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第八章「綾乃の父の話」
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第八章「綾乃の父の話」
十二月の第二週、片岡綾乃が珍しく平日の昼間に来た。
いつもは週末か、仕事の帰りに来ることが多い綾乃が、コートを着たまま少し慌てた様子で入ってきた。
「奏さん、今少しいいですか」
「どうぞ」
カウンターには他に客がいなかった。綾乃は五番目の席に座り、ブラックコーヒーを頼んだ。いつもはカフェオレなのに、今日はブラックを頼んだ。
「父が、入院しました」
「それは……」
「大したことではないんですよ、転んで足を骨折して。でも高齢だから、しばらく入院することになって。見舞いに行ったら、遺品の整理を頼まれて。元気なのに何を言うんだと思ったんですけど、父が几帳面な人なので」
「はい」
「それで父の荷物を整理していたら、古いノートが出てきて。何十年も前のやつで、美容室をやっていた頃のことが書いてあったんですけど」
綾乃はコーヒーを一口飲んだ。
「その中に、この店のことが書いてあったんです」
奏はカウンターを拭く手を止めた。
「この物件の話、という意味ですか」
「いえ……もっと前の話です。父が美容室を始める前に、ここがカフェだった時期があったじゃないですか」
「はい」
「その頃のことが、少しだけ書いてあって。男の人が一人でカフェをやっていたこと。その人が廃業する少し前に、父に物件を紹介したこと。それと——」
綾乃はコーヒーカップを両手で持った。
「娘に会わせたい人がいる、って言ってたって。でも会えないまま逝ったって、書いてありました」
奏は動かなかった。
「父のノートに、そう書いてあった」
「はい。父も、あまり詳しくは知らなかったみたいです。ただ、その男の人がそう言っていたと」
綾乃は少し続けた。
「それだけなら、ただの昔話で終わったんですけど。一つだけ気になることがあって」
「何ですか」
「父のノートに、その男の人から聞いた言葉が書いてあって。『もし桐島という人間が訪ねてきたら、この路地を教えてあげてほしい』って」
奏は息を吐いた。音はなかったが、奏の中で何かが崩れていくような感覚があった。
「桐島、という」
「はい。奏さん、桐島さんですよね」
「はい」
「父もまさか奏さんのことだとは思っていなかったみたいで、ノートに書きとめておいた程度だったんですけど。でも今日、思い出して。関係ありますか?」
奏はしばらく黙っていた。
「……あるかもしれません」
「やっぱり。奏さんって、昔からこういう縁があるんですね。この路地に来たのも、縁がある感じがしてたんですけど」
「そうかもしれないです」と奏は言った。声がかすかに震えていた。
「あと一つ、変なことがあって」と綾乃は言った。「父のノートに、その男の人が言った言葉が書いてあって。店の名前をつけるなら何にするか、って聞いたら、『ユイット』って答えたって」
奏はカウンターに手をついた。
「ユイット、と」
「フランス語で八、だそうで。父が、なんでそんな名前にするんですかって聞いたら、『桐島が来た時のためだ』って言ったって書いてあって」
綾乃は首を傾けた。
「意味が分かります? 私には全然分からなくて」
奏は「少し待ってください」と言って、カウンターの奥へ引っ込んだ。
裏の小さなスペースに一人で立って、天井を見上げた。
HUIT。
壁の落書き。奏が見つけて、塗り替えてからカウンターの裏に書き直した、あの小さな文字。
隆が書いたのだ。
奏が来るために。
隆は知っていたのだ。奏がいつかここに来ることを。それとも、来てほしかったのか。どちらなのか——
奏は目を閉じた。
二十年以上前、東京の厨房を去る朝に、隆に何を言ったか。はっきりとは覚えていない。でも、ひどいことを言ったわけではなかったはずだ。ただ、行ってしまった。それだけだ。
それだけのことが、こんなにも長く、続いていた。
奏はカウンターに戻った。
綾乃がコーヒーを飲みながら待っていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。少し……驚きました」
「やっぱり関係ある人だったんですね」
「ええ」
「なんか、ごめんなさい。こんな話を突然」
「いいえ」と奏は言った。「教えていただいて、よかった。本当に」
綾乃は少し安心したように笑った。
「父、ここのこと気に入ってるんですよ。奏さんのコーヒーが好きで。今度、退院したら連れてきます」
「ぜひ」と奏は言った。
綾乃が帰ってから、奏は一人でカウンターに立っていた。
HUITという名前。
隆がつけた名前。
奏のために用意した、場所の名前。
奏は自分でも、なぜこの名前にしたのか、今の今まで完全に説明できていなかった。八という数字が好きだから、縁が終わらない感じがするから。それは本当だ。でも、この名前を最初に思いついた時、頭の奥のどこかで隆の声がしていた気がした。それも本当だ。
呼ばれていた。
名前ごと、呼ばれていた。
つづく
十二月の第二週、片岡綾乃が珍しく平日の昼間に来た。
いつもは週末か、仕事の帰りに来ることが多い綾乃が、コートを着たまま少し慌てた様子で入ってきた。
「奏さん、今少しいいですか」
「どうぞ」
カウンターには他に客がいなかった。綾乃は五番目の席に座り、ブラックコーヒーを頼んだ。いつもはカフェオレなのに、今日はブラックを頼んだ。
「父が、入院しました」
「それは……」
「大したことではないんですよ、転んで足を骨折して。でも高齢だから、しばらく入院することになって。見舞いに行ったら、遺品の整理を頼まれて。元気なのに何を言うんだと思ったんですけど、父が几帳面な人なので」
「はい」
「それで父の荷物を整理していたら、古いノートが出てきて。何十年も前のやつで、美容室をやっていた頃のことが書いてあったんですけど」
綾乃はコーヒーを一口飲んだ。
「その中に、この店のことが書いてあったんです」
奏はカウンターを拭く手を止めた。
「この物件の話、という意味ですか」
「いえ……もっと前の話です。父が美容室を始める前に、ここがカフェだった時期があったじゃないですか」
「はい」
「その頃のことが、少しだけ書いてあって。男の人が一人でカフェをやっていたこと。その人が廃業する少し前に、父に物件を紹介したこと。それと——」
綾乃はコーヒーカップを両手で持った。
「娘に会わせたい人がいる、って言ってたって。でも会えないまま逝ったって、書いてありました」
奏は動かなかった。
「父のノートに、そう書いてあった」
「はい。父も、あまり詳しくは知らなかったみたいです。ただ、その男の人がそう言っていたと」
綾乃は少し続けた。
「それだけなら、ただの昔話で終わったんですけど。一つだけ気になることがあって」
「何ですか」
「父のノートに、その男の人から聞いた言葉が書いてあって。『もし桐島という人間が訪ねてきたら、この路地を教えてあげてほしい』って」
奏は息を吐いた。音はなかったが、奏の中で何かが崩れていくような感覚があった。
「桐島、という」
「はい。奏さん、桐島さんですよね」
「はい」
「父もまさか奏さんのことだとは思っていなかったみたいで、ノートに書きとめておいた程度だったんですけど。でも今日、思い出して。関係ありますか?」
奏はしばらく黙っていた。
「……あるかもしれません」
「やっぱり。奏さんって、昔からこういう縁があるんですね。この路地に来たのも、縁がある感じがしてたんですけど」
「そうかもしれないです」と奏は言った。声がかすかに震えていた。
「あと一つ、変なことがあって」と綾乃は言った。「父のノートに、その男の人が言った言葉が書いてあって。店の名前をつけるなら何にするか、って聞いたら、『ユイット』って答えたって」
奏はカウンターに手をついた。
「ユイット、と」
「フランス語で八、だそうで。父が、なんでそんな名前にするんですかって聞いたら、『桐島が来た時のためだ』って言ったって書いてあって」
綾乃は首を傾けた。
「意味が分かります? 私には全然分からなくて」
奏は「少し待ってください」と言って、カウンターの奥へ引っ込んだ。
裏の小さなスペースに一人で立って、天井を見上げた。
HUIT。
壁の落書き。奏が見つけて、塗り替えてからカウンターの裏に書き直した、あの小さな文字。
隆が書いたのだ。
奏が来るために。
隆は知っていたのだ。奏がいつかここに来ることを。それとも、来てほしかったのか。どちらなのか——
奏は目を閉じた。
二十年以上前、東京の厨房を去る朝に、隆に何を言ったか。はっきりとは覚えていない。でも、ひどいことを言ったわけではなかったはずだ。ただ、行ってしまった。それだけだ。
それだけのことが、こんなにも長く、続いていた。
奏はカウンターに戻った。
綾乃がコーヒーを飲みながら待っていた。
「大丈夫ですか?」
「はい。少し……驚きました」
「やっぱり関係ある人だったんですね」
「ええ」
「なんか、ごめんなさい。こんな話を突然」
「いいえ」と奏は言った。「教えていただいて、よかった。本当に」
綾乃は少し安心したように笑った。
「父、ここのこと気に入ってるんですよ。奏さんのコーヒーが好きで。今度、退院したら連れてきます」
「ぜひ」と奏は言った。
綾乃が帰ってから、奏は一人でカウンターに立っていた。
HUITという名前。
隆がつけた名前。
奏のために用意した、場所の名前。
奏は自分でも、なぜこの名前にしたのか、今の今まで完全に説明できていなかった。八という数字が好きだから、縁が終わらない感じがするから。それは本当だ。でも、この名前を最初に思いついた時、頭の奥のどこかで隆の声がしていた気がした。それも本当だ。
呼ばれていた。
名前ごと、呼ばれていた。
つづく
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