「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

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第五部 残るもの 5

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第二十五章 沖田の朝

奈緒が去った翌朝、沖田はいつもより少し早く「瀧」に来た。
特別な理由はなかった。ただ、今朝は早く来たかった。
ドアを開けると、昨夜の静けさが残っていた。閉店後に換気をしたが、それでも木とウイスキーと時間の積み重なったにおいが、薄くそこにあった。沖田はそのにおいを、好きだった。
いつもの手順で仕込みを始めた。
グラスを棚から出して、布で丁寧に磨く。光に透かして確認する。棚に戻す。一つずつ、全部のグラスに対してやる。次に氷を確認する。カウンターを端から端まで一度で拭く。
そして最後に、棚の下から緑色のガラスの灰皿を取り出した。
カウンターの右端の席の前に、そっと置いた。
いつもと同じ動作だった。三十年間、変わらない動作だった。でも今朝は、その動作をしながら、沖田は少し違うことを感じていた。
今まで、この灰皿を置く時、沖田はいつも少し胸が重かった。重いというより、引っかかりがある、という感じだ。瀧本が来なくなってから、ずっとそれがあった。来ない人のために灰皿を出す。それは習慣になっていたが、その奥に、いつも小さな痛みがあった。
今朝は、それがなかった。
重くなかった。引っかかりもなかった。ただ灰皿を置いた。それだけだった。
なぜかを考えた。
奈緒が来たからかもしれない、と思った。瀧本の孫が来て、写真を見せてくれて、「祖父は幸せだったと思いますか」と聞いてくれた。そして常連たちが、それぞれの夜のことを話してくれた。美咲が、堀内が、ユウが、坂口が、律子が。
三十年間、沖田は一人でハイボールを作り続けてきた。瀧本に何かを返したくて、でも返す相手がいなくて、ただ作って捨て続けてきた。その孤独な弔いが、あの夜に少し変わった気がした。一人の弔いが、みんなの記憶の中に広がった。そういう感じがした。
沖田はカウンターの内側の定位置に戻った。
レコードプレーヤーに近づいて、盤を選んだ。瀧本がよく「これがいい」と言っていた盤だ。古いジャズの盤で、ピアノとベースだけの静かな演奏だった。針を落とすと、かすかなノイズの後に音楽が流れ始めた。
朝の「瀧」に、ピアノの音が広がった。
沖田はカウンターに戻って、開店の準備を続けた。
夕方になって、律子が来た。
いつもより少し早い時間だった。
「今日はもう少しいてもいいですか」と律子は言った。
「どうぞ」と沖田は答えた。
律子がカウンターに座った。ジントニックを一口飲んで、しばらく何も言わずにいた。沖田も何も言わなかった。レコードの音だけがしていた。
「マスターはずっとここにいるんですね」と律子が言った。
「いつも」と沖田は答えた。
「タキさんも、ここにいたかったんでしょうね」と律子は言った。
沖田は手を止めた。
グラスを磨く手が、静かに止まった。
その沈黙が、答えだった。
律子もそれ以上は言わなかった。二人は少しの間、同じ静けさの中にいた。
夜になって、常連たちが来た。
美咲が来た。「今日は早いですね」と律子に言った。律子が「たまにはいいでしょう」と笑った。
堀内が作業服のまま来た。「今日はしんどかった」と言いながらウイスキーを頼んだ。「でも、終わった」と付け加えた。
ユウがギターケースを背負って来た。来月のライブのチラシを持ってきて、「よかったら来てください」と全員に配った。
坂口が来た。今夜もウイスキーを頼んだ。「少しずつ、次のことが見えてきました」と静かに言った。
全員がいつもの席に座った。
端の席だけが空いていた。
誰もそこには座らなかった。でも誰もそれをおかしいとは思わなかった。その席には灰皿がある。その灰皿の意味を、今夜ここにいる全員が知っていた。知っていて、何も言わなかった。でもそれは、忘れているのではなかった。
会話が弾んだ。ユウのライブの話になった。美咲が「絶対行く」と言った。堀内が「俺も行ってやる」と言った。ユウが「来てくれるんですか」と少し驚いた顔をした。坂口が「私も伺います」と言った。律子が「楽しみにしているわ」と言った。
ユウが照れた顔をした。
沖田が静かに全員のグラスを補充した。
その夜の「瀧」は、温かかった。それ以外に言いようがなかった。いい気が満ちている、と感じる人もいたかもしれないし、ただ居心地がいいと感じる人もいたかもしれない。どちらでも同じことだった。
閉店の時間になった。
常連たちが一人ずつ帰っていった。
ユウが「おやすみなさい」と言って出て行った。美咲が「また来ます」と言った。堀内が「ああ」と言って、いつものように何気なく帰った。坂口が丁寧にお辞儀をして出て行った。
律子が最後に残った。
いつものようにカウンターをハンカチで拭いた。沖田が「いいですよ」と言った。律子が「習慣なんです」と笑った。
コートを着ながら、律子が「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい」と沖田は言った。
ドアが閉まった。
「瀧」が静かになった。
沖田は閉店後の手順をいつもどおりに進めた。グラスを洗う。カウンターを拭く。床を掃く。照明を落としていく。
そして最後に、ウイスキーのボトルを棚から出した。
ハイボールを一杯作った。ソーダを少し多めに、氷を入れて、静かに混ぜた。
それを持って、端の席の前に立った。
灰皿の隣に置こうとして、手が止まった。
今夜は、置かなかった。
沖田は端の席のスツールを引いて、そこに座った。カウンターの内側ではなく、客の席に。瀧本がいつも座っていた席に、沖田は初めて座った。
カウンターを見た。
いつも自分が立っている場所を、向こう側から見た。グラスが並んでいる棚。手書きのメニュー。磨かれた木のカウンターの表面。長い年月をかけて積み重なってきたものが、そこにあった。
沖田はハイボールを一口飲んだ。
うまかった。
「今夜も来てくれましたよ」と沖田は言った。誰もいない店に向かって。「みんな、いい顔をしていました。ユウ君がライブをするそうです。美咲さんが行くと言っていた。堀内さんも。坂口さんも。律子さんも」
少し間を置いた。
「奈緒さんが来てくれました。あなたのお孫さんです。いい人でしたよ。あなたに似ていた」
窓の外で風が鳴った。
「三十年間、ありがとうございました」と沖田は言った。
静かな声だった。誰にも聞こえない声だった。でも、届く気がした。
沖田はハイボールを飲み終えた。
グラスをカウンターに置いた。
今夜は、流しに捨てなかった。
照明を落とした。「瀧」が暗くなった。端の席に外の街灯の光がかすかに差していた。空のグラスが、その光の中にあった。
沖田はドアに鍵をかけて、路地に出た。
夜の横川は静かだった。川の音がしていた。空を見ると、星が出ていた。雲がなかった。珍しく、たくさんの星が見えた。
沖田は少しの間、空を見た。
明日も開ける、と思った。明日もグラスを磨いて、カウンターを拭いて、灰皿を置く。常連たちが来る。新しい客も来るかもしれない。いい気も、悪い気も、いろんなものがこの場所を通っていく。でもここに積み重なってきたものは、消えない。
沖田は路地を歩き始めた。
「瀧」の看板が、街灯の光の中にあった。
その一文字が、夜の路地の中で静かに光っていた。

第五部 了
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