『横川夜咄(よこがわよばなし)』 ―和菓子と夢と、小さな嘘―

バーガヤマスター

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第一章「横川の夜、はじまりのあんこ」

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第一章「横川の夜、はじまりのあんこ」

 十月の終わりというのに、東広島の夜はまだ少し生ぬるかった。
 桐島葵は、エプロンの紐を後ろで結びながら工房の電気をつけた。蛍光灯が一瞬ためらうように瞬いてから、白い光で室内を満たす。銅製の鍋が三つ、棚に並んでいる。祖父の代から使い続けている木の作業台。壁には父の字で「丁寧に、ていねいに」と書かれた紙が貼ってある。葵はその紙を見ないようにしながら、冷蔵庫から小豆を取り出した。
 時刻は夜の十一時を回っていた。
 田村誠と別れたのは、今日の夕方のことだ。広島市内のカフェで、誠はアイスコーヒーを飲みながら、どこか遠くを見る目で言った。
「将来性が見えないんだよね、俺たちに」
 葵はその言葉を、最初、うまく飲み込めなかった。将来性。三年間付き合って、二十八歳になって、将来性。言葉の意味はわかる。ただ、それが今日、この午後三時のカフェで、アイスコーヒーのグラスの結露が白いコースターをじわじわ濡らしている、そのタイミングで言われなければならない言葉だとは、なかなか思えなかった。
「そっか」と葵は言った。
「怒らないの」と誠は言った。
「怒る元気がない」と葵は正直に答えた。
 誠はしばらく黙って、それから少し困ったような顔をして、「お前が正直じゃなかったから、こうなったんだと思う」と言った。
 その言葉だけが、今も葵の胸の奥に刺さったまま抜けない。
 将来性が見えない、という言葉は、時間が経てばきっと薄れていく類のものだと葵にはわかった。別れの言葉というのは多かれ少なかれ、後から振り返れば「そういうものだ」と思えるようになる。でも、「お前が正直じゃなかったから」という言葉は違った。あれは誠が本当に言いたかったことだ。葵にはそれがわかった。わかったうえで、カフェの白い照明の下で、葵は「そっか」とだけ繰り返して、立ち上がり、先に店を出た。
 泣いたのは、在来線に乗って東広島に帰る車内でだった。窓の外の景色が暗くて、自分の顔が反射して見えたから、葵は窓から顔を背けた。隣の席の老人が気づいていないふりをしてくれていることは、わかっていた。
 実家に帰ると、母が「遅かったね」と言った。葵は「うん」と答えて、そのまま工房に向かった。母は何も聞かなかった。それが母という人の、葵に対するやり方だった。
 小豆を洗いながら、葵は自分がなぜ今夜、餡を炊こうとしているのかを考えた。悲しいから、という単純な答えは、たぶん正しい。けれどそれだけではないような気もした。餡を炊くという作業は、葵にとって昔から「整理するための儀式」のようなものだった。小学生の頃、友達と喧嘩した夜も、受験に失敗した夜も、祖父が亡くなった夜も、葵はいつもこの工房で父か祖父の隣に座って、餡が炊けていく様子をぼんやり眺めていた。大人になってからは、自分で炊くようになった。
 鍋に水を張り、小豆を入れて火にかける。沸騰したら一度湯を捨てる。これを二度繰り返す。アクを丁寧に取り除くこの作業を、父は「小豆の言い訳を聞いてやる時間」と呼んでいた。言い訳。葵は今夜、自分にもたくさんの言い訳があることを知っていた。
 誠に正直じゃなかったのは、本当のことだ。
 二ヶ月前のことを、葵は思い出す。凛のフィアンセ——神崎拓海から、一本の電話があった。内容は、「桐島屋のレシピを、新しいフードテック事業に提供してもらえないか」という打診だった。葵は即座に断った。断るのは当然だった。桐島屋の製法は三代にわたって守ってきたものであり、葵一人が決められることではない。ただ問題は、それを凛に言えなかったことだ。
 親友の婚約者が、裏でこんなことをしている。
 その事実を、葵はずっと一人で抱えていた。誠にだけは、相談した。誠はそのことを知っていた。だから誠は言ったのだろう。お前が正直じゃなかったから、と。
 でも凛に言えば、凛と拓海の関係を壊すかもしれない。言わなければ、自分が嘘をついている。どちらを選んでも、何かが傷つく。葵はそのどちらも選べないまま、二ヶ月が過ぎた。
 鍋の中で、小豆がゆっくりと踊っている。
 葵は木べらでそっとかき混ぜながら、砂糖を量った。上白糖と、少しのざらめ。甘さの中に奥行きを作るための配合は、祖父が教えてくれたものだ。「甘いだけじゃ飽きる。甘さにも影が要る」と祖父は言っていた。影のある甘さ。葵は今夜、その言葉がやけに胸に響いた。
 砂糖を加えて、弱火でじっくりと練っていく。この作業は急いではいけない。焦れば焦るほど、餡は荒れる。葵は時間をかけて木べらを動かしながら、誠の顔を思い出していた。怒っているときの顔でも、笑っているときの顔でもなく、最後にカフェで見た、どこか遠くを見ていた顔。あの顔が、一番応えた。
 泣きながら餡を炊くというのは、われながら間抜けな光景だと葵は思った。涙が鍋に落ちないように気をつけながら、それでも木べらを止めなかった。止めたら、何かが終わってしまう気がした。何が終わるのかはわからない。ただ、木べらを動かし続けることが、今夜の葵にできる唯一のことだった。
 午前一時を過ぎた頃、餡が仕上がった。
 つやつやと光る小豆色の塊を、葵はしばらく眺めた。きれいだ、と思った。どんな夜に炊いても、餡はきれいに仕上がる。それが不思議でもあり、少しだけ救いでもあった。
 容器に移して、冷ます。冷めたら冷凍庫に入れるつもりだった。明日以降に使う予定があるわけではない。ただ、捨てる気にもなれなかった。この餡には今夜の気持ちが入っている。そんなことを思うのは職人として正しくないかもしれないが、葵には今夜、正しくあれるほどの余裕がなかった。
 工房の電気を消す前に、葵はもう一度だけ振り返った。銅の鍋。木の作業台。父の字で書かれた「丁寧に、ていねいに」という紙。
 この場所が好きだ、と葵は思った。好きで、でも、ここだけにいてはいけない、ということも知っていた。
 翌朝、葵がスマートフォンを見ると、凛からLINEが届いていた。送信時刻は夜中の二時を過ぎている。凛らしい。
『ねえ葵、横川でカフェやろうと思うんだけど。和菓子カフェ。今夜話せる?』
 続いて、矢継ぎ早にメッセージが来ていた。
『私ね、ずっと考えてたんだよ。ライバーとして和菓子の動画撮り続けてきてさ、このままじゃ和菓子って本当にどんどん遠くなっていくなって』
『葵の力が必要なんだよ。絶対うまくいくと思う』
『既読つけたら返事してね。寝てたらごめん』
 葵はしばらくスマートフォンを持ったまま、メッセージを読み返した。
 和菓子カフェ。横川。
 凛の「絶対うまくいく」という言葉は、いつも少し眩しすぎて、葵には直視しにくい。でも今朝は、その眩しさが、昨夜の暗さを少しだけ押しのけてくれるような気がした。
 葵は返信を打った。
『起きてた。今夜、横川行く』
 送信ボタンを押してから、葵は冷凍庫を開けた。昨夜の餡が、白い容器の中で静かに眠っている。
 いつか、これを使う日が来るだろうか。
 葵は冷凍庫をそっと閉めて、エプロンをかけた。今日も桐島屋の朝は、早い。

つづく
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