12 / 13
校則撤廃。――僕たちは、再び立ち上がるためにルールを壊した。第十二章
しおりを挟む
第十二章:横川の地下水脈、父の帰還
横川の喧騒から離れ、可部線を終点近くまで遡った山間の静寂の中に、その場所はあった。かつて分校だったという木造の建物は、深い緑に飲み込まれそうになりながらも、静かに、そして毅然としてそこに立っていた。九月の終わり、虫の音だけが響く夕暮れ時。佐伯永遠は、阿澄から教えられたその場所の、軋む廊下を歩いていた。
「……誰だ」
廊下の奥、古い教室を改装したと思われる部屋から、掠れた声がした。
永遠は足を止めた。心臓の鼓動が、かつてないほど激しく打ち鳴らされる。ゆっくりと、その部屋の戸を開ける。
そこには、ランプの灯りの下で、一人の男が古い書類を整理していた。
「……父さん」
永遠の呼びかけに、男の手が止まった。ゆっくりと振り返ったその顔には、十年前の面影が、深く刻まれた皺と、白髪の混じった髪の中に確かに残っていた。
「……永遠か」
佐伯航は、立ち上がることもなく、ただ一言、そう呟いた。彼の瞳には、驚きよりも、待ち焦がれていたものがようやく訪れたという、深い安堵の色が浮かんでいた。
父と子は、数時間の沈黙を共有した。語るべきことはあまりにも多く、どこから手をつければいいのか、二人には分からなかった。航は、自分がこの十年間、この場所で何をしてきたかを語り始めた。
「……私はね、永遠。あの日、誠和学園の不正を暴こうとして失敗し、すべてを失った。……だが、阿澄や、一部の良心的な大人たちが、私のために動いてくれた。……私は、自分の身の安全と引き換えに、学園の理事会が海外に隠した不正資金のフローを監視する役目を引き受けたんだ。……それは、この国の上層部まで根を張る、巨大なシステムの『保険』でもあった」
「……だから、帰ってこれなかったの?」
「……ああ。私が戻れば、お前たちにまで危険が及ぶ。……だが、私はずっと、横川の街でお前を見ていた。……運動会の時も、中学の入学式の時も。……お前が、日向君という無二の親友を持ち、そして自らの意志で校則に立ち向かうのを見て、私は確信した。……いつか、お前がその檻を壊し、私のところへ辿り着く日が来ることをな」
航は、机の引き出しから、一通の古びた書類を取り出した。
「これが、横川の地下水脈に隠した、本当の『最後の一枚』だ。……地質データの捏造だけではない。……この街全体を、ある特定の企業の私有地にするという、秘密の条約だ。……これさえあれば、学園の跡地にショッピングモールを作る計画も、完全に差し止めることができる。……横川の街は、再びこの街の人々の手に戻るんだ」
永遠は、父の差し出した書類を受け取った。その紙の重みは、父が耐えてきた十年の歳月の重みそのものだった。
「……父さん。一緒に行こう。……横川へ。……母さんも、待ってる」
航は、窓の外の深い闇を見つめた。
「……私は、もうあの街には戻れない。……私は、影の中で生きることを選んだ人間だ。……だが、永遠。お前は違う。……お前は、この書類を持って、神崎(かんざき)さんのところへ行きなさい。……彼女なら、これを法的に有効な形にできるはずだ」
「……嫌だ。父さん、一人でこんなところに……」
「……寂しくはないさ。……私は、この十年間、お前の成長を見守ることで、十分に報われてきた。……永遠、お前は私の誇りだ。……校則撤廃の向こうに、お前が自分自身の言葉を見つけたこと。……それが、私にとっての最大の『勝利』なんだよ」
永遠は、父の枯れ木のような手を握りしめた。
翌朝、永遠は父に別れを告げ、山を降りた。
横川へと戻る列車の中で、永遠は父から託された書類を何度も見返した。
そこには、誠和学園という小さな世界で起きた出来事が、実はいかにこの国の歪んだシステムの一部であったかが、克明に記されていた。しかし、それ以上に永遠の心を動かしたのは、余白に記された父の走り書きだった。
『ルールは、人が過ちを犯さないためにあるのではない。ルールは、人が過ちを犯した時に、再び立ち上がるためにあるべきだ。』
永遠は、横川駅に到着すると、すぐに神崎雅の自宅へと向かった。
雅は、永遠から渡された書類を読み、息を呑んだ。
「……佐伯君。これ、信じられないわ。……父だけでなく、県知事や大手ゼネコンの名前まで入ってる。……これを使えば、学園の再建どころか、横川全体の再開発計画を、住民参加型に作り直すことができる」
「……やってくれるかい、雅さん」
「ええ。……これが、私の償い。そして、私の新しい『校則』よ」
雅の瞳には、かつての生徒会長としての自信とは違う、一人の市民としての、力強い覚悟が宿っていた。
物語は、ついに最終的な決着へと向かう。
父・航が残した地下水脈の真実が、横川の街を洗い流し、新しい種を蒔くための土壌を作る。
永遠は、駅前の高架下を歩きながら、ふと足を止めた。
そこには、かつての自分たちのような、制服を着た別の学校の生徒たちが、笑いながら通り過ぎていく姿があった。
「……行こうぜ、佐伯」
幻聴だろうか。
隣で、日向の声が聞こえた気がした。
永遠は、空を見上げた。
雲は流れ、風は吹き抜ける。
かつて檻だったこの街は、今、どこまでも広い空の下に開かれていた。
つづく
横川の喧騒から離れ、可部線を終点近くまで遡った山間の静寂の中に、その場所はあった。かつて分校だったという木造の建物は、深い緑に飲み込まれそうになりながらも、静かに、そして毅然としてそこに立っていた。九月の終わり、虫の音だけが響く夕暮れ時。佐伯永遠は、阿澄から教えられたその場所の、軋む廊下を歩いていた。
「……誰だ」
廊下の奥、古い教室を改装したと思われる部屋から、掠れた声がした。
永遠は足を止めた。心臓の鼓動が、かつてないほど激しく打ち鳴らされる。ゆっくりと、その部屋の戸を開ける。
そこには、ランプの灯りの下で、一人の男が古い書類を整理していた。
「……父さん」
永遠の呼びかけに、男の手が止まった。ゆっくりと振り返ったその顔には、十年前の面影が、深く刻まれた皺と、白髪の混じった髪の中に確かに残っていた。
「……永遠か」
佐伯航は、立ち上がることもなく、ただ一言、そう呟いた。彼の瞳には、驚きよりも、待ち焦がれていたものがようやく訪れたという、深い安堵の色が浮かんでいた。
父と子は、数時間の沈黙を共有した。語るべきことはあまりにも多く、どこから手をつければいいのか、二人には分からなかった。航は、自分がこの十年間、この場所で何をしてきたかを語り始めた。
「……私はね、永遠。あの日、誠和学園の不正を暴こうとして失敗し、すべてを失った。……だが、阿澄や、一部の良心的な大人たちが、私のために動いてくれた。……私は、自分の身の安全と引き換えに、学園の理事会が海外に隠した不正資金のフローを監視する役目を引き受けたんだ。……それは、この国の上層部まで根を張る、巨大なシステムの『保険』でもあった」
「……だから、帰ってこれなかったの?」
「……ああ。私が戻れば、お前たちにまで危険が及ぶ。……だが、私はずっと、横川の街でお前を見ていた。……運動会の時も、中学の入学式の時も。……お前が、日向君という無二の親友を持ち、そして自らの意志で校則に立ち向かうのを見て、私は確信した。……いつか、お前がその檻を壊し、私のところへ辿り着く日が来ることをな」
航は、机の引き出しから、一通の古びた書類を取り出した。
「これが、横川の地下水脈に隠した、本当の『最後の一枚』だ。……地質データの捏造だけではない。……この街全体を、ある特定の企業の私有地にするという、秘密の条約だ。……これさえあれば、学園の跡地にショッピングモールを作る計画も、完全に差し止めることができる。……横川の街は、再びこの街の人々の手に戻るんだ」
永遠は、父の差し出した書類を受け取った。その紙の重みは、父が耐えてきた十年の歳月の重みそのものだった。
「……父さん。一緒に行こう。……横川へ。……母さんも、待ってる」
航は、窓の外の深い闇を見つめた。
「……私は、もうあの街には戻れない。……私は、影の中で生きることを選んだ人間だ。……だが、永遠。お前は違う。……お前は、この書類を持って、神崎(かんざき)さんのところへ行きなさい。……彼女なら、これを法的に有効な形にできるはずだ」
「……嫌だ。父さん、一人でこんなところに……」
「……寂しくはないさ。……私は、この十年間、お前の成長を見守ることで、十分に報われてきた。……永遠、お前は私の誇りだ。……校則撤廃の向こうに、お前が自分自身の言葉を見つけたこと。……それが、私にとっての最大の『勝利』なんだよ」
永遠は、父の枯れ木のような手を握りしめた。
翌朝、永遠は父に別れを告げ、山を降りた。
横川へと戻る列車の中で、永遠は父から託された書類を何度も見返した。
そこには、誠和学園という小さな世界で起きた出来事が、実はいかにこの国の歪んだシステムの一部であったかが、克明に記されていた。しかし、それ以上に永遠の心を動かしたのは、余白に記された父の走り書きだった。
『ルールは、人が過ちを犯さないためにあるのではない。ルールは、人が過ちを犯した時に、再び立ち上がるためにあるべきだ。』
永遠は、横川駅に到着すると、すぐに神崎雅の自宅へと向かった。
雅は、永遠から渡された書類を読み、息を呑んだ。
「……佐伯君。これ、信じられないわ。……父だけでなく、県知事や大手ゼネコンの名前まで入ってる。……これを使えば、学園の再建どころか、横川全体の再開発計画を、住民参加型に作り直すことができる」
「……やってくれるかい、雅さん」
「ええ。……これが、私の償い。そして、私の新しい『校則』よ」
雅の瞳には、かつての生徒会長としての自信とは違う、一人の市民としての、力強い覚悟が宿っていた。
物語は、ついに最終的な決着へと向かう。
父・航が残した地下水脈の真実が、横川の街を洗い流し、新しい種を蒔くための土壌を作る。
永遠は、駅前の高架下を歩きながら、ふと足を止めた。
そこには、かつての自分たちのような、制服を着た別の学校の生徒たちが、笑いながら通り過ぎていく姿があった。
「……行こうぜ、佐伯」
幻聴だろうか。
隣で、日向の声が聞こえた気がした。
永遠は、空を見上げた。
雲は流れ、風は吹き抜ける。
かつて檻だったこの街は、今、どこまでも広い空の下に開かれていた。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる