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横川ガード下探偵団 結成篇 1 ~あの夏、僕らは名前をつけた~
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第1章「八月のガード下」
八月というのは、正直に言うと、ケンジには少し敵だった。
夏休みの最初の一週間くらいは好きだ。学校がなくて、宿題はまだ先で、どこへでも行けるような気がして、朝から何となく興奮している。でも八月に入った頃から、その興奮が少しずつ違う色に変わっていく。一人でいる時間が増えて、考えすぎて、夜に布団の中で天井を見つめる時間が長くなる。
今年の八月は、特にそうだった。
松本ケンジは午前十時に、JR横川駅の高架下にある、いつもの場所にもたれていた。
横川駅は高架駅だ。山陽本線と可部線が高架の上を走り、その下に太い柱と壁が並んでいる。駅の南口から出ると、目の前に広電の路面電車の停留場があって、ちょうど7号線か8号線がキーンという独特の音を立てて発着している。その少し先に商店街のアーケードが伸びていて、昭和二十七年に作られたという古いアーケードが夏の日差しを遮ってくれる。
ケンジが好きなのは、高架の柱が何本も並ぶあの空間だ。商店街の外れ、高架の下にある少し奥まった場所。天井はコンクリートで、電車が通るたびに轟音と振動が来て、またすぐ静かになる。風が太田川放水路の方から吹いてくることもある。夏でも日が当たらないぶん、少しだけひんやりしている。
持ってきた本は、最初の二ページで読む気が失せた。飲みかけのスポーツドリンクは、すでにぬるい。商店街のアーケードの向こうには夏の光が溢れていて、どこかから祭囃子の練習音が聞こえてきた。もうすぐ横川商店街の夏祭りだ。
一人で来た理由を、ケンジはあまり考えたくなかった。
考えると、また胸の中の重いものに触れることになる。夏休みが始まる直前にクラスで起きたこと。田村のこと。ケンジが言った言葉。田村の顔。
ぬるいスポーツドリンクを一口飲んだ。
頭上で山陽本線の電車が通過した。
轟音が体を揺らして、そして静かになって、また静かな夏が戻ってくる。ケンジはこのリズムが昔から好きだった。電車が来て、電車が行く。ちゃんと繰り返す。しばらくすると今度は可部線の電車が来る。山陽本線より少し軽い音がする。この二種類の音の違いを、ケンジは子供の頃から聞き分けられた。
「ねえ、そこ涼しい?」
声がした。
ケンジが顔を上げると、高架下の入口のところに、知らない子が立っていた。
最初、男の子だと思った。短い髪を後ろで小さく結んでいて、黄色いTシャツに短パン、スニーカーという格好。ちょっと焼けた肌。でも声を聞いた後によく見ると、女の子だった。ケンジと同じくらいか、少し下くらいの年齢に見える。
「涼しい」とケンジは答えた。
「入っていい?」
「別に、俺のものじゃないし」
「じゃあ入る」
その子はごく自然に高架下に入ってきて、ケンジの二メートルほど隣の柱にもたれた。カバンからペットボトルの麦茶を出して飲んだ。それから「暑いね、今日」と言った。
「暑い」とケンジは言った。
「夏って毎年こんなに暑かったっけ」
「こんなもんじゃないの」
「去年はもうちょっとマシだった気がする」
「去年の夏の気温、覚えてるの?」
「覚えてない」とその子は言った。「でもこんなに暑くなかったと思う」
なんとなく会話になった。ケンジは一人でいたかったはずだが、不思議とこの会話は不快じゃなかった。相手が「ねえ悩みでもあるの?」とか「なんでそんな顔してるの?」とか、そういうことを聞いてこないからかもしれない。ただ「暑い」と言っているだけだ。
「ここの子じゃないよね」とケンジは言った。「見たことない顔だ」
「うん、夏だけ来てる。おじいちゃんの家があって」
「横川に?」
「うん、商店街の近く。でもおじいちゃんはもういないから、家の整理に来た。お父さんとお母さんと」
「あ」ケンジは少し間を置いた。「それは……大変だね」
「まあね」とその子は言った。さっぱりした口調で。「でも、横川に来るのは嫌いじゃない。好きな場所だから」
「そうなんだ」
「ここも好きかもしれない」とその子は高架下を見回した。「なんかいい。屋根みたいで」
「電車が通ると、すごい音するけど」
「それが好き」
ケンジは少し笑った。久しぶりに笑った気がした。
「名前は?」とその子が聞いた。
「ケンジ。松本ケンジ」
「ナツ。岡本ナツ」
「ナツって、夏?」
「八月生まれだから」とナツは言った。「ちょうど今月が誕生日」
「え、おめでとう」
「ありがと、まだだけど」ナツは少し嬉しそうに言った。「ケンジは何してたの? 何もしてなさそうだったけど」
「何もしてなかった」ケンジは素直に言った。
「なんで?」
「一人だから」
「一人でいたいの?」
ケンジは少し考えた。「そういうわけじゃないけど」と答えた。
「じゃあ来る?」とナツは言った。
「どこに?」
「古本屋。浜田書房っていう。おじいちゃんと仲良しだったおじさんがいるから、挨拶しに行こうと思ってた」
「知らない人のところに、なんで俺が」
「一人で行くのは緊張するから」ナツはあっさりと言った。「一緒に行ってくれたら嬉しい」
言い方が、変に正直だった。「緊張するから一緒に来て」というのを、普通の子はあまりそのまま言わない。格好悪いから。でもナツはそれをそのまま言った。
「分かった」とケンジは立ち上がった。「行ってみる」
浜田書房は、商店街のアーケードをまっすぐ行って、右に折れたところにある。間口の狭い、縦長の店だ。外に古本が並んでいて、中に入ると本の匂いがする。ケンジは何度か前を通ったことはあるが、入ったことはなかった。
「こんにちは」とナツが暖簾をくぐって言った。
奥から「はい」という声がした。低くて、ゆっくりした声だ。
浜田トシオは、想像していたよりずっと「本の人」だった。五十五歳くらいで、白髪混じりの頭、丸い眼鏡、薄いベージュのシャツ。カウンターの向こうで本を読んでいて、お客が来ても立ち上がらないタイプの人だ。
しかしナツを見た時、眼鏡の奥の目が少し変わった。
「ナツちゃんか」と浜田は言った。「大きくなったね」
「一年ぶりです」とナツは言った。「おじいちゃんの家に来ました。整理で」
「そうか」浜田はゆっくり立ち上がった。「わざわざ来てくれたか」
「はい。あと……お願いがあって」
「お願い?」
「おじいちゃんに贈った本、見せてもらえませんか。前に少しだけ聞いたことがあって。おじいちゃんの書いた本が、ここにあるって」
浜田の顔が、わずかに動いた。ケンジは、大人の顔の「微妙な動き」を読むのが得意だったが、この時の浜田の表情は読めなかった。嬉しいとも困るとも言えない、複雑な何かだった。
「横川ものがたり」と浜田は言った。「シンジが贈ってくれた本だ」
「はい。一度読んでみたくて」
「ここには置いてある。売り物じゃない。見るだけなら——」
「ありがとうございます!」ナツが明るく言った。
「明日来てくれるか。今日は棚の奥に入っていて、すぐには出せない」
「分かりました。明日来ます!」
ナツは満足そうだった。ケンジは横で見ながら「そういう流れか」と思っていた。
帰り道、商店街のアーケードを二人で歩きながら、ナツは上機嫌だった。アーケードの外側から夏の光が差し込んできて、石畳を斜めに照らしている。
「良かった。明日また来れる」
「その本、よほど読みたいんだね」
「おじいちゃんが書いた本だから」ナツは言った。「おじいちゃんって、あんまりいろんな話をしてくれない人だったの。物静かで。でも本の中には、その人の言いたいことが全部ある、って聞いたことがあって」
「誰から?」
「忘れた。でも、そう思ってる」
ケンジは「そうかもしれない」と思った。自分が好きな本の作者のことを、ケンジは「この人はこんな人だったのかも」と想像することが時々ある。
「ケンジ、明日も来る?」とナツが聞いた。
「え」
「一緒に来てくれたら嬉しいけど」
また、正直な言い方だった。ケンジは少し考えて「まあ、暇だし」と言った。
「やった」
「別に大したことじゃないし」
「それでもやった」
アーケードを抜けたところで、広電の路面電車が目の前をキーンと音を立てて通り過ぎた。7号線だ。紙屋町方面へ行く電車。ケンジは子供の頃から、この音が好きだった。JRの重厚な轟音とは違う、路面電車特有の軽くて懐かしい音。
「あの電車、かわいいね」とナツが言った。
「広電。広島の路面電車」
「乗ったことある?」
「ある。広島駅とか紙屋町とか行く時に使う」
「横川からどこまで行けるの?」
「7号線で広電本社前とか広島港まで行ける。8号線で江波まで。でもうちの学校はJRで一駅の広島の方が速いから、普段は使わないかな」
「ふーん」ナツは路面電車が去っていった方向を見ながら言った。「次に来た時に乗ってみよう」
その夜、ケンジが家に帰って夕飯を食べながら、母の道子が「今日は誰かと遊んでたの?」と聞いた。
「知らない子とちょっと話した」
「男の子? 女の子?」
「女の子。ナツっていう。夏休みだけここに来てるって」
「へえ」道子は少し嬉しそうな顔をした。「良かった。最近ずっと一人だったじゃない」
「一人が嫌なわけじゃないけど」
「でも一人が良かったわけでもないでしょ」
ケンジは黙った。それは、まあ、そうだった。
「田村くんとは」と道子が言いかけて、止まった。
「話は終わり」ケンジは言った。
「分かった」道子は引いた。「ご飯食べな」
お味噌汁を飲みながら、ケンジは今日のことを少し考えた。高架下で一人でいたこと。ナツが来たこと。浜田書房。「売らない本」。明日また来る約束。
一日の中で、高架下でぼんやりしていた時間を除くと、ナツと話した一時間が一番まともだった気がした。
それで十分だ、とケンジは思った。
翌朝、ケンジが高架下を通って浜田書房の方へ向かっていると、ナツが走ってきた。
「ケンジ! 大変!」
「何?」
「本がなくなってた!」ナツは息を切らしながら言った。「さっき浜田のおじさんに会ったら、棚を探したら本がなかったって!」
「なくなった? 売っちゃったとか?」
「売らない本だって言ってたでしょ。だから変なの」
「他の場所に移したとか」
「おじさんも分からないって言ってた。確かに昨日まであったのに、今朝確認したらなかった、って」
ケンジは少し考えた。「それって」
「うん」ナツは言った。「誰かが持って行ったんじゃないかって、おじさんが」
夏の朝の光の中で、二人は向かい合った。
頭上でちょうど可部線の電車が通過した。轟音が二人を包み、そして静かになった。あき亀山方向へ向かう電車だ。その音が遠ざかってから、ケンジは口を開いた。
「浜田さんに話を聞きに行こう」とケンジは言った。「何があったか、ちゃんと聞いてみよう」
「うん!」
二人はアーケードの方へ歩き始めた。
その日がすべての始まりだった、とケンジは後から思うことになる。
つづく
八月というのは、正直に言うと、ケンジには少し敵だった。
夏休みの最初の一週間くらいは好きだ。学校がなくて、宿題はまだ先で、どこへでも行けるような気がして、朝から何となく興奮している。でも八月に入った頃から、その興奮が少しずつ違う色に変わっていく。一人でいる時間が増えて、考えすぎて、夜に布団の中で天井を見つめる時間が長くなる。
今年の八月は、特にそうだった。
松本ケンジは午前十時に、JR横川駅の高架下にある、いつもの場所にもたれていた。
横川駅は高架駅だ。山陽本線と可部線が高架の上を走り、その下に太い柱と壁が並んでいる。駅の南口から出ると、目の前に広電の路面電車の停留場があって、ちょうど7号線か8号線がキーンという独特の音を立てて発着している。その少し先に商店街のアーケードが伸びていて、昭和二十七年に作られたという古いアーケードが夏の日差しを遮ってくれる。
ケンジが好きなのは、高架の柱が何本も並ぶあの空間だ。商店街の外れ、高架の下にある少し奥まった場所。天井はコンクリートで、電車が通るたびに轟音と振動が来て、またすぐ静かになる。風が太田川放水路の方から吹いてくることもある。夏でも日が当たらないぶん、少しだけひんやりしている。
持ってきた本は、最初の二ページで読む気が失せた。飲みかけのスポーツドリンクは、すでにぬるい。商店街のアーケードの向こうには夏の光が溢れていて、どこかから祭囃子の練習音が聞こえてきた。もうすぐ横川商店街の夏祭りだ。
一人で来た理由を、ケンジはあまり考えたくなかった。
考えると、また胸の中の重いものに触れることになる。夏休みが始まる直前にクラスで起きたこと。田村のこと。ケンジが言った言葉。田村の顔。
ぬるいスポーツドリンクを一口飲んだ。
頭上で山陽本線の電車が通過した。
轟音が体を揺らして、そして静かになって、また静かな夏が戻ってくる。ケンジはこのリズムが昔から好きだった。電車が来て、電車が行く。ちゃんと繰り返す。しばらくすると今度は可部線の電車が来る。山陽本線より少し軽い音がする。この二種類の音の違いを、ケンジは子供の頃から聞き分けられた。
「ねえ、そこ涼しい?」
声がした。
ケンジが顔を上げると、高架下の入口のところに、知らない子が立っていた。
最初、男の子だと思った。短い髪を後ろで小さく結んでいて、黄色いTシャツに短パン、スニーカーという格好。ちょっと焼けた肌。でも声を聞いた後によく見ると、女の子だった。ケンジと同じくらいか、少し下くらいの年齢に見える。
「涼しい」とケンジは答えた。
「入っていい?」
「別に、俺のものじゃないし」
「じゃあ入る」
その子はごく自然に高架下に入ってきて、ケンジの二メートルほど隣の柱にもたれた。カバンからペットボトルの麦茶を出して飲んだ。それから「暑いね、今日」と言った。
「暑い」とケンジは言った。
「夏って毎年こんなに暑かったっけ」
「こんなもんじゃないの」
「去年はもうちょっとマシだった気がする」
「去年の夏の気温、覚えてるの?」
「覚えてない」とその子は言った。「でもこんなに暑くなかったと思う」
なんとなく会話になった。ケンジは一人でいたかったはずだが、不思議とこの会話は不快じゃなかった。相手が「ねえ悩みでもあるの?」とか「なんでそんな顔してるの?」とか、そういうことを聞いてこないからかもしれない。ただ「暑い」と言っているだけだ。
「ここの子じゃないよね」とケンジは言った。「見たことない顔だ」
「うん、夏だけ来てる。おじいちゃんの家があって」
「横川に?」
「うん、商店街の近く。でもおじいちゃんはもういないから、家の整理に来た。お父さんとお母さんと」
「あ」ケンジは少し間を置いた。「それは……大変だね」
「まあね」とその子は言った。さっぱりした口調で。「でも、横川に来るのは嫌いじゃない。好きな場所だから」
「そうなんだ」
「ここも好きかもしれない」とその子は高架下を見回した。「なんかいい。屋根みたいで」
「電車が通ると、すごい音するけど」
「それが好き」
ケンジは少し笑った。久しぶりに笑った気がした。
「名前は?」とその子が聞いた。
「ケンジ。松本ケンジ」
「ナツ。岡本ナツ」
「ナツって、夏?」
「八月生まれだから」とナツは言った。「ちょうど今月が誕生日」
「え、おめでとう」
「ありがと、まだだけど」ナツは少し嬉しそうに言った。「ケンジは何してたの? 何もしてなさそうだったけど」
「何もしてなかった」ケンジは素直に言った。
「なんで?」
「一人だから」
「一人でいたいの?」
ケンジは少し考えた。「そういうわけじゃないけど」と答えた。
「じゃあ来る?」とナツは言った。
「どこに?」
「古本屋。浜田書房っていう。おじいちゃんと仲良しだったおじさんがいるから、挨拶しに行こうと思ってた」
「知らない人のところに、なんで俺が」
「一人で行くのは緊張するから」ナツはあっさりと言った。「一緒に行ってくれたら嬉しい」
言い方が、変に正直だった。「緊張するから一緒に来て」というのを、普通の子はあまりそのまま言わない。格好悪いから。でもナツはそれをそのまま言った。
「分かった」とケンジは立ち上がった。「行ってみる」
浜田書房は、商店街のアーケードをまっすぐ行って、右に折れたところにある。間口の狭い、縦長の店だ。外に古本が並んでいて、中に入ると本の匂いがする。ケンジは何度か前を通ったことはあるが、入ったことはなかった。
「こんにちは」とナツが暖簾をくぐって言った。
奥から「はい」という声がした。低くて、ゆっくりした声だ。
浜田トシオは、想像していたよりずっと「本の人」だった。五十五歳くらいで、白髪混じりの頭、丸い眼鏡、薄いベージュのシャツ。カウンターの向こうで本を読んでいて、お客が来ても立ち上がらないタイプの人だ。
しかしナツを見た時、眼鏡の奥の目が少し変わった。
「ナツちゃんか」と浜田は言った。「大きくなったね」
「一年ぶりです」とナツは言った。「おじいちゃんの家に来ました。整理で」
「そうか」浜田はゆっくり立ち上がった。「わざわざ来てくれたか」
「はい。あと……お願いがあって」
「お願い?」
「おじいちゃんに贈った本、見せてもらえませんか。前に少しだけ聞いたことがあって。おじいちゃんの書いた本が、ここにあるって」
浜田の顔が、わずかに動いた。ケンジは、大人の顔の「微妙な動き」を読むのが得意だったが、この時の浜田の表情は読めなかった。嬉しいとも困るとも言えない、複雑な何かだった。
「横川ものがたり」と浜田は言った。「シンジが贈ってくれた本だ」
「はい。一度読んでみたくて」
「ここには置いてある。売り物じゃない。見るだけなら——」
「ありがとうございます!」ナツが明るく言った。
「明日来てくれるか。今日は棚の奥に入っていて、すぐには出せない」
「分かりました。明日来ます!」
ナツは満足そうだった。ケンジは横で見ながら「そういう流れか」と思っていた。
帰り道、商店街のアーケードを二人で歩きながら、ナツは上機嫌だった。アーケードの外側から夏の光が差し込んできて、石畳を斜めに照らしている。
「良かった。明日また来れる」
「その本、よほど読みたいんだね」
「おじいちゃんが書いた本だから」ナツは言った。「おじいちゃんって、あんまりいろんな話をしてくれない人だったの。物静かで。でも本の中には、その人の言いたいことが全部ある、って聞いたことがあって」
「誰から?」
「忘れた。でも、そう思ってる」
ケンジは「そうかもしれない」と思った。自分が好きな本の作者のことを、ケンジは「この人はこんな人だったのかも」と想像することが時々ある。
「ケンジ、明日も来る?」とナツが聞いた。
「え」
「一緒に来てくれたら嬉しいけど」
また、正直な言い方だった。ケンジは少し考えて「まあ、暇だし」と言った。
「やった」
「別に大したことじゃないし」
「それでもやった」
アーケードを抜けたところで、広電の路面電車が目の前をキーンと音を立てて通り過ぎた。7号線だ。紙屋町方面へ行く電車。ケンジは子供の頃から、この音が好きだった。JRの重厚な轟音とは違う、路面電車特有の軽くて懐かしい音。
「あの電車、かわいいね」とナツが言った。
「広電。広島の路面電車」
「乗ったことある?」
「ある。広島駅とか紙屋町とか行く時に使う」
「横川からどこまで行けるの?」
「7号線で広電本社前とか広島港まで行ける。8号線で江波まで。でもうちの学校はJRで一駅の広島の方が速いから、普段は使わないかな」
「ふーん」ナツは路面電車が去っていった方向を見ながら言った。「次に来た時に乗ってみよう」
その夜、ケンジが家に帰って夕飯を食べながら、母の道子が「今日は誰かと遊んでたの?」と聞いた。
「知らない子とちょっと話した」
「男の子? 女の子?」
「女の子。ナツっていう。夏休みだけここに来てるって」
「へえ」道子は少し嬉しそうな顔をした。「良かった。最近ずっと一人だったじゃない」
「一人が嫌なわけじゃないけど」
「でも一人が良かったわけでもないでしょ」
ケンジは黙った。それは、まあ、そうだった。
「田村くんとは」と道子が言いかけて、止まった。
「話は終わり」ケンジは言った。
「分かった」道子は引いた。「ご飯食べな」
お味噌汁を飲みながら、ケンジは今日のことを少し考えた。高架下で一人でいたこと。ナツが来たこと。浜田書房。「売らない本」。明日また来る約束。
一日の中で、高架下でぼんやりしていた時間を除くと、ナツと話した一時間が一番まともだった気がした。
それで十分だ、とケンジは思った。
翌朝、ケンジが高架下を通って浜田書房の方へ向かっていると、ナツが走ってきた。
「ケンジ! 大変!」
「何?」
「本がなくなってた!」ナツは息を切らしながら言った。「さっき浜田のおじさんに会ったら、棚を探したら本がなかったって!」
「なくなった? 売っちゃったとか?」
「売らない本だって言ってたでしょ。だから変なの」
「他の場所に移したとか」
「おじさんも分からないって言ってた。確かに昨日まであったのに、今朝確認したらなかった、って」
ケンジは少し考えた。「それって」
「うん」ナツは言った。「誰かが持って行ったんじゃないかって、おじさんが」
夏の朝の光の中で、二人は向かい合った。
頭上でちょうど可部線の電車が通過した。轟音が二人を包み、そして静かになった。あき亀山方向へ向かう電車だ。その音が遠ざかってから、ケンジは口を開いた。
「浜田さんに話を聞きに行こう」とケンジは言った。「何があったか、ちゃんと聞いてみよう」
「うん!」
二人はアーケードの方へ歩き始めた。
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