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校則撤廃。――僕たちは、再び立ち上がるためにルールを壊した。第七章
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第七章:再開発の亡霊、残された十字架
八月の声を聞くと同時に、横川の街を包み込む湿気は、もはや呼吸を阻害するほどの重圧となって街にのしかかっていた。誠和学園の校舎に立ち入る生徒の数は、日を追うごとに減り続けている。かつてあれほど強固だった「校則」という名の骨組みを失った学園は、真夏の酷暑に晒された廃屋のように、内側からゆっくりと腐食を始めていた。佐伯永遠(は、誰もいない三階の廊下を歩きながら、開け放たれた窓から入り込む熱風に目を細めた。視線の先では、高架下を駆け抜ける山陽本線の黄色い車両が、蜃気楼のように揺れている。
学園の混乱は、単なる内部の統治不全に留まらなかった。理事長である神崎宗一郎の逮捕は、横川地区の再開発計画に巨大な穴を空けた。彼が握っていた地権者たちとの不透明なパイプが断たれたことで、計画は一時停止に追い込まれたが、それは同時に、利権に群がっていた亡霊たちを呼び寄せる結果となった。今、学園を揺るがしているのは「自由」の是非ではなく、「土地の売却」という極めて即物的な問題だった。
「……また、あいつらが来てる」
永遠は、校門の前に停まった黒塗りのセダンを見下ろして呟いた。車から降りてきたのは、誠和教育財団の「清算人」を自称するスーツ姿の男たちだ。彼らは、学園の経営再建を名目にしているが、実態は再開発業者と癒着し、この広大な敷地をショッピングモールやマンション建設用地として売り払おうとする勢力の尖兵だった。彼らにとって、混乱し、自浄作用を失った今の学園は、地上げに最適な「熟しすぎた果実」に他ならなかった。
「佐伯、こんなところで何黄昏れてんだよ」
背後から声をかけてきた日向海斗は、校則があった頃には想像もできなかったような、派手なプリントのTシャツにハーフパンツという格好だった。しかし、その手には一枚の、薄汚れたチラシが握られていた。
「これを見ろよ。梅田たちが配ってるやつだ」
永遠が受け取ったチラシには、『学園解散と、全生徒への一時金支給を求める署名運動』という大仰なタイトルが踊っていた。梅田たちの「自律委員会」は、もはや学園の運営に興味を失っていた。彼らは、学園の土地が売却される際に出る余剰金を、生徒たちへの「補償金」として分配させるという甘い蜜を餌に、多数の署名を集めようとしていた。
「あいつら、自分たちが壊した学校を、今度は一銭の金に変えようとしてる。自由を手に入れた結果が、これかよ。最高に笑えるな」
日向の言葉には、深い諦念と、隠しきれない怒りが混ざり合っていた。彼が命を懸けて暴いた真実、そして兄の無念。それらは、梅田たちの手によって「現金」という極めて卑俗な価値へと変換されようとしている。
「雅さんは、何て?」
「あいつは今、自宅で新しい理事会との交渉にかかりきりだ。学園を残すために、どこか別の法人が運営を引き継げないか模索してるらしいが……。状況は絶望的だ。借金と不祥事の塊みたいなこの学校を、わざわざ引き受けたがる奇特な奴なんていねえよ」
日向は吐き捨てるように言い、壁に頭を預けた。永遠は、チラシを握りしめた。校則撤廃の向こうにあったのは、自治の喜びではなく、守るべきものを切り売りする浅ましい欲望の剥き出しの光景だった。
その日の放課後、永遠は阿澄に呼び出され、駅前の古い高架下にある、看板のない雑居ビルの一室へと向かった。そこは阿澄が仮の事務所として使っている場所で、部屋中に古い地図や登記簿謄本が散乱していた。
「……佐伯君。君の父親、航さんの足取りについて、一つ分かったことがある」
阿澄は、煙草を灰皿に押し付けながら、一枚の古い図面を永遠の前に差し出した。それは、昭和初期に作られたという、横川駅周辺の地下排水路の設計図だった。
「十年前、君の父親が最後に消えた場所。警察は駅のホームや路上を捜索したが、そこには盲点があった。……ここだ。今の可部線の高架下、ちょうど誠和学園の旧敷地と接する地点にある、古い地下貯水槽だ」
図面には、現在では完全に埋め立てられたはずの空間が赤く印されていた。
「君の父親は、理事長の不正を暴くための『決定的な証拠』を、デジタルデータではなく物理的な書類として、その場所に隠したというメモを残していた。……そして、そこは同時に、横川の再開発計画において、最も基礎が脆弱で、手が付けられていない場所でもある。もし業者が強引に解体を進めれば、その場所ごと『真実』は永遠に埋没する」
「……そこへ行けば、父がいた痕跡があるんですか?」
永遠の声が震えた。阿澄は重く頷いた。「保証はできない。だが、君の父親が残したノートの最後の記述に、こうあった。——『十字架は、水の流れる場所に置いた』。これは、あそこの貯水槽のことを指しているとしか思えないんだ」
永遠は、阿澄から懐中電灯と古い鍵を受け取った。それは日向が持っていたあの真鍮の鍵とは別の、もっと錆びついた、実用本位の鉄の鍵だった。
事務所を出ると、横川の街は夕立に見舞われていた。激しい雨がアスファルトを叩き、すべてを灰色に染め上げている。永遠は、駅の裏手、再開発予定地のフェンスが続く寂れたエリアへと向かった。そこには、日向が先に待っていた。阿澄から連絡を受けていたらしい。
「行くんだろ、佐伯。……俺の兄貴が最後に見た景色も、そこにあるかもしれない」
二人はフェンスの隙間を抜け、雨水が激しく流れ込む排水溝の脇にある、重いマンホールの蓋に手をかけた。二人の力を合わせ、ようやく持ち上げた穴の先には、腐敗した空気と、絶え間ない水の音が漂う、漆黒の闇が広がっていた。
梯子を降りると、そこは想像以上に広大な空間だった。懐中電灯の光が、苔むしたレンガの壁と、水面に浮くゴミを照らし出す。頭上からは、数分おきに通過する電車の轟音が、まるで地鳴りのように響いてくる。
「……ここか」
日向が呟き、光を壁の一角に向けた。そこには、誰かが住み着いていたような痕跡があった。古い木製の机、カビの生えた毛布、そして、壁に刻まれた無数の日付。
永遠は、机の上に置かれた一冊の小さな手帳を見つけた。泥を被り、紙は固まっていたが、表紙にははっきりと、父の筆跡で「航」と書かれていた。
震える手でページをめくる。そこには、逃亡生活の中で父が何を考え、何を恐れていたのかが、断片的な言葉で綴られていた。
「ルールを守ることは、楽だ。責任を誰かに預けられるから。だが、ルールを疑うことは、孤独だ。誠和学園という箱庭は、この街の美しさを殺そうとしている。秋斗君、君の若さが、この闇に飲み込まれないことを祈る」
「……親父、ここで一人で戦ってたんだ」
永遠の目から、熱いものがこぼれ落ちた。父は裏切り者でも、犯罪者でもなかった。彼は、この街を守るために、自ら「ルールの外側」という過酷な戦場を選んだのだ。
手帳の最後の方に、一枚の写真が挟まっていた。それは、まだ幼い永遠と、母が公園で笑っている写真だった。裏面には、「いつか、この街を堂々と歩ける日まで」という短い言葉。
その時、地下室に複数の足音が響いた。
「……感動的な再会だね、佐伯君」
振り返ると、懐中電灯の逆光の中に、数人の男たちが立っていた。先頭にいるのは、梅田だった。しかし、彼の後ろには、学園で見かける生徒ではない、体格の良いスーツ姿の男たちが控えていた。
「梅田……お前、どうしてここが」
「阿澄のジジイが漏らしたんだよ。少しばかりの『活動資金』をくれてやったら、あっさりとな。……さあ、その手帳を渡せよ。それは再開発の妨げになる、ただのゴミだ」
永遠は、手帳を胸に抱え込み、一歩下がった。日向が前に出ようとするが、スーツ姿の男たちの一人が、鋭い動きで彼の腹部を殴りつけた。
「日向!」
「……クソっ、こいつら、ただの学生じゃない」
日向が悶絶しながら地面に伏せる。男たちは、再開発業者が雇ったプロの地上げ屋、あるいはもっと暴力的な組織の人間であることは明らかだった。
「佐伯、分かってるだろ? 学園はもう終わりなんだ。その手帳があろうとなかろうと、あそこは更地になる。……でも、それを俺たちに渡せば、お前にも『分け前』をやる。お前の親父が汚した佐伯の名前を、金で洗ってやるって言ってるんだよ」
梅田の言葉には、かつての劣等生としての影はなく、権力を手にした者の醜悪な優越感が満ちていた。彼は日向が壊した「校則」という名の古い秩序を、今度は「金」という名の新しい力で上書きしようとしていた。
「……断る」
永遠の声は、地下室の水の音にかき消されそうなほど小さかったが、そこには明確な拒絶があった。
「父が残したのは、金じゃない。この街で、嘘をつかずに生きるための誇りだ。……梅田、お前は自由を求めていたんじゃない。ただ、誰かを支配する力が欲しかっただけだ」
「……殺せとは言わん。だが、その手帳は奪え」
梅田が冷酷に命じると、男たちが永遠に詰め寄った。永遠は逃げ場のない地下室で、懐中電灯を振り回して抵抗したが、大人の男たちの力には到底及ばなかった。
突き飛ばされ、背中を冷たい水に打ち付けた衝撃で、手帳が手から滑り落ちた。
「……拾え!」
梅田が叫ぶ。男の一人が泥水の中に手を伸ばした瞬間、地下室の奥、暗闇の中から、一人の影が音もなく現れた。
その影は、驚異的な速さで男の腕を掴み、その関節をねじり上げた。短い悲鳴。懐中電灯が水没し、視界がさらに暗くなる。
「……誰だ!?」
梅田が声を荒らげた。
「……横川の地下水脈を汚すのは、感心しないな」
低く、響くような声。懐中電灯の光がその人物の顔を捉えた。
それは、あの日学園を去り、警察に連行されたはずの生活指導部長、古谷だった。
しかし、その姿は以前のような厳格なスーツ姿ではない。作業着に身を包み、泥に汚れながらも、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿っていた。
「古谷……先生?」
永遠が驚きに声を漏らす。
「私はね、佐伯君。理事長の駒として生きてきた。だが、あの日、君たちにすべてを壊されて初めて気づいたのだ。……自分が守るべきだったのは、理事会のメンツではなく、この街の子供たちだったということをな」
古谷は、一歩も引かずに梅田たちと対峙した。彼はあの日以来、自首し、司法取引の末に一時的に釈放されていた。彼は、自分の犯した罪を償うために、航が残した資料を密かに追っていたのだ。
「梅田君、君のやっていることは、かつての神崎理事長と同じだ。……ここは君たちがいて良い場所ではない。帰りなさい」
「……ふざけるな! お前のような負け犬に何ができる!」
梅田が男たちに突撃を命じたが、古谷は静かな構えでそれを受け流した。彼は若き日、警察官を目指していた武道家でもあった。数人の男たちを相手に、彼は壁のように立ちはだかり、永遠と日向を背後に守った。
その隙に、永遠は水に浸かった手帳を拾い上げた。
「……行け、二人とも! ここは私が食い止める。……佐伯君、その手帳を持って、雅君の元へ行け。彼女なら、それをどう使うべきか知っているはずだ」
「でも、先生が……!」
「私は、ここで十字架を背負うと決めた。……行きなさい!」
古谷の叫び。永遠は日向の肩を貸し、反対側の非常出口へと走り出した。背後からは、肉がぶつかり合う鈍い音と、梅田の怒号が響いていた。
地下通路を抜け、マンホールから這い出すと、雨は嘘のように上がり、雲の間から月が顔を出していた。
「……ハァ、ハァ……。まさか、古谷に助けられるなんてな」
日向が、脇腹を抑えながら自嘲気味に笑った。
「……先生も、戦ってるんだ。自分自身の過去と」
永遠は、手の中の濡れた手帳を強く握りしめた。そこには、父の人生と、横川の未来が詰まっている。
「日向。僕、分かった気がする。校則撤廃の向こうにあったのは、自由っていう名の楽園じゃない。……自分が正しいと思うことを、誰に強制されるでもなく、自分の責任でやり抜くっていう、苦しくて、でも美しい地獄なんだ」
「……へっ、言うようになったじゃねえか、佐伯」
二人は、夜の横川駅へと向かって歩き出した。
学園を売り払おうとする勢力と、それを守ろうとする者。そして、沈黙を続ける多くの生徒たち。
誠和学園の戦いは、校則という壁を壊した後、さらに複雑で、泥臭い利権の渦へと突入しようとしていた。
永遠は、駅のホームに入ってくる列車のライトを見つめた。
父が残した「十字架」は、今、自分の背中に移った。それは重く、冷たいが、同時に自分をこの街に繋ぎ止める、唯一の信頼の形でもあった。
つづく
八月の声を聞くと同時に、横川の街を包み込む湿気は、もはや呼吸を阻害するほどの重圧となって街にのしかかっていた。誠和学園の校舎に立ち入る生徒の数は、日を追うごとに減り続けている。かつてあれほど強固だった「校則」という名の骨組みを失った学園は、真夏の酷暑に晒された廃屋のように、内側からゆっくりと腐食を始めていた。佐伯永遠(は、誰もいない三階の廊下を歩きながら、開け放たれた窓から入り込む熱風に目を細めた。視線の先では、高架下を駆け抜ける山陽本線の黄色い車両が、蜃気楼のように揺れている。
学園の混乱は、単なる内部の統治不全に留まらなかった。理事長である神崎宗一郎の逮捕は、横川地区の再開発計画に巨大な穴を空けた。彼が握っていた地権者たちとの不透明なパイプが断たれたことで、計画は一時停止に追い込まれたが、それは同時に、利権に群がっていた亡霊たちを呼び寄せる結果となった。今、学園を揺るがしているのは「自由」の是非ではなく、「土地の売却」という極めて即物的な問題だった。
「……また、あいつらが来てる」
永遠は、校門の前に停まった黒塗りのセダンを見下ろして呟いた。車から降りてきたのは、誠和教育財団の「清算人」を自称するスーツ姿の男たちだ。彼らは、学園の経営再建を名目にしているが、実態は再開発業者と癒着し、この広大な敷地をショッピングモールやマンション建設用地として売り払おうとする勢力の尖兵だった。彼らにとって、混乱し、自浄作用を失った今の学園は、地上げに最適な「熟しすぎた果実」に他ならなかった。
「佐伯、こんなところで何黄昏れてんだよ」
背後から声をかけてきた日向海斗は、校則があった頃には想像もできなかったような、派手なプリントのTシャツにハーフパンツという格好だった。しかし、その手には一枚の、薄汚れたチラシが握られていた。
「これを見ろよ。梅田たちが配ってるやつだ」
永遠が受け取ったチラシには、『学園解散と、全生徒への一時金支給を求める署名運動』という大仰なタイトルが踊っていた。梅田たちの「自律委員会」は、もはや学園の運営に興味を失っていた。彼らは、学園の土地が売却される際に出る余剰金を、生徒たちへの「補償金」として分配させるという甘い蜜を餌に、多数の署名を集めようとしていた。
「あいつら、自分たちが壊した学校を、今度は一銭の金に変えようとしてる。自由を手に入れた結果が、これかよ。最高に笑えるな」
日向の言葉には、深い諦念と、隠しきれない怒りが混ざり合っていた。彼が命を懸けて暴いた真実、そして兄の無念。それらは、梅田たちの手によって「現金」という極めて卑俗な価値へと変換されようとしている。
「雅さんは、何て?」
「あいつは今、自宅で新しい理事会との交渉にかかりきりだ。学園を残すために、どこか別の法人が運営を引き継げないか模索してるらしいが……。状況は絶望的だ。借金と不祥事の塊みたいなこの学校を、わざわざ引き受けたがる奇特な奴なんていねえよ」
日向は吐き捨てるように言い、壁に頭を預けた。永遠は、チラシを握りしめた。校則撤廃の向こうにあったのは、自治の喜びではなく、守るべきものを切り売りする浅ましい欲望の剥き出しの光景だった。
その日の放課後、永遠は阿澄に呼び出され、駅前の古い高架下にある、看板のない雑居ビルの一室へと向かった。そこは阿澄が仮の事務所として使っている場所で、部屋中に古い地図や登記簿謄本が散乱していた。
「……佐伯君。君の父親、航さんの足取りについて、一つ分かったことがある」
阿澄は、煙草を灰皿に押し付けながら、一枚の古い図面を永遠の前に差し出した。それは、昭和初期に作られたという、横川駅周辺の地下排水路の設計図だった。
「十年前、君の父親が最後に消えた場所。警察は駅のホームや路上を捜索したが、そこには盲点があった。……ここだ。今の可部線の高架下、ちょうど誠和学園の旧敷地と接する地点にある、古い地下貯水槽だ」
図面には、現在では完全に埋め立てられたはずの空間が赤く印されていた。
「君の父親は、理事長の不正を暴くための『決定的な証拠』を、デジタルデータではなく物理的な書類として、その場所に隠したというメモを残していた。……そして、そこは同時に、横川の再開発計画において、最も基礎が脆弱で、手が付けられていない場所でもある。もし業者が強引に解体を進めれば、その場所ごと『真実』は永遠に埋没する」
「……そこへ行けば、父がいた痕跡があるんですか?」
永遠の声が震えた。阿澄は重く頷いた。「保証はできない。だが、君の父親が残したノートの最後の記述に、こうあった。——『十字架は、水の流れる場所に置いた』。これは、あそこの貯水槽のことを指しているとしか思えないんだ」
永遠は、阿澄から懐中電灯と古い鍵を受け取った。それは日向が持っていたあの真鍮の鍵とは別の、もっと錆びついた、実用本位の鉄の鍵だった。
事務所を出ると、横川の街は夕立に見舞われていた。激しい雨がアスファルトを叩き、すべてを灰色に染め上げている。永遠は、駅の裏手、再開発予定地のフェンスが続く寂れたエリアへと向かった。そこには、日向が先に待っていた。阿澄から連絡を受けていたらしい。
「行くんだろ、佐伯。……俺の兄貴が最後に見た景色も、そこにあるかもしれない」
二人はフェンスの隙間を抜け、雨水が激しく流れ込む排水溝の脇にある、重いマンホールの蓋に手をかけた。二人の力を合わせ、ようやく持ち上げた穴の先には、腐敗した空気と、絶え間ない水の音が漂う、漆黒の闇が広がっていた。
梯子を降りると、そこは想像以上に広大な空間だった。懐中電灯の光が、苔むしたレンガの壁と、水面に浮くゴミを照らし出す。頭上からは、数分おきに通過する電車の轟音が、まるで地鳴りのように響いてくる。
「……ここか」
日向が呟き、光を壁の一角に向けた。そこには、誰かが住み着いていたような痕跡があった。古い木製の机、カビの生えた毛布、そして、壁に刻まれた無数の日付。
永遠は、机の上に置かれた一冊の小さな手帳を見つけた。泥を被り、紙は固まっていたが、表紙にははっきりと、父の筆跡で「航」と書かれていた。
震える手でページをめくる。そこには、逃亡生活の中で父が何を考え、何を恐れていたのかが、断片的な言葉で綴られていた。
「ルールを守ることは、楽だ。責任を誰かに預けられるから。だが、ルールを疑うことは、孤独だ。誠和学園という箱庭は、この街の美しさを殺そうとしている。秋斗君、君の若さが、この闇に飲み込まれないことを祈る」
「……親父、ここで一人で戦ってたんだ」
永遠の目から、熱いものがこぼれ落ちた。父は裏切り者でも、犯罪者でもなかった。彼は、この街を守るために、自ら「ルールの外側」という過酷な戦場を選んだのだ。
手帳の最後の方に、一枚の写真が挟まっていた。それは、まだ幼い永遠と、母が公園で笑っている写真だった。裏面には、「いつか、この街を堂々と歩ける日まで」という短い言葉。
その時、地下室に複数の足音が響いた。
「……感動的な再会だね、佐伯君」
振り返ると、懐中電灯の逆光の中に、数人の男たちが立っていた。先頭にいるのは、梅田だった。しかし、彼の後ろには、学園で見かける生徒ではない、体格の良いスーツ姿の男たちが控えていた。
「梅田……お前、どうしてここが」
「阿澄のジジイが漏らしたんだよ。少しばかりの『活動資金』をくれてやったら、あっさりとな。……さあ、その手帳を渡せよ。それは再開発の妨げになる、ただのゴミだ」
永遠は、手帳を胸に抱え込み、一歩下がった。日向が前に出ようとするが、スーツ姿の男たちの一人が、鋭い動きで彼の腹部を殴りつけた。
「日向!」
「……クソっ、こいつら、ただの学生じゃない」
日向が悶絶しながら地面に伏せる。男たちは、再開発業者が雇ったプロの地上げ屋、あるいはもっと暴力的な組織の人間であることは明らかだった。
「佐伯、分かってるだろ? 学園はもう終わりなんだ。その手帳があろうとなかろうと、あそこは更地になる。……でも、それを俺たちに渡せば、お前にも『分け前』をやる。お前の親父が汚した佐伯の名前を、金で洗ってやるって言ってるんだよ」
梅田の言葉には、かつての劣等生としての影はなく、権力を手にした者の醜悪な優越感が満ちていた。彼は日向が壊した「校則」という名の古い秩序を、今度は「金」という名の新しい力で上書きしようとしていた。
「……断る」
永遠の声は、地下室の水の音にかき消されそうなほど小さかったが、そこには明確な拒絶があった。
「父が残したのは、金じゃない。この街で、嘘をつかずに生きるための誇りだ。……梅田、お前は自由を求めていたんじゃない。ただ、誰かを支配する力が欲しかっただけだ」
「……殺せとは言わん。だが、その手帳は奪え」
梅田が冷酷に命じると、男たちが永遠に詰め寄った。永遠は逃げ場のない地下室で、懐中電灯を振り回して抵抗したが、大人の男たちの力には到底及ばなかった。
突き飛ばされ、背中を冷たい水に打ち付けた衝撃で、手帳が手から滑り落ちた。
「……拾え!」
梅田が叫ぶ。男の一人が泥水の中に手を伸ばした瞬間、地下室の奥、暗闇の中から、一人の影が音もなく現れた。
その影は、驚異的な速さで男の腕を掴み、その関節をねじり上げた。短い悲鳴。懐中電灯が水没し、視界がさらに暗くなる。
「……誰だ!?」
梅田が声を荒らげた。
「……横川の地下水脈を汚すのは、感心しないな」
低く、響くような声。懐中電灯の光がその人物の顔を捉えた。
それは、あの日学園を去り、警察に連行されたはずの生活指導部長、古谷だった。
しかし、その姿は以前のような厳格なスーツ姿ではない。作業着に身を包み、泥に汚れながらも、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿っていた。
「古谷……先生?」
永遠が驚きに声を漏らす。
「私はね、佐伯君。理事長の駒として生きてきた。だが、あの日、君たちにすべてを壊されて初めて気づいたのだ。……自分が守るべきだったのは、理事会のメンツではなく、この街の子供たちだったということをな」
古谷は、一歩も引かずに梅田たちと対峙した。彼はあの日以来、自首し、司法取引の末に一時的に釈放されていた。彼は、自分の犯した罪を償うために、航が残した資料を密かに追っていたのだ。
「梅田君、君のやっていることは、かつての神崎理事長と同じだ。……ここは君たちがいて良い場所ではない。帰りなさい」
「……ふざけるな! お前のような負け犬に何ができる!」
梅田が男たちに突撃を命じたが、古谷は静かな構えでそれを受け流した。彼は若き日、警察官を目指していた武道家でもあった。数人の男たちを相手に、彼は壁のように立ちはだかり、永遠と日向を背後に守った。
その隙に、永遠は水に浸かった手帳を拾い上げた。
「……行け、二人とも! ここは私が食い止める。……佐伯君、その手帳を持って、雅君の元へ行け。彼女なら、それをどう使うべきか知っているはずだ」
「でも、先生が……!」
「私は、ここで十字架を背負うと決めた。……行きなさい!」
古谷の叫び。永遠は日向の肩を貸し、反対側の非常出口へと走り出した。背後からは、肉がぶつかり合う鈍い音と、梅田の怒号が響いていた。
地下通路を抜け、マンホールから這い出すと、雨は嘘のように上がり、雲の間から月が顔を出していた。
「……ハァ、ハァ……。まさか、古谷に助けられるなんてな」
日向が、脇腹を抑えながら自嘲気味に笑った。
「……先生も、戦ってるんだ。自分自身の過去と」
永遠は、手の中の濡れた手帳を強く握りしめた。そこには、父の人生と、横川の未来が詰まっている。
「日向。僕、分かった気がする。校則撤廃の向こうにあったのは、自由っていう名の楽園じゃない。……自分が正しいと思うことを、誰に強制されるでもなく、自分の責任でやり抜くっていう、苦しくて、でも美しい地獄なんだ」
「……へっ、言うようになったじゃねえか、佐伯」
二人は、夜の横川駅へと向かって歩き出した。
学園を売り払おうとする勢力と、それを守ろうとする者。そして、沈黙を続ける多くの生徒たち。
誠和学園の戦いは、校則という壁を壊した後、さらに複雑で、泥臭い利権の渦へと突入しようとしていた。
永遠は、駅のホームに入ってくる列車のライトを見つめた。
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