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第七章「拓海の決断」
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第七章「拓海の決断」
十二月の第一週に、拓海が奏に言った。
「就活、やめることにしました」
奏はコーヒーを淹れながら、聞いた。
「やめた、というのは諦めたということですか」
「違います。県外に出るのをやめた、ということです。横川にいることにした」
「お父さんの会社ですか」
「それも違います。別のことをしようと思って」
拓海はアメリカーノを一口飲んで、少し照れたように続けた。
「実はこの商店街に、空き店舗があるじゃないですか。一個だけ、いい立地のが出てて。そこで、何か始めようかと思ってて」
「何を」
「まだ決まってないんですけど、でも横川でやりたいのは決まった。それだけは決まった」
奏は静かに頷いた。
「いい決断だと思います」
「マスターにそう言ってもらえると、なんか少し安心します。なんでですかね」
「さあ」
「マスターって、なんで横川にしたんですか。他の場所でもできたでしょうに」
奏はコーヒーカップを拭きながら、静かに言った。
「ここに来るべき理由があった、と思っています」
「理由って?」
「探していたものが、ここにあった」
「何を探してたんですか」
奏は少し間を置いた。
「俺も昔、捨てたものがある」
さくらがその言葉を聞いたのは、偶然だった。ちょうどその時、さくらが扉を開けて入ってきたのだ。奏の声が聞こえた。「俺も昔、捨てたものがある」。
さくらは扉の前で一瞬止まった。それから何事もなかったように二番目の席に向かって、「おはようございます」と言った。
「いらっしゃいませ」と奏は言った。さくらの顔を見た。
さくらは奏の目を見て、ゆっくりと頷いた。聞こえていた、という意味ではなかった。ただ、今日は話しましょう、という意味だった。
拓海が帰ったのは昼前だった。
店には奏とさくらだけになった。珍しく、他の客もいない時間。北向きのガラスに、冬の淡い光が満ちている。
「さっき、捨てたものがある、って言ってましたね」とさくらは言った。
「聞こえてましたか」
「少しだけ。聞こえていないふりをしようかと思ったんですけど」
「正直に言ってくれて、ありがとうございます」
「マスターが正直な場所を作ってるから、私も正直になれるのかもしれないです。北向きの光みたいに」
奏はカウンターに両肘をついて、さくらと目の高さを合わせた。それは今まで一度もしなかった姿勢だ。
「少しだけ、話します」と奏は言った。
「はい」
「二十年以上前、俺は東京で料理をやっていました。料理人を目指して、修業していた。同じ厨房に、親しい人間がいました」
「父ですか」
奏は答えなかった。答えない、ということが答えだった。
「その人が病気になった時、俺は側にいなかった。いられる状況ではなかった、とも言えるし、逃げた、とも言える。どちらが正しいのか、今でも分からない」
さくらは黙って聞いていた。
「その後、俺は料理の世界からも離れた。いくつかの仕事を転々として、最終的にコーヒーに行き着いた。コーヒーは料理に似ていて、でも料理より一人でやれる。それが都合よかった」
「都合よかった、というのは」
「人と組む必要がない。自分一人で完結する。誰かを巻き込まなくて済む」
さくらは少し考えてから言った。「それは、また誰かを見捨てないために、ですか」
奏は黙った。
「違ったらすみません」とさくらは言った。
「……違わない、かもしれない」
その日の午後、二人はしばらく黙ったままコーヒーを挟んでいた。
沈黙は重くなかった。HUITでの沈黙はいつもそうだ。話さなくても、ここにいることが許されている。
やがてさくらが言った。
「父は、あなたのことを恨んでいなかったと思います」
奏は顔を上げた。
「……なぜそう思う?」
「手帳に書いてありました。父の、古い手帳に」
「何が書いてあったんですか」
さくらはトートバッグに手を入れた。また迷うかと思ったが、今日は違った。茶色い表紙の古い手帳を取り出して、テーブルの上に置いた。
「全部は、まだ読ませることができなくて。でも一つだけ、言えることがある」
「はい」
「父は、あなたのことを待っていた。場所を、用意していた」
奏は動けなかった。
「場所、を」
「それ以上は、もう少し後で」とさくらは言った。「今日は、ここまでにしてください」
「分かりました」
さくらは手帳をバッグに戻した。
奏はカウンターに立ったまま、しばらく動かなかった。
場所を用意していた。
その言葉が、奏の中で反響していた。嬉しさでも悲しさでもない、何か名前のない感情が、胸の中でゆっくりと広がっていた。
つづく
十二月の第一週に、拓海が奏に言った。
「就活、やめることにしました」
奏はコーヒーを淹れながら、聞いた。
「やめた、というのは諦めたということですか」
「違います。県外に出るのをやめた、ということです。横川にいることにした」
「お父さんの会社ですか」
「それも違います。別のことをしようと思って」
拓海はアメリカーノを一口飲んで、少し照れたように続けた。
「実はこの商店街に、空き店舗があるじゃないですか。一個だけ、いい立地のが出てて。そこで、何か始めようかと思ってて」
「何を」
「まだ決まってないんですけど、でも横川でやりたいのは決まった。それだけは決まった」
奏は静かに頷いた。
「いい決断だと思います」
「マスターにそう言ってもらえると、なんか少し安心します。なんでですかね」
「さあ」
「マスターって、なんで横川にしたんですか。他の場所でもできたでしょうに」
奏はコーヒーカップを拭きながら、静かに言った。
「ここに来るべき理由があった、と思っています」
「理由って?」
「探していたものが、ここにあった」
「何を探してたんですか」
奏は少し間を置いた。
「俺も昔、捨てたものがある」
さくらがその言葉を聞いたのは、偶然だった。ちょうどその時、さくらが扉を開けて入ってきたのだ。奏の声が聞こえた。「俺も昔、捨てたものがある」。
さくらは扉の前で一瞬止まった。それから何事もなかったように二番目の席に向かって、「おはようございます」と言った。
「いらっしゃいませ」と奏は言った。さくらの顔を見た。
さくらは奏の目を見て、ゆっくりと頷いた。聞こえていた、という意味ではなかった。ただ、今日は話しましょう、という意味だった。
拓海が帰ったのは昼前だった。
店には奏とさくらだけになった。珍しく、他の客もいない時間。北向きのガラスに、冬の淡い光が満ちている。
「さっき、捨てたものがある、って言ってましたね」とさくらは言った。
「聞こえてましたか」
「少しだけ。聞こえていないふりをしようかと思ったんですけど」
「正直に言ってくれて、ありがとうございます」
「マスターが正直な場所を作ってるから、私も正直になれるのかもしれないです。北向きの光みたいに」
奏はカウンターに両肘をついて、さくらと目の高さを合わせた。それは今まで一度もしなかった姿勢だ。
「少しだけ、話します」と奏は言った。
「はい」
「二十年以上前、俺は東京で料理をやっていました。料理人を目指して、修業していた。同じ厨房に、親しい人間がいました」
「父ですか」
奏は答えなかった。答えない、ということが答えだった。
「その人が病気になった時、俺は側にいなかった。いられる状況ではなかった、とも言えるし、逃げた、とも言える。どちらが正しいのか、今でも分からない」
さくらは黙って聞いていた。
「その後、俺は料理の世界からも離れた。いくつかの仕事を転々として、最終的にコーヒーに行き着いた。コーヒーは料理に似ていて、でも料理より一人でやれる。それが都合よかった」
「都合よかった、というのは」
「人と組む必要がない。自分一人で完結する。誰かを巻き込まなくて済む」
さくらは少し考えてから言った。「それは、また誰かを見捨てないために、ですか」
奏は黙った。
「違ったらすみません」とさくらは言った。
「……違わない、かもしれない」
その日の午後、二人はしばらく黙ったままコーヒーを挟んでいた。
沈黙は重くなかった。HUITでの沈黙はいつもそうだ。話さなくても、ここにいることが許されている。
やがてさくらが言った。
「父は、あなたのことを恨んでいなかったと思います」
奏は顔を上げた。
「……なぜそう思う?」
「手帳に書いてありました。父の、古い手帳に」
「何が書いてあったんですか」
さくらはトートバッグに手を入れた。また迷うかと思ったが、今日は違った。茶色い表紙の古い手帳を取り出して、テーブルの上に置いた。
「全部は、まだ読ませることができなくて。でも一つだけ、言えることがある」
「はい」
「父は、あなたのことを待っていた。場所を、用意していた」
奏は動けなかった。
「場所、を」
「それ以上は、もう少し後で」とさくらは言った。「今日は、ここまでにしてください」
「分かりました」
さくらは手帳をバッグに戻した。
奏はカウンターに立ったまま、しばらく動かなかった。
場所を用意していた。
その言葉が、奏の中で反響していた。嬉しさでも悲しさでもない、何か名前のない感情が、胸の中でゆっくりと広がっていた。
つづく
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