『風よ、商店街を吹き抜けろ』 ――いつかきっと、誰かが答えてくれる――

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第十一章「コーチの正体」

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第十一章「コーチの正体」

 十二月の中旬。
 UBELABのコンセプト見直しと、古賀副会頭との予算交渉が同時に進んでいた。拓海のアンケート分析から「初めて何かを始めたい人のための場所」という方向性が固まりつつあり、蒼がその設計を詰めていた。
 そんな中、咲は一人で動いていた。
 坂本のことが、頭から離れなかった。毎回同じ場所で立ち止まること。コーヒーを飲まないこと。「二十七年帰らなかった」という言葉と、凛が「五年前に見た」という記憶の矛盾。内ポケットの古い手帳。
 咲はスマートフォンで「坂本隆二 宇部」「瀬戸内テーブル 創業者」「坂本隆二 広島 飲食」と次々に検索した。
 出てくる情報は限られていた。広島の経済誌に一本、インタビュー記事があった。「瀬戸内テーブル」の創業経緯について。「地元の味を大切にしたかった」という言葉があった。出身について問われ「山口県出身です」とだけ答えていた。宇部とは書かれていなかった。
 両親の情報はどこにも出てこなかった。
 咲はもどかしさを感じながら、健太を呼んだ。
 「手伝ってほしいことがある」
 健太はノートパソコンを抱えてやってきた。「何を調べるんですか」と聞いたので「坂本さんのこと」と答えた。健太は少し顔を曇らせたが「わかりました」と言って画面に向かった。
 それと並行して、拓海が清子のもとへ向かっていた。
 「一つ、直接聞かせてください」
 清子の前に座って、拓海は言った。
 「坂本さんって……坂本食堂のご子息ですか」
 清子の手が止まった。コーヒーカップを持ったまま、動かなくなった。
 部屋に沈黙が流れた。時計の音が聞こえた。
 やがて清子がカップをテーブルに置いた。
 「……そうだよ」
 低い声だった。「隆ちゃんだよ」と続けた。二十七年ぶりくらいに、その名前を声に出した気がする、という顔をしていた。
 「知ってたんですか」
 「最初に来た時から。顔が大将に似てる。目元が」
 「なぜ言わなかったんですか」
 清子はしばらく黙った。「言う必要があるかどうか、わからなかったから」と言った。「それと……隆ちゃんが名乗らなかった。だったら私も黙ってようと思って」
 拓海は頷いた。「清子さん、坂本さんのお父さんのことを、話してもらえますか」
 清子が語り始めた。
 坂本義雄は、昭和の半ばからこの商店街で食堂をやっていた。始めた頃は屋台に毛が生えた程度だったが、腕がよく、十年で行列のできる店になった。ランチは定食とラーメンが中心で、大将の出汁は格別だった。
 「あの人はね、店が好きというより、人が好きだったんだよ。客の顔を全員覚えてた。常連さんが来ると、何も言わなくても『いつもの』が出てきた。今日元気がなさそうだなって顔をしてる客には、サービスでコーヒーを出した。そのコーヒーメーカーが——」
 清子が部屋の端のコーヒーメーカーを見た。
 「……あれが、そのコーヒーメーカー。大将が使ってたやつ」
 拓海は頷いた。
 「でも大型のショッピングモールが郊外に出来てから、徐々に客が減った。ランチの行列がなくなり、夜の客がいなくなり、常連さんが来なくなった。大将はずっと頑張ってたけど……借金が増えていくのを、私たちにも見えてた」
 「お父さんが亡くなった時、隆ちゃんは何歳だったんですか」
 「二十五歳。大学を出て、どこかで働いてた頃だったと思う。大将が亡くなったって連絡が来て、宇部に戻ってきて。葬儀が終わった翌日に、いなくなった」
 「何か言ってましたか」
 清子は少し間を置いた。
 「一言だけ。『ここが嫌いになりました』って。私に言い置いて、行ってしまった」
 拓海は静かに聞き続けた。
 「それから二十七年、音沙汰がなかった。私も消息を追う気力がなくて。大将の死も、商店街のこともあって、みんな疲れてたから」
 「五年前に、一度戻ってきていたようです」と拓海は言った。
 清子が「……知ってる」と言った。
 「え?」
 「二十七回忌の時ね。節目の年だから、やっと来れたんだろうと思ってた。私のところには来なかったけど。遠くから大将のお墓に行ったって、お寺の住職から聞いた。でも誰にも連絡してこなかった。だから私も、気づかないふりをしてた」
 拓海はしばらく黙った。それから「清子さんは、今の坂本さんのことをどう思いますか」と聞いた。
 清子は少し考えてから「……やっと戻ってこれたんじゃないかね」と言った。「ここが嫌いになって逃げ出した子が、二十七年かけて、また来た。それだけで十分だよ」
 同じ頃、咲と健太の調査で、一つの事実が浮かび上がっていた。
 坂本が「二十七年帰らなかった」と言っていたことと、凛が「五年前に見た」という記憶。この矛盾を解くカギとして、五年前に宇部で何があったかを調べた。
 健太が宇部市の記録をあたり始めると、坂本義雄の命日から二十七年という計算が成り立つ時期に当たることが分かった。
 「二十七回忌だ」と健太は言った。「坂本さんのお父さんの二十七回忌の時期に、宇部に来てたんだ。二十七年間、一度も戻れなかった。それがやっと帰れた年だったんだ」
 咲がスマートフォンを置いた。「つまり二十七年間帰らなかったのは本当で、五年前に初めて帰った。その時に何かを見つけたんじゃないか」
 日記、と咲は思った。
 そこで何かを見つけたのかもしれない。
 蒼に報告が届いたのは、その夜だった。
 拓海からの電話、咲からのメッセージ、ほぼ同時に来た。内容を総合すると、輪郭が見えてきた。
 坂本隆二は坂本食堂の息子。父・義雄は宇部商店街で長年食堂を営み、モール進出後に経営が悪化、二十年以上前に亡くなった。坂本は父の死後に宇部を出て、二十七年間帰らなかった。五年前の二十七回忌に一度、密かに戻った。
 蒼はポケットから、あの折り畳んだ新聞紙を取り出した。
 「坂本義雄氏(五十五歳)、逝去——」
 蒼はその文字を見つめた。
 坂本義雄。
 坂本隆二の、父。
 蒼は床に座り込んだ。
 自分は三週間前、この紙をポケットに入れて、確認もせずに持ち歩いていた。壁の中に二十年以上眠っていた紙が、改修の振動で落ちてきて、蒼の手に渡った。
 「坂本義雄が逝去した」という記録が、この部屋にあったのだ。坂本食堂があったこの商店街の、どこかの壁の中に。
 蒼はスマートフォンを持ち、坂本に一通のメッセージを打った。
 「一つ聞いていいですか。あなたが宇部に来た本当の理由は何ですか」
 送信した。
 返信は来なかった。
 次の日も。その次の日も。

つづく
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