

奈緒が帰った翌日の夜、珍しく「瀧」に堀内と美咲の二人だけになる時間があった。
ユウは来ていたが、知り合いのミュージシャンと会う約束があると言って早めに帰った。律子はその夜は来なかった。坂口も来なかった。
堀内と美咲が二人でカウンターに並んで、それぞれのグラスを前にしていた。沖田がいつものようにグラスを磨いていた。
「なんか、嵐が過ぎた感じがしますね」と美咲が言った。
「嵐ってほどのもんか」と堀内は言った。
「嵐でしょう、あれは」と美咲は言った。「私たちが知ってた人が、実は亡くなっていた人だったとわかったんですよ」
堀内はウイスキーを一口飲んだ。「そうだな」と言った。
しばらく黙った。
「堀内さん」と美咲が言った。「今は、どう思ってますか。タキさんのこと」
「どうって」と堀内は言った。
「受け入れられましたか」
堀内は少し考えた。「受け入れるとか受け入れないとかじゃなくて」と言った。「腑に落ちないのは今でも変わらない。俺は目に見えないものを信じない人間だから」
「でも?」と美咲が言った。
「でも」と堀内は繰り返した。「俺があの人に話したこと、他の誰にも話せなかったことを話せたのは事実で。それがどういう理由かは説明できないけど、話せたことで楽になったのは本当だから。それを否定する気にはなれない」
「私もです」と美咲は言った。「あの夜、今夜決めることはないって言ってもらって。あの言葉がなかったら、どうなってたかわからない。幽霊だったとしても、その言葉の意味は変わらない」
「タキさんって」と堀内は言った。「いつも答えを言わなかったよな」
「言わなかったですね」と美咲は言った。「私が辞めようって言った時も、続けろとも辞めろとも言わなかった。ただ、今夜決めることはないって」
「俺の時も」と堀内は言った。「それでよかったんだ、って言われた。どうすればいいとか、謝れとか、そういうことは何も言わなかった」
「自分で決めさせてくれるんですよね」と美咲は言った。「答えを教えてくれるんじゃなくて、自分で答えが出てくる感じがする。ユウさんも同じこと言ってた」
堀内が「この店の気が、そうさせてるのかもな」と言った。
美咲が少し驚いた顔をした。「堀内さんが気って言うとは思わなかった」
「俺だって言うわ」と堀内は言った。少しむっとした顔で。でも本気で怒ってはいなかった。「他に言葉がないんだよ。目に見えないもんを説明する時に、気って言うしかない。科学的に説明できないからって、なかったことにはできないだろ」
「そうですね」と美咲は言った。「この場所には、何かある。ずっとそう思ってた。言葉にしたことはなかったけど」
「瀧本さんが長年ここに来て」と堀内は言った。「その人の何かが、この場所に残ってる。そういうことかもしれない。俺にはわからないけど」
「わからなくてもいいんじゃないですか」と美咲は言った。「私は、それでいいと思ってる」
堀内がグラスを置いた。「律子さんがそう言ってたな。どっちでもいいって」
「かっこよかったですよね、あの言葉」と美咲は言った。「私には言えなかった。あの場で、あれだけ静かにそう言えるのは、あの人だからだと思う」
「あの人は」と堀内は言った。「何を見てきたんだろうな。三十年間、教師をやって。旦那さんも亡くして。それでもここに来て、カウンターを拭いて帰る」
「好きですよ、あの習慣」と美咲は言った。
「俺も嫌いじゃない」と堀内は言った。「なんか、場を大事にしてる感じがして」
沖田がグラスを磨きながら、何も言わずに聞いていた。
「マスター」と美咲が言った。「タキさんがいなくなってから、この店の空気、変わりましたか」
沖田が少し考えた。「変わっていないと思います」と言った。
「本当に?」
「瀧本さんがいた頃も、いなくなってからも、ここはここです」と沖田は言った。「変わっていないというより、ここに積み重なってきたものは消えない、ということかもしれません」
美咲が「積み重なってきたもの」と繰り返した。
「みなさんが来るたびに、何かがここに残っていくと思っています」と沖田は言った。「良いものも、悪いものも。でもここに来る人は、たいていいいものを持ってきてくれる」
堀内が「マスター、それ褒めてるのか」と言った。
「そうです」と沖田は言った。
堀内が「珍しい」と言って、少し笑った。
美咲も笑った。
その夜の「瀧」は、嵐の後の静けさの中にあった。何かが終わって、何かが続いていく、そういう夜だった。

つづく
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