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壁の向こう
怯えは緩慢な時を運びます
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「ウッ⋯⋯ゥェッ」
「吐くなら、外で吐いて来なさい!!」
その光景を例えるなら地獄かも知れません。中を隠していた壁を通り抜けると現れたのは、横たわるいくつもの動物達。口は半開き、舌はだらしなくはみ出し、どの仔も苦悶の表情を浮かべていました。漂うすえた腐敗臭。腐敗した肉に群がる小虫が、私の眼前を掠めて行きます。
私はモモさんの怒号に、駆け出しました。壁の外へと走り抜け、せり上がる胃の中の物をぶちまけていきます。
「うっ⋯⋯うえっ⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」
死に対峙した事はあります。それも一度や二度ではありません。だけど、あの壁の向こうにあるものは私の出合った死とは全くの別物。
気持ちが悪いというのとは違います。何故かとても苦しい。悲しいとか同情では無く、ただただ、あの光景は苦しかったのです。
次々に壁の向こうへ消えて行く【オルファステイム】の方々を横目に、私は大きく息を吐き出します。
パン!
ハルさんのマネをして両頬を叩き、気合を入れ直します。
しっかりしなきゃ。救える命があるかも知れない。日和るな。
壁の向こうへ再び飛び込みます。口の当て布をしっかりと結び直し、ゴーグルを装着していきます。手袋をギュっとしっかりはめて、壁の向こう側、地獄絵図へと再び飛び込みました。
円形を模る高い壁に沿って巨大な檻と大きなケージが並び、中央には中小のケージが積まれています。広い敷地に置かれているケージと檻の数に、大きな調教店だった事は明白でした。そして檻やケージの中でピクリとも動かない仔の姿。
鍵を開けようと必死にもがき力尽きた姿も多く見えました。地面に転がるケージはもがいた証。そこから這い出ても、力尽きてしまう仔の姿が地面に横たわっていたという事? 扉が開いている空っぽのケージも目に入ります。必死に這い出て力尽きてしまったのでしょうか。
遠目に見える大きな檻の扉が、プラプラと揺れています。今にも朽ち落ちてしまいそうな扉。そんな扉がいくつか散見出来ました。
『『『ガァアアアアアアアアア』』』
轟く咆哮。私は反射的に咆哮の聞こえる方へと顔を向けていました。地面に転がる躯も関係無く、暴走を見せる血塗れのくすんだ灰熊が遠目に映ります。少し距離があるとはいえ、灰色の毛並みは血と埃で薄汚れているのが分かりました。自慢の綺麗な灰色の面影は全くありません。人に寄り添う姿など想像出来ない程のおぞましい姿。
私の足は止まってしまいます。
暴走する灰熊に飛び込んで行く【オルファステイム】のドワーフの姿。これは一体何が起こっているのでしょうか?
何あれ? どういう事? 思考が止まり掛けた所に呼び声が届きます。
「エレナ! こっちに急いで!!」
モモさんの叫びに、駆け出します。目を落せば、札の色はほとんどが黒です。開始してまだ間も無いというのに、モモさんのエプロンも、アウロさんのエプロンも、すでに汚れていました。
「すいません!」
「大丈夫? いい、絶対素手で触らない。触った手で直接皮膚に触れてはダメ。どんな菌が繫殖しているか分からないからね、気を付けて!」
「はい」
「それじゃ、馬車の中で言われた通り頼むわね」
「あの灰熊は⋯⋯」
「【オルファステイム】に任せます。私達はその分一頭でも多く救います。いい?」
「はい」
モモさんはひとつ頷き走り出しました。
私は注射器の入った鞄と薬液の入った鞄を両肩に掛け、アウロさんとモモさんの後を追い掛けます。背後に猛り狂う灰熊の咆哮を感じながら、必死に足を動かして行きました。
重い。特に薬液の鞄は肩にどんどんと食い込んで来ました。口を覆う布が呼吸を邪魔して、息苦しさを感じます。アウロさんがひとり先行して次々に札を投げ置いていました。その素早い判断に喰らい付いていかなければなりません。
緑の札⋯⋯緑の札⋯⋯。
地面に転がる仔達を睨みます。背中越しに聞こえていた灰熊の咆哮もいつの間にか気にならなくなっていました。
あった。緑⋯⋯。
って、これで緑⋯⋯。
片手が千切れた大型犬。苦しそうな呼吸、千切れた腕には虫が湧いています。腐った肉に群がる虫を払う事も出来ず、力の無い瞳でただ呼吸をしているだけ。
私は直ぐに痛み止めと化膿止めを準備。薬液を注射器に吸い込みます。
「大丈夫。今、楽になるからね。もう少し頑張ろう」
もう十分頑張っている仔に頑張れなんて酷でしか無いのは分かっています。でも、今の私に掛けられる言葉はそれだけでした。
犬の背中に注射器を躊躇無く刺し、急いでポンプして行きます。
千切れた腕を止血の為に縛り上げ、頭をひと撫でして次へと急ぎました。
「エレナ! こっち手伝って!」
「はい!」
モモさんが大型種であるイスタルタイガーの治療に当たっていました。
意識はほとんど無いようです。荒い息遣いですが、とても浅いです。
お腹がパンパンに張っていて、そこに触れているモモさんの顔は厳しさを増して行きました。
「荷車から敷布と酒精。点滴の準備、塩水と輸液を大量。痛み止めと昇圧剤の準備をお願い」
「はい」
もしかして、ここで手術ですか⋯⋯。麻酔無しで可哀そうですが、致し方ありませんか。
敷布を地面に敷いていき、資材の準備を急ぎます。
「エレナ、足を持って。持ち上げなくていいから引きずるよ、1、2、3⋯⋯」
くっ! 重い!!
ズズっと大きな体を引きずり、敷布の上へと誘導します。皺を作りながらも敷布の上に誘導出来ました。
「お腹を消毒!」
「はい」
息つく暇もありません。酒精を乱暴に振り掛け、布で伸ばして行きます。
モモさんは乱暴にお腹の毛を刈ると、自身のポーチからメスを取り出しました。
「ふぅー」
メスを握るモモさんが、ひとつ息を吐き出しお腹をメスで撫でて行きます。私は息を飲み、その姿を目で追うだけでした。
一筋の赤い線がお腹に描かれた瞬間、破裂するかのようにお腹が割れていきます。吹き出す血が噴水のように湧き上がり、私達を汚していきました。
「うっ⋯⋯」
一瞬だけ顔をしかめて、モモさんは割れたお腹に手を深々と入れていきます。きっと血の出所を探っているのだと思い、止血クリップを手に準備しました。その姿に気付いたモモさんがひとつ頷いて見せ、真剣な表情でお腹の中をまさぐって行きます。
「ふたつ」
「はい」
手を伸ばすモモさんに、止血クリップを手渡すと割れたお腹へ再び両の手を深々と入れ直して行きました。
「エレナ、ありがとう。自分の仕事に戻って」
「分かりました」
わずかな施術時間だったと思います。焦りからなのか、ここでの時間の感覚が完全に麻痺してしまっていたのです。ひとつひとつの所作がもどかしく感じます。急ぎたいのに急げない。そんな感じでした。
私は未確認の場所へと急ぎます。遠ざかるアウロさんとモモさんの姿が焦燥を運び、焦りは募るばかりでした。
課せられた仕事は思うように進みません。転がる札は終わりを告げる黒ばかり。
急ごう。
まだ助ける事が出来る仔は、きっといるはず。
離れてしまったふたりの背を追うべく、私は今一度地面を蹴りました。
『『『ガァアアアアアアアアア』』』
それは走り出した私のすぐ背後。
その咆哮が轟きます。
地響きを伴う足音と振動が私の体を震わせます。
その咆哮は恐怖を想起させ、私の体は激しい強張りを見せました。
「逃げろ!!」
聞いた事のある女性の声⋯⋯。
緩慢になる思考。動かない体。振り返ると両腕を高く上げている灰熊の巨躯が迫っていました。
血走った我を失っている瞳。剝き出しの牙からは、だらしなく涎を垂らし、欲望を露にしていました。
大きく振り上げられた両腕が振り下ろされます。その腕に備わる鋭い爪先は、間違いなく私へと向いていました。
「吐くなら、外で吐いて来なさい!!」
その光景を例えるなら地獄かも知れません。中を隠していた壁を通り抜けると現れたのは、横たわるいくつもの動物達。口は半開き、舌はだらしなくはみ出し、どの仔も苦悶の表情を浮かべていました。漂うすえた腐敗臭。腐敗した肉に群がる小虫が、私の眼前を掠めて行きます。
私はモモさんの怒号に、駆け出しました。壁の外へと走り抜け、せり上がる胃の中の物をぶちまけていきます。
「うっ⋯⋯うえっ⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」
死に対峙した事はあります。それも一度や二度ではありません。だけど、あの壁の向こうにあるものは私の出合った死とは全くの別物。
気持ちが悪いというのとは違います。何故かとても苦しい。悲しいとか同情では無く、ただただ、あの光景は苦しかったのです。
次々に壁の向こうへ消えて行く【オルファステイム】の方々を横目に、私は大きく息を吐き出します。
パン!
ハルさんのマネをして両頬を叩き、気合を入れ直します。
しっかりしなきゃ。救える命があるかも知れない。日和るな。
壁の向こうへ再び飛び込みます。口の当て布をしっかりと結び直し、ゴーグルを装着していきます。手袋をギュっとしっかりはめて、壁の向こう側、地獄絵図へと再び飛び込みました。
円形を模る高い壁に沿って巨大な檻と大きなケージが並び、中央には中小のケージが積まれています。広い敷地に置かれているケージと檻の数に、大きな調教店だった事は明白でした。そして檻やケージの中でピクリとも動かない仔の姿。
鍵を開けようと必死にもがき力尽きた姿も多く見えました。地面に転がるケージはもがいた証。そこから這い出ても、力尽きてしまう仔の姿が地面に横たわっていたという事? 扉が開いている空っぽのケージも目に入ります。必死に這い出て力尽きてしまったのでしょうか。
遠目に見える大きな檻の扉が、プラプラと揺れています。今にも朽ち落ちてしまいそうな扉。そんな扉がいくつか散見出来ました。
『『『ガァアアアアアアアアア』』』
轟く咆哮。私は反射的に咆哮の聞こえる方へと顔を向けていました。地面に転がる躯も関係無く、暴走を見せる血塗れのくすんだ灰熊が遠目に映ります。少し距離があるとはいえ、灰色の毛並みは血と埃で薄汚れているのが分かりました。自慢の綺麗な灰色の面影は全くありません。人に寄り添う姿など想像出来ない程のおぞましい姿。
私の足は止まってしまいます。
暴走する灰熊に飛び込んで行く【オルファステイム】のドワーフの姿。これは一体何が起こっているのでしょうか?
何あれ? どういう事? 思考が止まり掛けた所に呼び声が届きます。
「エレナ! こっちに急いで!!」
モモさんの叫びに、駆け出します。目を落せば、札の色はほとんどが黒です。開始してまだ間も無いというのに、モモさんのエプロンも、アウロさんのエプロンも、すでに汚れていました。
「すいません!」
「大丈夫? いい、絶対素手で触らない。触った手で直接皮膚に触れてはダメ。どんな菌が繫殖しているか分からないからね、気を付けて!」
「はい」
「それじゃ、馬車の中で言われた通り頼むわね」
「あの灰熊は⋯⋯」
「【オルファステイム】に任せます。私達はその分一頭でも多く救います。いい?」
「はい」
モモさんはひとつ頷き走り出しました。
私は注射器の入った鞄と薬液の入った鞄を両肩に掛け、アウロさんとモモさんの後を追い掛けます。背後に猛り狂う灰熊の咆哮を感じながら、必死に足を動かして行きました。
重い。特に薬液の鞄は肩にどんどんと食い込んで来ました。口を覆う布が呼吸を邪魔して、息苦しさを感じます。アウロさんがひとり先行して次々に札を投げ置いていました。その素早い判断に喰らい付いていかなければなりません。
緑の札⋯⋯緑の札⋯⋯。
地面に転がる仔達を睨みます。背中越しに聞こえていた灰熊の咆哮もいつの間にか気にならなくなっていました。
あった。緑⋯⋯。
って、これで緑⋯⋯。
片手が千切れた大型犬。苦しそうな呼吸、千切れた腕には虫が湧いています。腐った肉に群がる虫を払う事も出来ず、力の無い瞳でただ呼吸をしているだけ。
私は直ぐに痛み止めと化膿止めを準備。薬液を注射器に吸い込みます。
「大丈夫。今、楽になるからね。もう少し頑張ろう」
もう十分頑張っている仔に頑張れなんて酷でしか無いのは分かっています。でも、今の私に掛けられる言葉はそれだけでした。
犬の背中に注射器を躊躇無く刺し、急いでポンプして行きます。
千切れた腕を止血の為に縛り上げ、頭をひと撫でして次へと急ぎました。
「エレナ! こっち手伝って!」
「はい!」
モモさんが大型種であるイスタルタイガーの治療に当たっていました。
意識はほとんど無いようです。荒い息遣いですが、とても浅いです。
お腹がパンパンに張っていて、そこに触れているモモさんの顔は厳しさを増して行きました。
「荷車から敷布と酒精。点滴の準備、塩水と輸液を大量。痛み止めと昇圧剤の準備をお願い」
「はい」
もしかして、ここで手術ですか⋯⋯。麻酔無しで可哀そうですが、致し方ありませんか。
敷布を地面に敷いていき、資材の準備を急ぎます。
「エレナ、足を持って。持ち上げなくていいから引きずるよ、1、2、3⋯⋯」
くっ! 重い!!
ズズっと大きな体を引きずり、敷布の上へと誘導します。皺を作りながらも敷布の上に誘導出来ました。
「お腹を消毒!」
「はい」
息つく暇もありません。酒精を乱暴に振り掛け、布で伸ばして行きます。
モモさんは乱暴にお腹の毛を刈ると、自身のポーチからメスを取り出しました。
「ふぅー」
メスを握るモモさんが、ひとつ息を吐き出しお腹をメスで撫でて行きます。私は息を飲み、その姿を目で追うだけでした。
一筋の赤い線がお腹に描かれた瞬間、破裂するかのようにお腹が割れていきます。吹き出す血が噴水のように湧き上がり、私達を汚していきました。
「うっ⋯⋯」
一瞬だけ顔をしかめて、モモさんは割れたお腹に手を深々と入れていきます。きっと血の出所を探っているのだと思い、止血クリップを手に準備しました。その姿に気付いたモモさんがひとつ頷いて見せ、真剣な表情でお腹の中をまさぐって行きます。
「ふたつ」
「はい」
手を伸ばすモモさんに、止血クリップを手渡すと割れたお腹へ再び両の手を深々と入れ直して行きました。
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「分かりました」
わずかな施術時間だったと思います。焦りからなのか、ここでの時間の感覚が完全に麻痺してしまっていたのです。ひとつひとつの所作がもどかしく感じます。急ぎたいのに急げない。そんな感じでした。
私は未確認の場所へと急ぎます。遠ざかるアウロさんとモモさんの姿が焦燥を運び、焦りは募るばかりでした。
課せられた仕事は思うように進みません。転がる札は終わりを告げる黒ばかり。
急ごう。
まだ助ける事が出来る仔は、きっといるはず。
離れてしまったふたりの背を追うべく、私は今一度地面を蹴りました。
『『『ガァアアアアアアアアア』』』
それは走り出した私のすぐ背後。
その咆哮が轟きます。
地響きを伴う足音と振動が私の体を震わせます。
その咆哮は恐怖を想起させ、私の体は激しい強張りを見せました。
「逃げろ!!」
聞いた事のある女性の声⋯⋯。
緩慢になる思考。動かない体。振り返ると両腕を高く上げている灰熊の巨躯が迫っていました。
血走った我を失っている瞳。剝き出しの牙からは、だらしなく涎を垂らし、欲望を露にしていました。
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