ハルヲンテイムへようこそ

坂門

文字の大きさ
76 / 180
壁の向こう

怯えは緩慢な時を運びます

しおりを挟む
「ウッ⋯⋯ゥェッ」
「吐くなら、外で吐いて来なさい!!」

 その光景を例えるなら地獄かも知れません。中を隠していた壁を通り抜けると現れたのは、横たわるいくつもの動物モンスター達。口は半開き、舌はだらしなくはみ出し、どの仔も苦悶の表情を浮かべていました。漂うすえた腐敗臭。腐敗した肉に群がる小虫が、私の眼前を掠めて行きます。
 
 私はモモさんの怒号に、駆け出しました。壁の外へと走り抜け、せり上がる胃の中の物をぶちまけていきます。

「うっ⋯⋯うえっ⋯⋯はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯」

 死に対峙した事はあります。それも一度や二度ではありません。だけど、あの壁の向こうにあるものは私の出合った死とは全くの別物。
 気持ちが悪いというのとは違います。何故かとても苦しい。悲しいとか同情では無く、ただただ、あの光景は苦しかったのです。

 次々に壁の向こうへ消えて行く【オルファステイム】の方々を横目に、私は大きく息を吐き出します。

 パン!

 ハルさんのマネをして両頬を叩き、気合を入れ直します。
 しっかりしなきゃ。救える命があるかも知れない。日和ひよるな。
 壁の向こうへ再び飛び込みます。口の当て布をしっかりと結び直し、ゴーグルを装着していきます。手袋をギュっとしっかりはめて、壁の向こう側、地獄絵図へと再び飛び込みました。

 円形を模る高い壁に沿って巨大な檻と大きなケージが並び、中央には中小のケージが積まれています。広い敷地に置かれているケージと檻の数に、大きな調教店テイムショップだった事は明白でした。そして檻やケージの中でピクリとも動かない仔の姿。
 鍵を開けようと必死にもがき力尽きた姿も多く見えました。地面に転がるケージはもがいたあかし。そこから這い出ても、力尽きてしまう仔の姿が地面に横たわっていたという事? 扉が開いている空っぽのケージも目に入ります。必死に這い出て力尽きてしまったのでしょうか。
 遠目に見える大きな檻の扉が、プラプラと揺れています。今にも朽ち落ちてしまいそうな扉。そんな扉がいくつか散見出来ました。


『『『ガァアアアアアアアアア』』』

 轟く咆哮。私は反射的に咆哮の聞こえる方へと顔を向けていました。地面に転がる躯も関係無く、暴走を見せる血塗れのくすんだ灰熊オウルベアが遠目に映ります。少し距離があるとはいえ、灰色の毛並みは血と埃で薄汚れているのが分かりました。自慢の綺麗な灰色の面影は全くありません。人に寄り添う姿など想像出来ない程のおぞましい姿。
 私の足は止まってしまいます。
 暴走する灰熊オウルベアに飛び込んで行く【オルファステイム】のドワーフの姿。これは一体何が起こっているのでしょうか?
 何あれ? どういう事? 思考が止まり掛けた所に呼び声が届きます。

「エレナ! こっちに急いで!!」

 モモさんの叫びに、駆け出します。目を落せば、札の色はほとんどが黒です。開始してまだ間も無いというのに、モモさんのエプロンも、アウロさんのエプロンも、すでに汚れていました。

「すいません!」
「大丈夫? いい、絶対素手で触らない。触った手で直接皮膚に触れてはダメ。どんな菌が繫殖しているか分からないからね、気を付けて!」
「はい」
「それじゃ、馬車の中で言われた通り頼むわね」
「あの灰熊オウルベアーは⋯⋯」
「【オルファステイム】に任せます。私達はその分一頭でも多く救います。いい?」
「はい」

 モモさんはひとつ頷き走り出しました。
 私は注射器シリンジの入った鞄と薬液の入った鞄を両肩に掛け、アウロさんとモモさんの後を追い掛けます。背後に猛り狂う灰熊オウルベアーの咆哮を感じながら、必死に足を動かして行きました。

 重い。特に薬液の鞄は肩にどんどんと食い込んで来ました。口を覆う布が呼吸を邪魔して、息苦しさを感じます。アウロさんがひとり先行して次々に札を投げ置いていました。その素早い判断に喰らい付いていかなければなりません。

 緑の札⋯⋯緑の札⋯⋯。
 地面に転がる仔達を睨みます。背中越しに聞こえていた灰熊オウルベアーの咆哮もいつの間にか気にならなくなっていました。
 あった。緑⋯⋯。
 って、これで緑⋯⋯。
 片手が千切れた大型犬。苦しそうな呼吸、千切れた腕には虫が湧いています。腐った肉に群がる虫を払う事も出来ず、力の無い瞳でただ呼吸をしているだけ。
 私は直ぐに痛み止めと化膿止めを準備。薬液を注射器シリンジに吸い込みます。

「大丈夫。今、楽になるからね。もう少し頑張ろう」

 もう十分頑張っている仔に頑張れなんて酷でしか無いのは分かっています。でも、今の私に掛けられる言葉はそれだけでした。
 犬の背中に注射器シリンジを躊躇無く刺し、急いでポンプして行きます。
 千切れた腕を止血の為に縛り上げ、頭をひと撫でして次へと急ぎました。

「エレナ! こっち手伝って!」
「はい!」

 モモさんが大型種であるイスタルタイガーの治療に当たっていました。
 意識はほとんど無いようです。荒い息遣いですが、とても浅いです。
 お腹がパンパンに張っていて、そこに触れているモモさんの顔は厳しさを増して行きました。

「荷車から敷布と酒精アルコール。点滴の準備、塩水と輸液を大量。痛み止めと昇圧剤の準備をお願い」
「はい」

 もしかして、ここで手術オペですか⋯⋯。麻酔無しで可哀そうですが、致し方ありませんか。
 敷布を地面に敷いていき、資材の準備を急ぎます。

「エレナ、足を持って。持ち上げなくていいから引きずるよ、1、2、3⋯⋯」

 くっ! 重い!!
 ズズっと大きな体を引きずり、敷布の上へと誘導します。皺を作りながらも敷布の上に誘導出来ました。

「お腹を消毒!」
「はい」

 息つく暇もありません。酒精アルコールを乱暴に振り掛け、布で伸ばして行きます。
 モモさんは乱暴にお腹の毛を刈ると、自身のポーチからメスを取り出しました。

「ふぅー」

 メスを握るモモさんが、ひとつ息を吐き出しお腹をメスで撫でて行きます。私は息を飲み、その姿を目で追うだけでした。
 一筋の赤い線がお腹に描かれた瞬間、破裂するかのようにお腹が割れていきます。吹き出す血が噴水のように湧き上がり、私達を汚していきました。

「うっ⋯⋯」

 一瞬だけ顔をしかめて、モモさんは割れたお腹に手を深々と入れていきます。きっと血の出所を探っているのだと思い、止血クリップを手に準備しました。その姿に気付いたモモさんがひとつ頷いて見せ、真剣な表情でお腹の中をまさぐって行きます。

「ふたつ」
「はい」

 手を伸ばすモモさんに、止血クリップを手渡すと割れたお腹へ再び両の手を深々と入れ直して行きました。

「エレナ、ありがとう。自分の仕事に戻って」
「分かりました」

 わずかな施術時間だったと思います。焦りからなのか、ここでの時間の感覚が完全に麻痺してしまっていたのです。ひとつひとつの所作がもどかしく感じます。急ぎたいのに急げない。そんな感じでした。


 私は未確認の場所へと急ぎます。遠ざかるアウロさんとモモさんの姿が焦燥を運び、焦りは募るばかりでした。
 課せられた仕事は思うように進みません。転がる札は終わりを告げる黒ばかり。
 急ごう。
 まだ助ける事が出来る仔は、きっといるはず。
 離れてしまったふたりの背を追うべく、私は今一度地面を蹴りました。

『『『ガァアアアアアアアアア』』』

 それは走り出した私のすぐ背後。
 その咆哮が轟きます。
 地響きを伴う足音と振動が私の体を震わせます。
 その咆哮は恐怖を想起させ、私の体は激しい強張りを見せました。

「逃げろ!!」

 聞いた事のある女性の声⋯⋯。
 緩慢になる思考。動かない体。振り返ると両腕を高く上げている灰熊オウルベアーの巨躯が迫っていました。
 血走った我を失っている瞳。剝き出しの牙からは、だらしなく涎を垂らし、欲望を露にしていました。
 大きく振り上げられた両腕が振り下ろされます。その腕に備わる鋭い爪先は、間違いなく私へと向いていました。
 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

おっさん武闘家、幼女の教え子達と十年後に再会、実はそれぞれ炎・氷・雷の精霊の王女だった彼女達に言い寄られつつ世界を救い英雄になってしまう

お餅ミトコンドリア
ファンタジー
 パーチ、三十五歳。五歳の時から三十年間修行してきた武闘家。  だが、全くの無名。  彼は、とある村で武闘家の道場を経営しており、〝拳を使った戦い方〟を弟子たちに教えている。  若い時には「冒険者になって、有名になるんだ!」などと大きな夢を持っていたものだが、自分の道場に来る若者たちが全員〝天才〟で、自分との才能の差を感じて、もう諦めてしまった。  弟子たちとの、のんびりとした穏やかな日々。  独身の彼は、そんな彼ら彼女らのことを〝家族〟のように感じており、「こんな毎日も悪くない」と思っていた。  が、ある日。 「お久しぶりです、師匠!」  絶世の美少女が家を訪れた。  彼女は、十年前に、他の二人の幼い少女と一緒に山の中で獣(とパーチは思い込んでいるが、実はモンスター)に襲われていたところをパーチが助けて、その場で数時間ほど稽古をつけて、自分たちだけで戦える力をつけさせた、という女の子だった。 「私は今、アイスブラット王国の〝守護精霊〟をやっていまして」  精霊を自称する彼女は、「ちょ、ちょっと待ってくれ」と混乱するパーチに構わず、ニッコリ笑いながら畳み掛ける。 「そこで師匠には、私たちと一緒に〝魔王〟を倒して欲しいんです!」  これは、〝弟子たちがあっと言う間に強くなるのは、師匠である自分の特殊な力ゆえ〟であることに気付かず、〝実は最強の実力を持っている〟ことにも全く気付いていない男が、〝実は精霊だった美少女たち〟と再会し、言い寄られ、弟子たちに愛され、弟子以外の者たちからも尊敬され、世界を救って英雄になってしまう物語。 (※第18回ファンタジー小説大賞に参加しています。 もし宜しければ【お気に入り登録】で応援して頂けましたら嬉しいです! 何卒宜しくお願いいたします!)

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません

きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」 「正直なところ、不安を感じている」 久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー 激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。 アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。 第2幕、連載開始しました! お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。 以下、1章のあらすじです。 アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。 表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。 常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。 それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。 サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。 しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。 盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。 アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?

処理中です...