僕がここでカフェを始めた理由

バーガヤマスター

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第十三章「8番目の席」

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第十三章「8番目の席」

 翌朝、奏はいつも通り開店した。
 六時に起きて、湯を沸かして、カウンターを拭いた。エスプレッソマシンのスイッチを入れて、豆を選んだ。
 八番目の席まで来た時、奏はいつものように手を止めた。一呼吸置いて、それからいつもより少しだけ長く、手のひらをその天板の上に置いた。
 昨夜の感触が、まだそこにある気がした。
 七時に義雄が来た。
「おう、今日も寒いのう」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませとか言わんでええと、毎日言うとるじゃろ」
「毎度ありがとうございます」
「それも違う」
 いつも通りの朝だった。義雄はモーニングを食べて、コーヒーを飲んで、路地を眺めた。
 八時に美代が来た。シクラメンの水を変えながら、「今日のお花、きれいに咲いてる」と言った。カフェオレを飲んで、近所の話をした。
 九時ごろ、拓海が来た。
「マスター、聞いてください。あの空き店舗、借りることにしました。正式に」
「そうですか」
「まだ何をするか完全には決まってないんですけど、とにかく始めることにした。やってるうちに好きになるって、最近誰かに言ってもらったので」
「良かったです」と奏は言った。「何をするにしても、この路地は良い路地ですよ」
「マスターにそう言ってもらえると自信が出ます」
 十時を過ぎたころ、さくらが来た。
 入ってきた瞬間、義雄も美代もいなかった。拓海も少し前に帰っていた。奏と二人だけだった。
 さくらはいつも二番目の席に座る。
 しかしその日、さくらは少し迷ってから、カウンターの端の方へ歩いた。
 八番目の席の前に立った。
「ここ、いいですか」
 奏は少し動けなかった。
「……どうぞ」
 さくらは八番目の席に座った。
 静かに、ゆっくりと。まるでずっとそこに座るつもりでいたように。
 奏はしばらくその光景を見ていた。
 さくらが、八番目の席に座っている。
 奏が三年間、誰も座らせなかった席に。あるいは、誰かが来るまで取っておいた席に。
「コーヒーをください」とさくらは言った。
「はい」
「マスターにお任せします」
 奏はコーヒー豆を選んだ。今日のブレンドは、もう朝から決まっていた。
 エチオピアとコスタリカ。最初の日のブレンド。隆が好きだったブレンド。
 丁寧にドリップして、温めたカップに注いで、さくらの前に置いた。
 さくらはカップを両手で持って、一口飲んだ。
「おいしい」
「ありがとうございます」
 奏はカウンターの向こうから、さくらを見た。八番目の席のさくら。北向きのガラスを背に、コーヒーを飲んでいるさくら。
 そこへ美代が戻ってきた。一度花屋に戻っていたのが、また顔を出した。
「あら、今日は端の席に座ったね」と美代はさくらに言った。「そこ、なんか特別な席よね。奏ちゃんがいつも、丁寧に拭いてるから」
「そうなんですか」とさくらは言った。
「奏ちゃん、あの席って誰かのためにとってあったの?」と美代は奏に聞いた。
 奏は少し考えてから、答えた。
「ずっと待ってもらってたみたいです」
「え、どういうこと?」
「俺がこの席に来るのを、誰かが待っていてくれた。そして今度は、俺がここで誰かを待つ番かな、と思っていました」
「誰を?」
 奏はさくらを見た。さくらは奏を見た。
「来てくれました」と奏は言った。
 美代は一瞬首を傾けてから、「なんか、ようわからんけど、ええ話ね」と言った。
 さくらは小さく笑った。奏も笑った。
 そこへ義雄が戻ってきた。今度は本当に忘れ物などなく、ただ「もう一杯飲もうか」と思って戻ってきた、と言った。
 義雄は三番目の席に座りながら、さくらを見た。
「おう、今日は端の席か。珍しい」
「初めて座りました」
「そこ、マスターがいつも手をかけてから拭く席じゃ。なんか意味があるんじゃろうと思っとったが」
「意味、ありましたよ」とさくらは言った。
「なんじゃ」
「ずっと、誰かのためにとってあったんです」
「そうかい」と義雄は言った。少し考えてから、「……宮本さんのカフェも、そんな感じじゃったな」
 奏が顔を向けた。
「どんな感じでしたか」
「カウンターの端っこに、一席だけ、いつも何か違う感じのする席があってな。一番端は俺みたいなもんが座るもんじゃないと思って、いつも端から二番目に座っとったが」
 さくらが目を見開いた。
「カウンターだけの店でしたか」とさくらは聞いた。
「そうじゃ。席数はえーと……八だったかな。うん、八だった気がする。やっぱりこの店と似とった」
 さくらは奏を見た。奏はさくらを見た。
 隆のカフェも、八席だったのだ。
 一番端の席を、誰かのために取っておいて。
 それが奏に伝わって、奏もまた八席にして、一番端を誰かのために取っておいた。
 縁は終わらない。
 HUITという名前のとおり、横にすると無限大になって、ぐるりと一周して、また戻ってくる。
 その日の午後、山根が顔を出した。
 さくらを見て「おや、この間の方じゃないか」と言った。さくらが「先日はありがとうございました、父のことを教えてくれて」と言うと、山根は目を細めた。
「宮本さんの娘さんか。そうか、やっと会えたな」
「やっと、ですか」
「宮本さんがな、娘が来るかもしれないと言っていたから。ずっと待っとった。奏くんが来た時も、次はたぶん娘さんが来るんじゃないかと思っとったんじゃ」
「父が言っていたんですか」
「ああ。娘は不器用だから追い返さないでやってくれ、って」
 さくらは吹き出した。
「手帳にも同じことが書いてあった」
「そうか。あの人、同じことを何度も言う人でな。それだけ、あんたのことを心配しとったんじゃろ」
 美代が「かわいいお父さんね」と言った。
 義雄が「ええ話じゃのう」とコーヒーをすすった。
 拓海が「俺、ちょっと目にゴミが」と言いながら目を拭いた。
 夕方、閉店の時間になった。
 さくらは最後まで八番目の席に座っていた。
 奏が閉店作業をしていると、さくらが言った。
「マスター、一つ聞いていいですか」
「はい」
「これからも、来てもいいですか」
「もちろんです」
「岡山からでも」
「いつでも」
「横川に引っ越すかもしれないです」とさくらは言った。「仕事はリモートでもできるから。父がいた場所にいたい気がして」
「それは」と奏は言った。「良かったです」
「追い返さないでくれますか」
「当然です」
「手帳の言葉、守ってくれますか」
「はい」
 さくらは席を立った。コートを着て、バッグを持って、扉の前に立った。
「父がここを温めておいてくれて、よかった。マスターが来てくれて、よかった。私も来られて、よかった」
「はい」と奏は言った。「俺も、よかったです」
 さくらは扉を開けた。北向きのガラスの向こうに、夕方前の横川がある。路地の冷たい空気が、少しだけ店内に入ってきた。
「また明日」とさくらは言った。
「はい、また明日」
 扉が閉まった。
 奏は一人で店に残って、八番目の席を見た。
 今日初めて、その席にコーヒーのカップの輪染みができた。
 奏はそれを、拭かなかった。

つづく
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