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坂門

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アウロ・バッグスの憂鬱

夢の世界、現実世界

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 天を貫く⋯⋯というと大げさですが、見上げる首が痛くなるくらい、間近で見るとその高さと大きさに圧倒されます。街⋯⋯いえ、もしかしたらこの世界の真ん中にそびえ立つ八角形のギルド。私はフィリシアに手を引かれ、4番の入口を目指していました。
 仕事終わりの人達で活気を見せる街。その中でも殊更4番の入口には長い行列が出来ています。

『これも勉強ね。フィリシアに連れて行って貰いなさい』

 ハルさんの言葉に私はフィリシアに連れられ、生まれて初めてお芝居を観に行きます。緊張とは違うドキドキに私は少し興奮状態だったみたいです。
 黒塗りの騎士と綺麗なお姫様の描かれた大きな看板を見上げ、私の興奮はまたひとつ上がって行きました。

「フィリシア! すっごい大きな絵! どうやって描いたのかな? 凄いね」
「アハハ。エレナ、始まる前から興奮しすぎ、落ち着きなさい」
「う、うん。あ! あれ何? 何か売ってる! 看板と同じ絵だよ!」
「落ち着け」

 コンと頭の上にフィリシアの優しい手刀が振り下ろされました。
 初めて目にする物と人々の期待に満ち溢れた熱気に当てられ、興奮冷めやらずです。
 私は長い行列の後ろに並ぼうと歩を進めると、フィリシアから待ったがかかりました。

「私達はこっち」

 開け放たれた大きな扉の隣に、細かい細工を施す豪奢な扉。その前には紳士然と佇む猫人キャットピープルさんがいます。
 大きな扉に吸い込まれて行く期待に膨らむ人々を横目に、私達は紳士な猫さんの前へ進みました。

「ようこそ。こちらへどうぞ」

 フィリシアがチケットを見せると、ゆっくりと流れる手つきで優雅に扉を開けてくれます。

「ありがとう」

 フィリシアが澄まし声で扉の中へ。私も頭を下げながら中へと進みます。
 扉が閉められると、外の喧騒が嘘のように静かな空間が広がっていました。
 紳士な猫さんの後ろをフィリシアと共について行きます。なんだか落ち着かないです。
 足音ひとつしない敷き詰められたフカフカの赤い絨毯。扉と同じ細かい細工の施された立派な柱が立ち並んでいました。
 
 まるで別世界⋯⋯。お伽噺の世界に迷い込んだのかと錯覚を受けた私は、思わずきょろきょろとしてしまいます。
 しばらく歩くと細工の中に数字が描かれた扉が散見出来ました。いくつかの扉を通り過ぎると、紳士な猫さんの足がひとつの扉の前で止まります。チケットと扉を見やり、流麗な所作で私達を中へといざないました。

「ぉぉぉ⋯⋯」

 思わず声を上げてしまいました。私達が案内されたのは劇場の二階。舞台を見下ろすようにせり出している個室でした。
 大きな会場ホールは豪華絢爛に飾られ、日常からかけ離れた夢の国。初めて見る煌びやかな世界に私は呆気に取られてしまいます。

「それでは、またのちほどお伺いさせて頂きます。本日はゆっくりとご鑑賞下さいませ」

 紳士な猫さんは一礼して去って行きました。
 呆気に取られている私を、ニヤニヤとフィリシアは見つめます。それに気が付くと急に気恥ずかしくなって、俯いてしまいました。

「どう、凄いでしょう」
「凄い。こんなキラキラなの初めて、夢の国みたい」
「フフン」

 鼻を鳴らして得意満面ですが、これをくれたのは息子さんで、フィリシアがお金出したわけじゃないでしょう。

「凄く高そう⋯⋯」
「多分、二席で2万ミルドはするんじゃない。もしかしたらもっとかも」
「2万!!」
「シーッ! 声大きい」
「ごめんなさい。ちょっとびっくりしちゃって」

 隣のせり出しを横目で覗くと、でっぷりと太ったおじさんが妖艶な狼人ウエアウルフの女性をエスコートしていました。狼さんはさも当たり前のようにおじさんにエスコートさせています。ご夫婦でしょうか?

「エレナ、あんまり見ちゃダメよ。多分あのおやじ、あの狼を落としたいのよ。狼もきっとプロね。いい思いだけして最後はポイって捨てて終わりよ」
「落とす? それで捨てられちゃう? なんだかおじさん可哀そう⋯⋯」
「何言っているの、自業自得ってやつよ。あれもしかして、エレナ状況あんまり理解出来てないわね。ちょっと耳貸してごらん⋯⋯ゴニョニョ⋯⋯だから⋯⋯ゴニョニョ⋯⋯して⋯⋯ゴニョニョ⋯⋯ゴニョニョ⋯⋯なのよ。分かった?」
「分かった⋯⋯」

 お、大人の世界ってやつですね。頬が熱を帯び過ぎて頭から煙が出て来そうです。
 いろんな駆け引きがあるという事ですか。

「失礼致します。お飲み物はいかがいたしましょう?」

 ノックと共に紳士な猫さんが顔を覗かせます。

「私はエール。この娘には⋯⋯そうね⋯⋯お酒はさすがにまずいし⋯⋯あ、グレルシャーベにしよう、それをひとつお願い」
「かしこまりました」

 フィリシアの前にはシュワシュワと泡立つ黄金色が、細長いグラスの中で揺れています。私の前には紫色した氷を細かく砕いた物。細長いグラスの中で、氷が光を反射してキラキラと輝いていました。グレルの実の柔らかな甘い香りが鼻をくすぐります。グレルの実を凍らせて砕いた物のようです。汗をかいたガラスコップに触れると想像以上の冷たさが指先から伝わりました。
 飲み物と一緒に運ばれてきた大皿には、小さく切った干し肉と野菜の酢漬けを小さな串に刺した物や、卵にベーコンを巻いた物などどれもひと口サイズに盛られていて、お皿を彩り鮮やかに飾っていました。

「さて、ぼちぼち始まるね。食べて飲んで待とうか、乾杯!」
「乾杯」

 チンとガラス同士がぶつかり合い、綺麗な音を鳴らしました。
 飲み物? 食べ物? 初めて触れるグレルの氷。グラスに唇を当てるとひんやりとした感触が伝わり、ドロリと紫色の細かい氷が口に入って来ました。
 氷は口の中ですぐに溶けて行き、氷漬けになっていたグレルの爽やかな甘さが口いっぱいに広がります。
 おほぅ! 何これ!
 普通に食べても勿論美味しいのですが、氷から一気に解放される濃厚で鮮烈なグレルの味は、今まで味わった事のない物でした。

「フィリシア! 何これ! 何これ!」
「落ち着け。美味しいでしょう? 私の見立てに間違いなかったでしょう~」
「うん、うん」

 私は激しくかぶりを振って、次はお皿へ手を伸ばします。フィリシアに目を剥くと、勝ち誇ったように笑みを返して来ました。
 別にフィリシアが作ったわけじゃないのに。
 どれも味は濃く無いのにしっかりとした旨味があって、何でしょうね、これは。屋台や賄いも美味しいですが、これはまた違った美味しさ。フィリシアも満足げに舌鼓を打っています。
 会場ホールのざわめきが大きくなって来ました。下を覗くと座席はほぼほぼ人が埋めており、期待は天井知らずで上がっています。その熱気は二階の私達の元にも届き、私達の期待も否が応にも上がって行きました。

「始まるね」

 フィリシアの耳打ちと同時に会場ホール全体が暗闇に落ちて行きます。私がびっくりしていると、舞台がパッと明るくなって全身黒ずくめの騎士が舞台の真ん中に立っていました。その瞬間から私は一気にそのお話の世界に引き込まれて行きます。暗黒騎士として生まれながら美しい姫に恋をしてしまった騎士が身分を偽り、姫にお近づきになりますが、姫を守る為に暗黒騎士として死を選ぶという悲恋の物語。
 幕が閉じ会場ホールに灯りが灯ると現実世界に引き戻されました。号泣していた私を指差してフィリシアは大笑いしながら抱き締めます。

「エレナ、かわいいー。面白かったでしょう?」
「⋯⋯うん」

 鼻をすすり上げながら首を縦に振ります。あっという間に時間は過ぎていました。みんながワクワクするのが本当に良く分かったし、終わってしまった一抹の寂しさが現実に引き戻します。

「女優さん、綺麗だったね。確か、そこそこ大きい子供がいるはずなのにぜんぜんそんな風に見えなかったよね」
「お姫様じゃないの?」
「違うわよ。女優さんよ。きっとお姫様になったり、女騎士になったり、もしかしたらおばあさんになったり、その役になりきってしまうはずよ」
「おばあさんにも?! す、凄い」
「本当よね」

 フィリシアと街を歩きながら、劇の余韻を楽しみます。観た物を大事に大事に頭の中にしまっていきました。
 楽しい時間は一瞬で過ぎて行きます。フィリシアと別れると一気に現実に引き戻されました。家が近づくにつれ私の足取りは重くなっていきます。煌びやかな世界とは真逆の狭くて暗い世界に私は戻って行きました。
 家の扉を開けると灯りがぼんやりと点いていて、一瞬怯んでしまいます。
 帰っているんだ。
 父親が奥のベッドで高いびきをかいていました。私は扉を閉めて自分の場所へ真っ直ぐ向かいます。ボロボロのソファーにボロボロの毛布。
 父親が気配を感じむくりと頭を起こし、視線が交わります。蔑み舐る視線。私は表情を変えずソファーに潜り込みました。久々にちゃんと見た父親の姿は薄汚く、粗野を絵に描いたようで生理的に嫌悪感を覚えます。何よりあのねっとりした視線が気持ち悪くて仕方ありませんでした。

「はっ! しばらく見ねえ間に随分と小綺麗になったな⋯⋯。まぁ、いい傾向だ。綺麗にしておけ」

 毛布越しに聞こえたその声に私の肌が粟立ちます。私は毛布を頭まで被り直し、鬱々とした気持ちでまんじりとしない一夜を過ごしました。

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