僕がここでカフェを始めた理由

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第五章「コーヒーと沈黙」

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第五章「コーヒーと沈黙」

 宮本さくらは、翌日も来た。
 その次の日も来た。
 最初は黙ってコーヒーを飲んで帰るだけだったが、三日目には「今日は何が入ってますか」と聞いた。四日目には「昨日のより少し酸味が強いですね」と言った。五日目には、奏が「お気づきになりましたか」と答えて、短い会話が生まれた。
 さくらはいつも二番目の席に座った。一番端でなく、端から二番目。奏はその選択が、何か意味を持っているのかもしれないと思ったが、聞かなかった。
 六日目、さくらが珍しく少し早い時間に来た。義雄がまだいる時間だ。
「あら、また来たね」と義雄が言った。「横川の人じゃないよね、どこから来たん?」
「岡山です」
「岡山から。観光?」
「ちょっと用があって」
「用、か。長くなりそうじゃね。毎日来とるし」
 さくらは少し笑った。
「そうですね。長くなりそうです」
 七日目、さくらは奏に言った。
「父が、横川の近くで働いていたことがあると聞きました」
 奏はコーヒーをドリップしながら、手を動かし続けた。
「そうですか」
「詳しくは知らないんですけど。昔、カフェをやっていたと。小さな店を」
「いつ頃のことですか」
「二十年くらい前、と聞いています。それほど長く続けられなかったみたいで」
「……どんなお父さんでしたか」
 さくらは少し考えた。
「不器用な人でした。あまりしゃべらなくて、でもよく笑う。料理が好きで、コーヒーが好きで」
「お名前は」
「宮本隆といいます」
 奏は、コーヒーをドリップするお湯の速度を、意識的に変えなかった。
 手が揺れなかった。声も変えなかった。ただ、視線だけが、コーヒーの落ちていくサーバーの底に、一瞬だけ吸い込まれた。
「今は」と奏は言った。
「七年前に亡くなりました」
「そうですか」
「病気でした。あっという間で」
「……それは」
「大丈夫です」とさくらは言った。「もう、慣れました。慣れるものですね、七年経つと」
 奏はコーヒーを出した。今日のブレンドは、少し深煎りにした。
 さくらは一口飲んで、目を伏せた。
「やっぱり、何かが似てる」
「何が」
「父が淹れるコーヒーに。香りじゃなくて……なんというか、温度が」
 奏は何も言わなかった。
 さくらも、それ以上は言わなかった。
 その日から、さくらの話が少しずつ増えた。
 父・隆のこと。岡山で育ったこと。大学を出て、今は出版社で働いていること。横川には有給休暇を使って来ていること。もうすぐ一週間が経つが、あと少しいようと思っていること。
 奏は聞いた。ほとんど何も言わずに、ただ聞いた。
 さくらは「マスターは聞き上手ですね」と言った。
「口が重いだけです」
「そういう人の方が、しゃべりやすいんですよ。余計なことを言わないから」
「余計なことを言うと困りますか」
「困るというより……」さくらは少し考えた。「何かを言ってもらいたくない、ということがあるじゃないですか。それでもしゃべりたい時に、余計なことを言わない人は助かります」
「何かを言ってもらいたくないこと、というのは」
「たとえば」とさくらは言った。「父のことを、誰かに責める気持ちはあるか、とか。何しに来たんですか、とか」
 奏は黙った。
「実は私も、自分でよく分からないんです。何しに来たのか。父の跡を確かめたかっただけなのか、それとも——」
 さくらはそこで止まった。
「それとも?」
「もう一人、探している人がいる。父のことを知っているかもしれない人」
 奏は布巾を畳んだ。
「その人に、会えそうですか」
「……たぶん、もう会っています」
 さくらは奏の顔を見た。真っ直ぐに、初めて真正面から。
 奏は視線を受け止めた。逸らさなかった。
 しばらく、二人の間に沈黙があった。北向きのガラスを通して、静かな光が店の中に満ちていた。
「コーヒー、もう一杯いただけますか」
「はい」
 奏はカップを温め直した。今度はどのブレンドにするか、少し考えた。
 答えはすぐに出た。
 最初の日と、同じブレンドにした。
 その夜、奏は二階の部屋で、珍しく長い時間を椅子に座って過ごした。
 もう会っている、とさくらは言った。
 奏は、その言葉の意味を考えた。さくらが探しているのは自分のことだと、おそらくそうだと、奏は七日前から薄々感じていた。宮本という名字。父が横川でカフェをやっていた、という話。コーヒーの香りが似ていると言ったこと。
 しかし確信はない。
 そして確信があったとして、奏は何をすべきなのか、分からなかった。
 さくらの父・宮本隆。
 その名を、奏は二十年以上聞いていなかった。だが一日も、忘れたことはない。
 料理の道を一緒に志した。東京で同じ厨房に立った。笑うとよく顔が皺くちゃになる男だった。コーヒーが好きで、八という数字が好きで、北向きの光が正直だと言っていた男。
 奏が東京を去る時、隆はまだそこにいた。
 その後のことは、人づてにしか聞いていない。隆が病気になったこと。広島に帰ったこと。横川で小さな店をやったこと。そして——亡くなったこと。
 それを聞いた日、奏は一人で、昼間から酒を飲んだ。それきりだった。
 今、隆の娘がここにいる。
 奏は本棚の前に立って、背表紙のない文庫本を見た。
 触れた。取り出した。
 開かなかった。
 ただ、表紙の手触りを確かめて、また本棚に戻した。
 窓の外に、横川の夜がある。どこかで犬が吠える声がした。路地の向こうのどこかで、誰かが笑っている。
 奏は窓を少し開けて、夜の空気を吸い込んだ。
 明日、さくらはまた来るだろう。
 そしておそらく、もうすぐ、何かが動き始める。

つづく
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