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第四章「さくら、来る」
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第四章「さくら、来る」
その翌朝、女性は店の中に入ってきた。
開店から三十分ほど経ったころ、義雄がモーニングを食べ終えて「そういえば昨日の市、えかったのう」と話している最中に、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
奏が言うより先に、義雄が振り返った。
女性は三十代の半ばに見えた。黒いウールのコートを着て、肩にはトートバッグ。髪は短く、顔立ちは静かで、目だけが何か鋭いものを持っていた。横川の人間ではない、と奏はすぐに思った。観光客にも見えないが、仕事でここに来た風でもない。
「一人です」
「どうぞ」と奏は言った。「どちらでも」
女性は少し迷ってから、カウンターの二番目の席に座った。端から二番目。一番端を避けたが、できるだけ端に近い席を選んだ。
「コーヒーをください。ホットで」
「はい。何かお好みはありますか。酸味が強いのと、苦みが強いのと」
「……どちらでも、お任せします」
奏は女性の顔をもう一度見た。疲れている。旅をしてきたのかもしれない。目の奥に何かを抱えている。
奏は豆を選んだ。エチオピアのイルガチェフェを少し、コスタリカを多めに。華やかさと穏やかさを混ぜた、少しだけ特別なブレンド。
なぜこのブレンドにしたのか、奏自身も咄嗟には説明できなかった。ただ、手がそちらへ動いた。
義雄は女性にひと目挨拶してから、「ほな、ワシは行くかの」と席を立った。
女性は一人でカウンターに向かって、コーヒーが来るのを待った。
奏はドリップの間、何も言わなかった。カップを温めて、ゆっくりお湯を注いで、静かに出した。
「どうぞ」
女性はカップを両手で持って、一口飲んだ。目が少し、柔らかくなった。
「おいしい」
「ありがとうございます」
それきり、しばらく沈黙が続いた。
奏は他の仕込みをしながら、時おり女性の方を見た。女性はコーヒーを飲みながら、カウンターの天板をじっと見ている。何かを考えているのか、あるいは何かを抑えているのか、判断しにくかった。
十分ほどして、美代が顔を出した。
「おはようさん——あら、見ない顔ね」
美代は屈託なく女性に話しかけた。奏はこういう時、美代のこの性格に助けられる。
「横川は初めて?」
「はい」と女性は言った。「昨日から来ています」
「観光? 仕事?」
「ちょっと、探し物があって」
「探し物?」美代は興味津々といった顔で奏を見た。「奏ちゃん、知ってる?」
「初めてのお客さんですよ」
「あら、そうなの。ごめんなさいね、この辺の人なら何でも知ってるんじゃないかと思って」と美代は笑った。「何を探してるの?」
女性は少し間を置いた。
「人を探しています」
「人?」
「ええ、まあ……」
女性の視線が、一瞬だけ奏の方に向いた。ほんの一瞬。それからすぐに、カップに戻った。
奏は気づいたが、気づかないふりをして布巾を動かした。
美代はそれから二十分ほど、女性の隣に座っておしゃべりをした。
横川の歴史、商店街のこと、手しごと市のこと。女性は相槌を打ちながら、時々質問をした。二十年くらい前の横川のことも聞いた。美代は喜んで答えた。あの頃はまだ商店街がにぎやかで、映画館もあって、駅前に食堂が三軒並んでいた。いまは一軒しか残っていない。
「この路地はずっとこのままだけどね」と美代は言った。「うちの花屋もそうだし、向かいのクリーニング屋さんも、昔からある。変わらないところが、横川の良いところよ」
「この路地に、昔カフェがあったという話はご存知ですか」
奏の手が止まった。気づかれないように、すぐに動かした。
「カフェ?」と美代は首を傾けた。「この店のこと?」
「いえ、ここより前に」
「うーん、記憶があいまいねえ。片岡さんの美容室の前に何かあったのは聞いたことがあるけど……奏ちゃん、知ってる?」
「少しだけ」と奏は言った。「短い期間だったようです」
「そう」と女性は言った。「そうですか」
その声に、何かが混じっていた。奏はカップを拭きながら、女性の横顔を見た。
何かを知っている目をしている。あるいは知っていたことを確かめに来た目。
奏の心の中で、何かが小さく動いた。
女性はコーヒーをもう一杯頼んだ。
今度は奏から聞いた。「同じブレンドでいいですか」と。
「はい」と女性は言った。それから少し迷ってから、「このコーヒー、誰かに似てる気がして」と言った。
「似てる?」
「香りが。昔、父が飲んでたコーヒーに」
奏はコーヒーを淹れながら、何も言わなかった。
「変なことを言ってすみません」と女性は言った。「ずっと探してる人がいて、そのせいか、なんでも結びつけてしまうみたいで」
「探している人の話を、聞かせてもらってもいいですか」
奏が聞いたのは、自分でも意外だった。こういう質問はしないことにしている。客の事情に踏み込まない。それがこの店の作法だ。
だが、口をついて出た。
女性は少し驚いた顔をしてから、トートバッグの中に手を入れた。何かを取り出そうとして——そして、やめた。
「……また今度、にしてもいいですか」
「もちろんです」
「また来てもいいですか」
「いつでも」
女性はコーヒーを飲み干して、席を立った。
「宮本といいます」と女性は言った。「宮本さくら」
「桐島です」と奏は言った。「桐島奏」
宮本さくらは、奏の名前を聞いた瞬間、ほんの少しだけ目を細めた。
それは驚きだったのか、確認だったのか、それとも何か別のものだったのか。
奏には分からなかった。
さくらは会計を済ませて、扉を開けた。北向きのガラスを背にして、路地の向こうへ消えていった。
その日の夕方、奏は閉店作業をしながら、宮本さくらのことを考えた。
トートバッグの中に手を入れて、取り出すのをやめた、あの瞬間。何を取り出そうとしたのか。奏には見えなかったが、厚みのある、手帳か本のようなものだった。
父が飲んでいたコーヒーに似ている、と彼女は言った。
父。
さくらの父。
奏は八番目の席の前に立って、手のひらをゆっくりとその天板の上に置いた。今日も、誰も座らなかった。
いや、待て。
奏は考えた。さくらが座ったのは二番目の席だった。しかし昨日、路地の入り口に立っていた女性は、こちらをじっと見ていた。八番目の席の方を。
気のせいかもしれない。薄暗かったし、角度もある。
それでも、奏の中で何かが静かに揺れていた。
コーヒーの残り香が、まだ店の中に漂っている。あのブレンド。奏が今日、さくらのために選んだ豆の組み合わせ。
なぜあのブレンドにしたのか、今なら少し分かる気がした。
だがまだ、確信には遠い。
奏は鍵を閉め、二階へ上がった。本棚の前に立って、背表紙のない古い文庫本を見た。取り出しはしない。ただ、そこにあることを確かめる。
明日、さくらはまた来るだろうか。
奏は答えの出ない問いを抱えたまま、横川の夜に入っていった。
つづく
その翌朝、女性は店の中に入ってきた。
開店から三十分ほど経ったころ、義雄がモーニングを食べ終えて「そういえば昨日の市、えかったのう」と話している最中に、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
奏が言うより先に、義雄が振り返った。
女性は三十代の半ばに見えた。黒いウールのコートを着て、肩にはトートバッグ。髪は短く、顔立ちは静かで、目だけが何か鋭いものを持っていた。横川の人間ではない、と奏はすぐに思った。観光客にも見えないが、仕事でここに来た風でもない。
「一人です」
「どうぞ」と奏は言った。「どちらでも」
女性は少し迷ってから、カウンターの二番目の席に座った。端から二番目。一番端を避けたが、できるだけ端に近い席を選んだ。
「コーヒーをください。ホットで」
「はい。何かお好みはありますか。酸味が強いのと、苦みが強いのと」
「……どちらでも、お任せします」
奏は女性の顔をもう一度見た。疲れている。旅をしてきたのかもしれない。目の奥に何かを抱えている。
奏は豆を選んだ。エチオピアのイルガチェフェを少し、コスタリカを多めに。華やかさと穏やかさを混ぜた、少しだけ特別なブレンド。
なぜこのブレンドにしたのか、奏自身も咄嗟には説明できなかった。ただ、手がそちらへ動いた。
義雄は女性にひと目挨拶してから、「ほな、ワシは行くかの」と席を立った。
女性は一人でカウンターに向かって、コーヒーが来るのを待った。
奏はドリップの間、何も言わなかった。カップを温めて、ゆっくりお湯を注いで、静かに出した。
「どうぞ」
女性はカップを両手で持って、一口飲んだ。目が少し、柔らかくなった。
「おいしい」
「ありがとうございます」
それきり、しばらく沈黙が続いた。
奏は他の仕込みをしながら、時おり女性の方を見た。女性はコーヒーを飲みながら、カウンターの天板をじっと見ている。何かを考えているのか、あるいは何かを抑えているのか、判断しにくかった。
十分ほどして、美代が顔を出した。
「おはようさん——あら、見ない顔ね」
美代は屈託なく女性に話しかけた。奏はこういう時、美代のこの性格に助けられる。
「横川は初めて?」
「はい」と女性は言った。「昨日から来ています」
「観光? 仕事?」
「ちょっと、探し物があって」
「探し物?」美代は興味津々といった顔で奏を見た。「奏ちゃん、知ってる?」
「初めてのお客さんですよ」
「あら、そうなの。ごめんなさいね、この辺の人なら何でも知ってるんじゃないかと思って」と美代は笑った。「何を探してるの?」
女性は少し間を置いた。
「人を探しています」
「人?」
「ええ、まあ……」
女性の視線が、一瞬だけ奏の方に向いた。ほんの一瞬。それからすぐに、カップに戻った。
奏は気づいたが、気づかないふりをして布巾を動かした。
美代はそれから二十分ほど、女性の隣に座っておしゃべりをした。
横川の歴史、商店街のこと、手しごと市のこと。女性は相槌を打ちながら、時々質問をした。二十年くらい前の横川のことも聞いた。美代は喜んで答えた。あの頃はまだ商店街がにぎやかで、映画館もあって、駅前に食堂が三軒並んでいた。いまは一軒しか残っていない。
「この路地はずっとこのままだけどね」と美代は言った。「うちの花屋もそうだし、向かいのクリーニング屋さんも、昔からある。変わらないところが、横川の良いところよ」
「この路地に、昔カフェがあったという話はご存知ですか」
奏の手が止まった。気づかれないように、すぐに動かした。
「カフェ?」と美代は首を傾けた。「この店のこと?」
「いえ、ここより前に」
「うーん、記憶があいまいねえ。片岡さんの美容室の前に何かあったのは聞いたことがあるけど……奏ちゃん、知ってる?」
「少しだけ」と奏は言った。「短い期間だったようです」
「そう」と女性は言った。「そうですか」
その声に、何かが混じっていた。奏はカップを拭きながら、女性の横顔を見た。
何かを知っている目をしている。あるいは知っていたことを確かめに来た目。
奏の心の中で、何かが小さく動いた。
女性はコーヒーをもう一杯頼んだ。
今度は奏から聞いた。「同じブレンドでいいですか」と。
「はい」と女性は言った。それから少し迷ってから、「このコーヒー、誰かに似てる気がして」と言った。
「似てる?」
「香りが。昔、父が飲んでたコーヒーに」
奏はコーヒーを淹れながら、何も言わなかった。
「変なことを言ってすみません」と女性は言った。「ずっと探してる人がいて、そのせいか、なんでも結びつけてしまうみたいで」
「探している人の話を、聞かせてもらってもいいですか」
奏が聞いたのは、自分でも意外だった。こういう質問はしないことにしている。客の事情に踏み込まない。それがこの店の作法だ。
だが、口をついて出た。
女性は少し驚いた顔をしてから、トートバッグの中に手を入れた。何かを取り出そうとして——そして、やめた。
「……また今度、にしてもいいですか」
「もちろんです」
「また来てもいいですか」
「いつでも」
女性はコーヒーを飲み干して、席を立った。
「宮本といいます」と女性は言った。「宮本さくら」
「桐島です」と奏は言った。「桐島奏」
宮本さくらは、奏の名前を聞いた瞬間、ほんの少しだけ目を細めた。
それは驚きだったのか、確認だったのか、それとも何か別のものだったのか。
奏には分からなかった。
さくらは会計を済ませて、扉を開けた。北向きのガラスを背にして、路地の向こうへ消えていった。
その日の夕方、奏は閉店作業をしながら、宮本さくらのことを考えた。
トートバッグの中に手を入れて、取り出すのをやめた、あの瞬間。何を取り出そうとしたのか。奏には見えなかったが、厚みのある、手帳か本のようなものだった。
父が飲んでいたコーヒーに似ている、と彼女は言った。
父。
さくらの父。
奏は八番目の席の前に立って、手のひらをゆっくりとその天板の上に置いた。今日も、誰も座らなかった。
いや、待て。
奏は考えた。さくらが座ったのは二番目の席だった。しかし昨日、路地の入り口に立っていた女性は、こちらをじっと見ていた。八番目の席の方を。
気のせいかもしれない。薄暗かったし、角度もある。
それでも、奏の中で何かが静かに揺れていた。
コーヒーの残り香が、まだ店の中に漂っている。あのブレンド。奏が今日、さくらのために選んだ豆の組み合わせ。
なぜあのブレンドにしたのか、今なら少し分かる気がした。
だがまだ、確信には遠い。
奏は鍵を閉め、二階へ上がった。本棚の前に立って、背表紙のない古い文庫本を見た。取り出しはしない。ただ、そこにあることを確かめる。
明日、さくらはまた来るだろうか。
奏は答えの出ない問いを抱えたまま、横川の夜に入っていった。
つづく
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