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坂門

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壁の向こう

かがり火はもどかしさを映し出します

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「走るんだ! 走れ!」

 男性の叫びが届きます。
 冷静は押し潰され、焦りが襲って来ました。
 我に返る時間など与えてはくれません。硬直する体はもどかしく、背後に轟くのは耳をつんざく程の咆哮。
 動け! 自分!
 その叫びに重い一歩を踏み出しました。よろめき、躓きながらも、もがき進みます。

「つっ! 遅いわ!!」
「きゃぁっ!」

 背中からの激しい当たりに私の体は宙を舞います。
 刹那、ガツッ! と激しい衝突音が背後で鳴りました。地面を何度も転がり顔を上げると、盾を構えるドワーフの女性。
 ヤヤさん!?
 暴走する灰熊オウルベアと対峙しているのは、トリマーのヤヤさんでした。私をかばって突き飛ばしてくれたのだと、その背中で分かりました。
 もし、ヤヤさんの突き飛ばしが間に合わなかったら⋯⋯。
 あの鋭い爪が私の背中を斬り裂き、あの牙が私の頭を噛み砕いていたのかも知れない⋯⋯。
 恐怖が襲います。背筋に冷たい物が走り、身震いしてしまいました。

「今のうちに」

 私の手を引いてくれたのはデルクスさん。私は茫然と動かない頭で、必死にデルクスさんについて行きました。

「す、すいません⋯⋯ありがとうございます⋯⋯」
「いや、こちらこそすまない。抑えきれなかった。こっちに」

 デルクスさんが灰熊オウルベアの視線から遠ざかるようにと、私を手引きして下さいました。心臓はずっと暴れていて、落ち着きません。遠ざかる灰熊オウルベア。背後で轟く咆哮。私は今更ながら、恐怖に足がすくんでしまいます。
 そんな私にデルクスさんが、気を使って優しく言葉を掛けてくれました。

「もう、大丈夫。【ハルヲンテイム】の作業を邪魔するものはないよ。心配しないで。見てごらん。今、ヤヤが仕留める」

 デルクスさんの指す方へ振り返ります。ヤヤさんの握る戦鎚ウォーハンマーが、灰熊オウルベアのこめかみを打ち抜きました。膝から崩れ落ちる灰熊オウルベアの姿。その姿にデルクスさんは大きく息を吐き出し、やるせない思いも一緒に吐き出していました。

「本当だったら、救ける事が出来たはずなんだ。かわいそうに⋯⋯」

 その言葉が心からの言葉だと、憂いを見せるデルクスさんの瞳から伝わります。

「それに⋯⋯何かがおかしい⋯⋯」

 ふと零したデルクスさんの言葉。何か引っ掛かっている物言いが、とても気になります。デルクスさんから見え隠れする後悔と困惑。何がデルクスさんにそう思わせているのか、この時は分かりませんでした。私は気になりながらも、自らの仕事へ戻って行きます。

「デルクスさん、あ、ありがとうございました。戻ります⋯⋯」
「うん。もう大丈夫だと思うけど、一応周りには気を付けて」
「は、はい⋯⋯」

 心臓は落ち着かず、暴れたままです。膜を張った鼓膜に届くのは、自身の早い拍動だけ。落ち着かない拍動は呼吸を荒くし、視野を狭めてしまいます。
 そうだ⋯⋯緑の札⋯⋯。
 いつ届くかも分からない咆哮に怯え、足は思うように動きません。
 あった⋯⋯緑。
 注射器シリンジの針を酒精アルコールで消毒。痛み止めと栄養剤を吸い上げます。早く打ってあげないと。横たわる猫の背中に針を刺し、ポンプしました。
 つ、次。
 黒、黒、黒、黒、黒⋯⋯。
 
(はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ⋯⋯)
 
 黒、黒、黒、黒⋯⋯。

 口を覆う布が邪魔をして呼吸が上手く出来ません。吸っても、吸っても、吸っても、息苦しい。
 
「エレナ! 息を止めて!」
 
 アウロさんがこちらに近づく姿が朧気です。視界がチカチカと明滅を繰り返し、アウロさんの姿を隠して行きました。

「ちゃんと吐いて! 過呼吸起こしているよ!」

 アウロさんが私の口元に袋を当てます。
 過呼吸? 私が?

「吐いて、吸って、落ち着いて。そう、ゆっくりとね」

 膨らんだり、縮んだりする袋がはっきり見えて来ると呼吸が落ち着いて行きました。私はアウロさんに頷いて見せると、アウロさんもひとつ頷いて袋を外します。

「すいません⋯⋯大丈夫です」
「この光景にびっくりしちゃった?」
「いえ⋯⋯はい。びっくりしました。あと先程【オルファステイム】の方に助けて頂いて⋯⋯」

 私の心臓がまた暴れ出します。

「大丈夫。見てごらん、エレナを襲うものはもういない。大丈夫」

 アウロさんの言葉に顔を上げて見渡しました。恐怖を運ぶものはそこにはありません。立ち上がっている姿を見せるのは作業に当たっている人々の姿。私は大きく息を吐き出して、顔を上げます。大丈夫と言うアウロさんの言葉を反芻して、暴れる心臓を落ち着けて行きました。

「はい」
「うん。僕はモモを手伝ってくる。頼んだよ」
「はい」

 私はもう一度しっかりと返事をしました。心臓は落ち着き切らないのですが、きっとこれはこの光景に対する物。足は動く、手も動く。大丈夫。自身に強く言い聞かせ、再びふたりの後を追いました。


 敷地の中央に組まれた大きな焚火。パチパチと爆ぜる音を鳴らし、炎は高く舞い上がっています。動きまわり火照った体に追い討ちをかける熱。拭う事の出来ない汗は噴き出し、体中を濡らします。だけど、この舞い上がる炎を見つめてしまうのでした。

「「「せーの!」」」

 黒い札を置かれた仔達が焚火にくべられて行きます。動かない体はすぐに炎に巻かれ、小さくなって行きました。次から次。くべられる度に炎が高くなって行きます。どこまでも、どこまでも、悲しい炎は大きくなって行きました。
 陽が落ち始めた現場。炎はみんなの顔を橙色に照らします。私達はそのかがり火を頼りに、息のある仔達を順に並べて行きました。
 
 たったこれだけ。
 
 飼育されていてであろう個体数に対して、地面に寝ている仔はあまりにも少ない。
 五体満足な仔はほぼいません。今にも息が途切れてしまいそうな仔もいます。
 みんな口数は極端に少なく、焚火の爆ぜる音が物悲しく響いていました。

「エレナ、お疲れ様。良く頑張ったわね」
「モモさん⋯⋯」
「辛かったでしょう。なかなか⋯⋯と言うかここまでハードな現場はなかなかないわ。初めてで、これはキツイ」
「ほとんど、助けられませんでした」
「仕方ないとはいえ、早々割り切れないわね。落ち込んでも仕方ないと割り切って、落ち込みなさい。今日はそういう現場よ」
「モモさんもですか?」
「そうよ。あと一日早ければ、半日でも早ければ、助かった命があるかも知れない。ただ、考えてもキリがない事も知っている。そこが、エレナよりお姉さんって所かしら」

 モモさんはそう言って、また治療に戻って行きました。とはいえ、現場で出来る事はもうほとんどありません。ギルドの運搬車の到着を待つだけです。
 誰もが感じている徒労。達成感は皆無です。報われない思いだけが、積み重ねっていきました。

「お疲れ様。大丈夫かい?」
「デルクスさん⋯⋯あ! 助けて頂いて、ありがとうございました」
「いやいや、あれはこっちの不手際だよ。恐い思いをさせて申し訳なかったね」

 いつもの柔らかな声色。相変わらずデルクスさんは、優しいのですね。だけど、その瞳は悲しみを映し出しています。デルクスさんとて同じ、どうしようも出来なかったもどかしさが伝わって来ました。

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