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第十章「副会頭の独白」
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第十章「副会頭の独白」
「この街は、まだ死んでいない。誰かが火をつければ、必ず燃える。俺にはもうできないが、いつかきっと——」——ある男の日記より(ここで途切れている)
古賀文雄は、夢を見た。
広い会議室。長机の両側に、背広姿の男たちが並んでいる。若い古賀は末席に座り、手元の資料を読んでいる。議題は「中心商店街周辺地区への大型商業施設誘致の可否について」。
夢の中でも、古賀はあの日のことを正確に覚えている。
昭和の終わりから平成の初めにかけて、全国の地方都市で起きたことが宇部でも起きた。郊外に大型ショッピングモールを誘致する計画。雇用が増える。税収が増える。市の発展に繋がる。推進派の声は大きかった。
当時三十代だった古賀は、商工会議所の若手担当者として、その計画の事前調査をまとめる役割を担っていた。上司に「中心商店街への影響は軽微と結論づけてほしい」という言葉を受けていた。はっきりとした命令ではなかった。空気だった。
古賀は調査資料を読んだ。影響は軽微ではない、というデータもあった。他県の先行事例では、中心商店街が壊滅的な打撃を受けたケースが複数あった。でも古賀は報告書に「影響は限定的と見込まれる」と書いた。
会議で反対意見は出なかった。計画は承認された。
モールは翌々年にオープンした。
その後の商店街がどうなったかは、誰もが知っている。
古賀が目を覚ましたのは、夜中の三時だった。
この夢を見る頻度が、最近また増えていた。若い頃は年に一度くらいだったのが、ここ数年は月に一度、ここ数ヶ月は週に一度になっていた。何かが変わりつつある、という予感があった。
六十七歳。定年はとっくに過ぎ、今は会長職として会社に籍を置きながら、商工会議所の副会頭を続けている。この街で生まれ、この街で商売をし、この街の組織の中で生きてきた。
「貢献してきた」と言えるだろうか。
言えない。
何年も前からそう思っている。
商工会議所は「にぎわい創出」を毎年スローガンに掲げてきた。補助金を出し、イベントの案内を送り、会議を開いた。でも商店街のシャッターは増え続けた。誰も責任を取らなかった。毎年同じスローガンを掲げて、毎年同じ会議を開いて、毎年同じ結果を出した。
古賀自身も、その一部だった。
UBELABを訪れたのは、オープンから二週間後だった。
凛から報告は聞いていた。一度自分で見ておくべきだと思っていた。平日の昼間、誰もいない時間帯を選んで、一人で入った。
空間の質が、古賀の想像より高かった。白い壁、丁寧に磨かれた床、天井の取り回しのセンスがいい。学生たちがほとんど手で作ったとは思えなかった。
壁一面の写真のコーナーに立った。
商店街の全盛期の写真たち。古賀も知っている風景だった。あそこの魚屋、あそこのコロッケ屋、あそこの薬局。
そして一枚の写真の中に、「坂本食堂」の暖簾が小さく写り込んでいた。
古賀は動けなくなった。
あの暖簾の色。深い藍色に白い文字。朝、出汁の匂いが漂ってくる前に、あの暖簾が風に揺れていた。
坂本義雄。
あの男のことを、古賀はずっと思い続けてきた。商店街で一番うまい飯を出していた男。笑うと前歯が少し欠けていた。客の名前を全員覚えていた。
そしてある年の秋、突然いなくなった。
古賀は報告書のことを考えた。もし「影響は軽微ではない」と正直に書いていたら。モールの誘致が見直されていたら。商店街の打撃が少し和らいでいたら。坂本義雄は今も生きていたかもしれない。
直接の因果関係があるとは言えない。
でも「無関係だ」とも言えない。
その曖昧さの中に、古賀は二十年以上住んでいた。
帰り際、古賀は棚の上に置かれていた一冊の本を手に取った。コーチングについての入門書だった。誰かが置いていったものらしく、表紙に小さくポストイットが貼ってあった。「よかったらどうぞ」と書いてある。
古賀は本を手にしたまま、しばらく立っていた。
その夜、自室の書斎で予算書を開いた。毎年積み上がっていく「遊休活用促進費」。用途は「中心市街地の遊休不動産の活用促進事業」。毎年百万円が計上され、毎年何にも使われずに翌年へ繰り越されている。今年で十二年目。
千二百万円。
古賀は電卓を叩いて、もう一度その数字を確認した。
翌朝、古賀は蒼に電話をかけた。
「その……予算の使い道の相談に乗ってもらえないか。君たちのプロジェクトに使えそうな枠がないか、一緒に考えてほしい」
電話の向こうで蒼が少し間を置いた。それから「逆に聞いていいですか」と言った。
「副会頭は、その予算を何に使いたいですか」
古賀は驚いた。
若者から問いを返されることを予想していなかった。その問いの立て方に、古賀はどこかで聞いたような感触を覚えた。
「……正直に言えば」と古賀は言った。「ずっと使えなかった理由のひとつを、少し晴らしたい」
「理由、というのは」
「それは……直接会って話します」
蒼は「わかりました」と言った。電話を切る前に「来週、UBELABに来ていただけますか」と言った。「一緒に考えましょう」。
古賀は電話を置いて、窓の外を見た。
冬の朝の空が、白く明けていた。
つづく
「この街は、まだ死んでいない。誰かが火をつければ、必ず燃える。俺にはもうできないが、いつかきっと——」——ある男の日記より(ここで途切れている)
古賀文雄は、夢を見た。
広い会議室。長机の両側に、背広姿の男たちが並んでいる。若い古賀は末席に座り、手元の資料を読んでいる。議題は「中心商店街周辺地区への大型商業施設誘致の可否について」。
夢の中でも、古賀はあの日のことを正確に覚えている。
昭和の終わりから平成の初めにかけて、全国の地方都市で起きたことが宇部でも起きた。郊外に大型ショッピングモールを誘致する計画。雇用が増える。税収が増える。市の発展に繋がる。推進派の声は大きかった。
当時三十代だった古賀は、商工会議所の若手担当者として、その計画の事前調査をまとめる役割を担っていた。上司に「中心商店街への影響は軽微と結論づけてほしい」という言葉を受けていた。はっきりとした命令ではなかった。空気だった。
古賀は調査資料を読んだ。影響は軽微ではない、というデータもあった。他県の先行事例では、中心商店街が壊滅的な打撃を受けたケースが複数あった。でも古賀は報告書に「影響は限定的と見込まれる」と書いた。
会議で反対意見は出なかった。計画は承認された。
モールは翌々年にオープンした。
その後の商店街がどうなったかは、誰もが知っている。
古賀が目を覚ましたのは、夜中の三時だった。
この夢を見る頻度が、最近また増えていた。若い頃は年に一度くらいだったのが、ここ数年は月に一度、ここ数ヶ月は週に一度になっていた。何かが変わりつつある、という予感があった。
六十七歳。定年はとっくに過ぎ、今は会長職として会社に籍を置きながら、商工会議所の副会頭を続けている。この街で生まれ、この街で商売をし、この街の組織の中で生きてきた。
「貢献してきた」と言えるだろうか。
言えない。
何年も前からそう思っている。
商工会議所は「にぎわい創出」を毎年スローガンに掲げてきた。補助金を出し、イベントの案内を送り、会議を開いた。でも商店街のシャッターは増え続けた。誰も責任を取らなかった。毎年同じスローガンを掲げて、毎年同じ会議を開いて、毎年同じ結果を出した。
古賀自身も、その一部だった。
UBELABを訪れたのは、オープンから二週間後だった。
凛から報告は聞いていた。一度自分で見ておくべきだと思っていた。平日の昼間、誰もいない時間帯を選んで、一人で入った。
空間の質が、古賀の想像より高かった。白い壁、丁寧に磨かれた床、天井の取り回しのセンスがいい。学生たちがほとんど手で作ったとは思えなかった。
壁一面の写真のコーナーに立った。
商店街の全盛期の写真たち。古賀も知っている風景だった。あそこの魚屋、あそこのコロッケ屋、あそこの薬局。
そして一枚の写真の中に、「坂本食堂」の暖簾が小さく写り込んでいた。
古賀は動けなくなった。
あの暖簾の色。深い藍色に白い文字。朝、出汁の匂いが漂ってくる前に、あの暖簾が風に揺れていた。
坂本義雄。
あの男のことを、古賀はずっと思い続けてきた。商店街で一番うまい飯を出していた男。笑うと前歯が少し欠けていた。客の名前を全員覚えていた。
そしてある年の秋、突然いなくなった。
古賀は報告書のことを考えた。もし「影響は軽微ではない」と正直に書いていたら。モールの誘致が見直されていたら。商店街の打撃が少し和らいでいたら。坂本義雄は今も生きていたかもしれない。
直接の因果関係があるとは言えない。
でも「無関係だ」とも言えない。
その曖昧さの中に、古賀は二十年以上住んでいた。
帰り際、古賀は棚の上に置かれていた一冊の本を手に取った。コーチングについての入門書だった。誰かが置いていったものらしく、表紙に小さくポストイットが貼ってあった。「よかったらどうぞ」と書いてある。
古賀は本を手にしたまま、しばらく立っていた。
その夜、自室の書斎で予算書を開いた。毎年積み上がっていく「遊休活用促進費」。用途は「中心市街地の遊休不動産の活用促進事業」。毎年百万円が計上され、毎年何にも使われずに翌年へ繰り越されている。今年で十二年目。
千二百万円。
古賀は電卓を叩いて、もう一度その数字を確認した。
翌朝、古賀は蒼に電話をかけた。
「その……予算の使い道の相談に乗ってもらえないか。君たちのプロジェクトに使えそうな枠がないか、一緒に考えてほしい」
電話の向こうで蒼が少し間を置いた。それから「逆に聞いていいですか」と言った。
「副会頭は、その予算を何に使いたいですか」
古賀は驚いた。
若者から問いを返されることを予想していなかった。その問いの立て方に、古賀はどこかで聞いたような感触を覚えた。
「……正直に言えば」と古賀は言った。「ずっと使えなかった理由のひとつを、少し晴らしたい」
「理由、というのは」
「それは……直接会って話します」
蒼は「わかりました」と言った。電話を切る前に「来週、UBELABに来ていただけますか」と言った。「一緒に考えましょう」。
古賀は電話を置いて、窓の外を見た。
冬の朝の空が、白く明けていた。
つづく
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