12 / 14
第十二章「ユイット」
しおりを挟む
第十二章「ユイット」
翌週、さくらは手帳全部を持ってきた。
閉店後のHUITで、奏は三時間かけて、宮本隆の手帳を読んだ。
さくらは隣で、コーヒーを飲みながら待っていた。時々奏の顔を見て、何かを確認するように、また手帳の方に視線を向けた。
手帳には、隆の二十年分の記録があった。
東京を離れてから、広島に戻ったこと。妻を早くに亡くしたこと。一人で娘・さくらを育てたこと。横川の路地に小さな店を出したこと。体が悪くなり始めてから、店を閉めたこと。
そして、奏のことが、随所に書かれていた。
怒りはなかった。さくらが言った通りだ。ただ、奏のことを思い出した場面が書かれていた。この豆の組み合わせは奏が好きそうだとか、こういう光の中で奏と話したことがあるとか、東京の厨房の話とか。
そして、こんな一節があった。
「奏はたぶん、自分が悪いと思い続けている。そんな必要はないのに。俺が病気になったのは俺の体の問題で、奏のせいじゃない。あの時奏に側にいてほしかったかと言われれば、そりゃいてほしかった。でも、それよりもっといてほしいのは、いつか元気になった奏に会いたいということだ。俺が先に行くとしたら、後から来い。ちゃんと歩いて来い」
奏は、そのページで手が止まった。
いつか元気になった奏に会いたい。
元気に、なっていただろうか。
奏には分からなかった。でも、ここにいる。横川の、北向きのガラスの前に、ちゃんといる。
手帳の後半に、HUIT という言葉が出てきた。
「この店に名前をつけた。HUIT。フランス語で八。八という字を横にすると無限大になる。縁は終わらないということだ。奏に教えたら、面白い顔をしていた。あいつ、こういう話が好きだから。この名前を壁に書いておいた。奏が来た時に、分かるように」
奏はそのページを読んで、カウンターに額をつけそうになった。こらえた。
さくらが見ていた。
「大丈夫ですか」
「はい」
「読めましたか」
「はい」
「HUIT のページですね」
「はい。この名前を——俺がつけたつもりでいたんですが」
「父が先につけてたんですね」
「そうなりますね」
さくらは少し笑った。
「父、先に色々やっておくのが好きなんですよ。料理の仕込みも、旅の準備も、全部前倒し。せっかちというか、準備好きというか」
「知ってます」と奏は言った。「厨房でもそうでした」
「そのくせ、大事なことは人に任せるんですよね。俺がやっておくから後は頼む、みたいな。困った人です」
「本当に」と奏は言った。「困った人です」
二人は同時に笑った。
それは不思議な笑いだった。悲しさと温かさが混ざった、名前のつけにくい感情の笑い。
手帳の一番最後のページ、奏への言葉の後に、もう一段だけ文章があった。
「さくらへ。お前が手帳を読んでいるなら、たぶんもう横川に行っただろう。HUITに行けばいい。桐島奏という男がいる。不器用だが、コーヒーがうまい。それと、お前の父親の一番の親友だった。仲良くしてやってくれ」
さくらはそのページを、奏に見せながら言った。
「読みましたか」
「はい」
「一番の親友、と書いてあります」
「……はい」
「父にとって、そうだったんですね」
奏は答えられなかった。喉の奥が詰まっていた。
「俺にとっても」と奏は言った。声が出なくなりかけたが、最後まで言った。「隆さんは、そういう人でした」
さくらは静かに頷いた。
「会えてよかったです」とさくらは言った。「父の代わりに、そう言います」
奏は、その夜初めて、声を上げて泣いた。
さくらが帰ってから、一人でカウンターに残っていた時に。
声を出すつもりはなかった。ただ、涙が出てきて、それを止めようとしたら、変な声になってしまった。みっともない声だと思ったが、誰もいないから構わなかった。
泣きながら、隆のことを考えた。
よく顔が皺くちゃになる男。コーヒーが好きで、八が好きで、北向きの光が好きで、準備が好きで、人を信じるのが好きな男。
奏が側にいられなかった時も、信じていた。
奏が二十年以上遅れて来た時のために、名前を書いておいた。
「遅くなってもいい。ちゃんと来い」
来た。
やっと、来た。
奏は八番目の席の前にしゃがんで、その天板の上に額をつけた。木の冷たさが、額に触れた。
ありがとう、と、声に出さずに言った。
遅くてごめん、と、言った。
北向きのガラスに、横川の深夜が映っていた。路地は静かだ。どこも暗い。ただ、HUITの中だけ、一つの電球がオレンジ色に光っていた。
つづく
翌週、さくらは手帳全部を持ってきた。
閉店後のHUITで、奏は三時間かけて、宮本隆の手帳を読んだ。
さくらは隣で、コーヒーを飲みながら待っていた。時々奏の顔を見て、何かを確認するように、また手帳の方に視線を向けた。
手帳には、隆の二十年分の記録があった。
東京を離れてから、広島に戻ったこと。妻を早くに亡くしたこと。一人で娘・さくらを育てたこと。横川の路地に小さな店を出したこと。体が悪くなり始めてから、店を閉めたこと。
そして、奏のことが、随所に書かれていた。
怒りはなかった。さくらが言った通りだ。ただ、奏のことを思い出した場面が書かれていた。この豆の組み合わせは奏が好きそうだとか、こういう光の中で奏と話したことがあるとか、東京の厨房の話とか。
そして、こんな一節があった。
「奏はたぶん、自分が悪いと思い続けている。そんな必要はないのに。俺が病気になったのは俺の体の問題で、奏のせいじゃない。あの時奏に側にいてほしかったかと言われれば、そりゃいてほしかった。でも、それよりもっといてほしいのは、いつか元気になった奏に会いたいということだ。俺が先に行くとしたら、後から来い。ちゃんと歩いて来い」
奏は、そのページで手が止まった。
いつか元気になった奏に会いたい。
元気に、なっていただろうか。
奏には分からなかった。でも、ここにいる。横川の、北向きのガラスの前に、ちゃんといる。
手帳の後半に、HUIT という言葉が出てきた。
「この店に名前をつけた。HUIT。フランス語で八。八という字を横にすると無限大になる。縁は終わらないということだ。奏に教えたら、面白い顔をしていた。あいつ、こういう話が好きだから。この名前を壁に書いておいた。奏が来た時に、分かるように」
奏はそのページを読んで、カウンターに額をつけそうになった。こらえた。
さくらが見ていた。
「大丈夫ですか」
「はい」
「読めましたか」
「はい」
「HUIT のページですね」
「はい。この名前を——俺がつけたつもりでいたんですが」
「父が先につけてたんですね」
「そうなりますね」
さくらは少し笑った。
「父、先に色々やっておくのが好きなんですよ。料理の仕込みも、旅の準備も、全部前倒し。せっかちというか、準備好きというか」
「知ってます」と奏は言った。「厨房でもそうでした」
「そのくせ、大事なことは人に任せるんですよね。俺がやっておくから後は頼む、みたいな。困った人です」
「本当に」と奏は言った。「困った人です」
二人は同時に笑った。
それは不思議な笑いだった。悲しさと温かさが混ざった、名前のつけにくい感情の笑い。
手帳の一番最後のページ、奏への言葉の後に、もう一段だけ文章があった。
「さくらへ。お前が手帳を読んでいるなら、たぶんもう横川に行っただろう。HUITに行けばいい。桐島奏という男がいる。不器用だが、コーヒーがうまい。それと、お前の父親の一番の親友だった。仲良くしてやってくれ」
さくらはそのページを、奏に見せながら言った。
「読みましたか」
「はい」
「一番の親友、と書いてあります」
「……はい」
「父にとって、そうだったんですね」
奏は答えられなかった。喉の奥が詰まっていた。
「俺にとっても」と奏は言った。声が出なくなりかけたが、最後まで言った。「隆さんは、そういう人でした」
さくらは静かに頷いた。
「会えてよかったです」とさくらは言った。「父の代わりに、そう言います」
奏は、その夜初めて、声を上げて泣いた。
さくらが帰ってから、一人でカウンターに残っていた時に。
声を出すつもりはなかった。ただ、涙が出てきて、それを止めようとしたら、変な声になってしまった。みっともない声だと思ったが、誰もいないから構わなかった。
泣きながら、隆のことを考えた。
よく顔が皺くちゃになる男。コーヒーが好きで、八が好きで、北向きの光が好きで、準備が好きで、人を信じるのが好きな男。
奏が側にいられなかった時も、信じていた。
奏が二十年以上遅れて来た時のために、名前を書いておいた。
「遅くなってもいい。ちゃんと来い」
来た。
やっと、来た。
奏は八番目の席の前にしゃがんで、その天板の上に額をつけた。木の冷たさが、額に触れた。
ありがとう、と、声に出さずに言った。
遅くてごめん、と、言った。
北向きのガラスに、横川の深夜が映っていた。路地は静かだ。どこも暗い。ただ、HUITの中だけ、一つの電球がオレンジ色に光っていた。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。
『新橋スクランブルと、横川のハイボール』
バーガヤマスター
ライト文芸
突然の東京異動で理不尽な組織の壁にぶつかる53歳の聡子と30歳の結衣。新橋で再会した同郷の二人は、故郷・広島の横川で語り合った夜を胸に会社という鎧を脱ぎ捨てる。数々の裏切りや困難を乗り越え、自分たちだけの居場所である小さなバーを作り上げる。世代を超えた友情と本当の仲間の絆が胸を打つ、痛快な人生逆転ストーリー。
隠れた花嫁を迎えに
星乃和花
恋愛
(完結済:本編8話+後日談1話)
結婚式を控えた同居中の婚約者・リリィには、ひとつだけ困った癖がある。
それは、寝癖が直らないだけで、角砂糖を落としただけで、屋敷のどこかに“こっそり”隠れてしまうこと。
けれど、完璧超人と噂される婚約者・レオンは、彼女が隠れるたび必ず見つけ出し、叱らず、急かさず、甘く寄り添って迎えに来る。
「本当に私でいいのかな」——花嫁になる前夜、ベッドの下で震えるリリィに、レオンが差し出したのは“答え”ではなく、同じ目線と温かな手だった。
ほのぼの王都、屋敷内かくれんぼ溺愛ラブ。
「隠れてもいい。迎えに行くから。」
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜
桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。
上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。
「私も……私も交配したい」
太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。
イケメンエリートは愛妻の下僕になりたがる(イケメンエリートシリーズ第四弾)
便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある
IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC”
謎多き噂の飛び交う外資系一流企業
日本内外のイケメンエリートが
集まる男のみの会社
そのイケメンエリート軍団のキャップ的存在
唯一の既婚者、中山トオルの意外なお話
中山加恋(20歳)
二十歳でトオルの妻になる
何不自由ない新婚生活だが若さゆえ好奇心旺盛
中山トオル(32歳)
17歳の加恋に一目ぼれ
加恋の二十歳の誕生日に強引に結婚する
加恋を愛し過ぎるあまりたまに壊れる
会社では群を抜くほどの超エリートが、
愛してやまない加恋ちゃんに
振り回されたり落ち込まされたり…
そんなイケメンエリートの
ちょっと切なくて笑えるお話
雪嶺後宮と、狼王の花嫁
由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。
巫女として献上された少女セツナは、
封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。
人と妖、政と信仰の狭間で、
彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。
雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる