24 / 26
第五部 残るもの 4
しおりを挟む
第二十四章 奈緒が帰る朝
広島を発つ日の朝、奈緒は「瀧」に来た。
開店前だったが、路地に入ると、ドアの鍵が開いていた。そっと押すと、沖田が中にいた。朝の仕込みをしていた。
「おはようございます」と奈緒は言った。
「おはようございます」と沖田は言った。「今日帰りですか」
「はい。新幹線が昼前なので」
「どうぞ」と沖田が言って、カウンターの席を示した。
奈緒は端の席から二つ離れた席に座った。沖田が「コーヒーでいいですか」と聞いた。「はい」と奈緒は答えた。
朝の「瀧」は、夜とも昨日の昼間とも違う顔をしていた。仕込みの音がして、外からは横川の朝の音が入ってきた。自転車の音、遠くの車の音、鳥の声。
コーヒーが来た。奈緒は両手でカップを持って、一口飲んだ。
「祖父は」と奈緒は言った。「ここで、どんな顔をしていましたか」
沖田がしばらく考えた。
「穏やかな顔をしていました」と沖田は言った。「ここに来ると、少し表情が柔らかくなっていた気がします。仕事の疲れを、ここで下ろしていたのかもしれません」
「祖父は家では無口な人でした」と奈緒は言った。「祖母も、そういう人だった、と言っていて。でも、外では話せる人だったんでしょうか」
「話すというより、聞く人でしたね」と沖田は言った。「でも、ここにいる時は少し違ったかもしれない。私には、仕入れの愚痴を聞いてもらったこともあります」
奈緒が「そうですか」と言って、少し笑った。「ここに来ると、人間に戻れる気がする、と言っていませんでしたか」
沖田が手を止めた。「そう言っていました。よく覚えていましたね」
「以前、話してくれていたので」と奈緒は言った。「どういう意味か、子どもの頃はわからなかったんですけど。今はなんとなくわかる気がします」
「どういう意味だと思いますか」と沖田が聞いた。
奈緒はコーヒーを一口飲んで考えた。
「何者でなくていい場所、ということかな、と」と奈緒は言った。「仕事の人でも、家族の人でも、何かの役割の人でもなく、ただ自分でいられる場所。そういう場所が、人間にはたまに必要なんじゃないかと思って」
沖田が「そうだと思います」と言った。
「律子さんも、同じことを言っていました」と奈緒は続けた。「ここに来ると、自分がここにいるってわかる、って」
「そういう方が、何人もいます」と沖田は言った。
奈緒はカップを置いた。少しの間、カウンターを見た。木の目が、朝の光の中で細かく見えた。長い時間をかけて磨かれた木の表面。何千回、何万回と、手が触れてきた場所。
「マスター」と奈緒は言った。「祖父は、幸せだったと思いますか」
沖田が少し間を置いた。
「ここにいる間は、そうだったんじゃないですか」と沖田は言った。「それ以外のことは、私にはわかりません。でも、ここに来ていた頃の瀧本さんは、穏やかでした。それだけは確かです」
奈緒が頷いた。
「私も」と奈緒は言った。「ここに来てよかった。祖父がどういう場所を好きだったか、わかった気がします」
「また来てください」と沖田は言った。
「来ます」と奈緒は言った。「また来ます」
奈緒はコーヒーを飲み終えて、お勘定をした。コートを着て、バッグを持った。立ち上がって、帰ろうとして、ふと振り返った。
端の席を見た。
灰皿がある。誰もいない。朝の薄い光の中で、緑色のガラスの灰皿が静かにそこにあった。
奈緒は何も言わなかった。ただ、その席に向かって、小さく頭を下げた。
それから沖田に「ありがとうございました」と言った。
「こちらこそ」と沖田は言った。「お気をつけて」
ドアを開けると、横川の朝の空気が入ってきた。冷たくて、少し湿っていた。
路地を歩きながら、奈緒は振り返って看板を見た。
「瀧」
その一文字が、朝の光の中にあった。祖父の名前と同じ字が、ここにある。祖父がこの看板を見るたびに、どんな気持ちだったか、奈緒にはわからなかった。でも、嫌いではなかっただろうと思った。むしろ、そういう場所だからこそ、ずっと来ていたのかもしれない。
自分の名前と同じ字の場所。
そこに来ると、人間に戻れる気がした、と言っていた祖父。
奈緒は路地を出た。横川の朝が、広がっていた。
つづく
広島を発つ日の朝、奈緒は「瀧」に来た。
開店前だったが、路地に入ると、ドアの鍵が開いていた。そっと押すと、沖田が中にいた。朝の仕込みをしていた。
「おはようございます」と奈緒は言った。
「おはようございます」と沖田は言った。「今日帰りですか」
「はい。新幹線が昼前なので」
「どうぞ」と沖田が言って、カウンターの席を示した。
奈緒は端の席から二つ離れた席に座った。沖田が「コーヒーでいいですか」と聞いた。「はい」と奈緒は答えた。
朝の「瀧」は、夜とも昨日の昼間とも違う顔をしていた。仕込みの音がして、外からは横川の朝の音が入ってきた。自転車の音、遠くの車の音、鳥の声。
コーヒーが来た。奈緒は両手でカップを持って、一口飲んだ。
「祖父は」と奈緒は言った。「ここで、どんな顔をしていましたか」
沖田がしばらく考えた。
「穏やかな顔をしていました」と沖田は言った。「ここに来ると、少し表情が柔らかくなっていた気がします。仕事の疲れを、ここで下ろしていたのかもしれません」
「祖父は家では無口な人でした」と奈緒は言った。「祖母も、そういう人だった、と言っていて。でも、外では話せる人だったんでしょうか」
「話すというより、聞く人でしたね」と沖田は言った。「でも、ここにいる時は少し違ったかもしれない。私には、仕入れの愚痴を聞いてもらったこともあります」
奈緒が「そうですか」と言って、少し笑った。「ここに来ると、人間に戻れる気がする、と言っていませんでしたか」
沖田が手を止めた。「そう言っていました。よく覚えていましたね」
「以前、話してくれていたので」と奈緒は言った。「どういう意味か、子どもの頃はわからなかったんですけど。今はなんとなくわかる気がします」
「どういう意味だと思いますか」と沖田が聞いた。
奈緒はコーヒーを一口飲んで考えた。
「何者でなくていい場所、ということかな、と」と奈緒は言った。「仕事の人でも、家族の人でも、何かの役割の人でもなく、ただ自分でいられる場所。そういう場所が、人間にはたまに必要なんじゃないかと思って」
沖田が「そうだと思います」と言った。
「律子さんも、同じことを言っていました」と奈緒は続けた。「ここに来ると、自分がここにいるってわかる、って」
「そういう方が、何人もいます」と沖田は言った。
奈緒はカップを置いた。少しの間、カウンターを見た。木の目が、朝の光の中で細かく見えた。長い時間をかけて磨かれた木の表面。何千回、何万回と、手が触れてきた場所。
「マスター」と奈緒は言った。「祖父は、幸せだったと思いますか」
沖田が少し間を置いた。
「ここにいる間は、そうだったんじゃないですか」と沖田は言った。「それ以外のことは、私にはわかりません。でも、ここに来ていた頃の瀧本さんは、穏やかでした。それだけは確かです」
奈緒が頷いた。
「私も」と奈緒は言った。「ここに来てよかった。祖父がどういう場所を好きだったか、わかった気がします」
「また来てください」と沖田は言った。
「来ます」と奈緒は言った。「また来ます」
奈緒はコーヒーを飲み終えて、お勘定をした。コートを着て、バッグを持った。立ち上がって、帰ろうとして、ふと振り返った。
端の席を見た。
灰皿がある。誰もいない。朝の薄い光の中で、緑色のガラスの灰皿が静かにそこにあった。
奈緒は何も言わなかった。ただ、その席に向かって、小さく頭を下げた。
それから沖田に「ありがとうございました」と言った。
「こちらこそ」と沖田は言った。「お気をつけて」
ドアを開けると、横川の朝の空気が入ってきた。冷たくて、少し湿っていた。
路地を歩きながら、奈緒は振り返って看板を見た。
「瀧」
その一文字が、朝の光の中にあった。祖父の名前と同じ字が、ここにある。祖父がこの看板を見るたびに、どんな気持ちだったか、奈緒にはわからなかった。でも、嫌いではなかっただろうと思った。むしろ、そういう場所だからこそ、ずっと来ていたのかもしれない。
自分の名前と同じ字の場所。
そこに来ると、人間に戻れる気がした、と言っていた祖父。
奈緒は路地を出た。横川の朝が、広がっていた。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。
梵珠山に、神は眠らない ―八峰 遥の豪運―
事業開発室長
ミステリー
神の気まぐれか、何かの意思か――
八峰 遥が遭遇する不可思議な出来事と強運の連続。
彼女を呼ぶ声は一体? 現実とオカルトが交錯する、
全10話完結の短編ミステリー。
シリーズ第2弾【十二湖は、今日も蒼い ―八峰 遥の天運―】 公開中
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
僕がここでカフェを始めた理由
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川の細い路地に、カウンター八席だけの小さなカフェ「HUIT(ユイット)」がある。オーナーの桐島奏は自分のことを語らないが、その静かな佇まいと一杯のコーヒーが、街の人々を引き寄せてきた。
なぜ北向きなのか。なぜ八席なのか。なぜこの場所を、十年以上かけて探し続けたのか。
ある日、一人の女性がやってくる。彼女の名は宮本さくら。亡き父の手帳を胸に、ある人を探して横川へ来た。
二人の出会いが、二十年越しの縁をほどき始める。ほっこりと、静かに、確かに。
背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)
MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。
しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。
母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。
その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。
純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。
交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密
まさき
青春
俺は今、東大院生の実験対象になっている。
ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。
「家庭教師です。住まわせてください」
突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。
桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。
偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。
咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。
距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。
「データじゃなくて、私がそう思っています」
嘘をついているような顔じゃなかった。
偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。
不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。
『新橋スクランブルと、横川のハイボール』
バーガヤマスター
ライト文芸
突然の東京異動で理不尽な組織の壁にぶつかる53歳の聡子と30歳の結衣。新橋で再会した同郷の二人は、故郷・広島の横川で語り合った夜を胸に会社という鎧を脱ぎ捨てる。数々の裏切りや困難を乗り越え、自分たちだけの居場所である小さなバーを作り上げる。世代を超えた友情と本当の仲間の絆が胸を打つ、痛快な人生逆転ストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる