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安寧と隣人
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彼女曰く――
『以前にベッドを使わせて貰ったとき、本当にぐっすり眠れたんです……』
ということらしい。彼女自身にも無茶苦茶なお願いをしていることに自覚があるようだが、恐らく藁にもすがる思いだったのだろう。それを無下にするのは忍びなかった、というのが私が彼女のお願いを聞き入れた理由の一つかもしれない。もちろん、後から考えてそう思ったというだけだ。実際、私がその瞬間に何を考えていたのかは闇の中である。
時間は朝8時。今日は9時から仕事なのでまだ時間はある。人栄さんは一度家に戻ったが、私が部屋に帰ってから10分も立たずにインターホンを鳴らしてくれた。
「本当に、不躾なことを申してしまい……」
彼女は非常に恐縮した様子だ。しかし、先程よりもさらにリラックスした服装になっており、恐らく眠りやすいような格好を選んできたのだろう。
「いえ、不眠は本当に辛いものですから……生活の基本は食事と睡眠ですよ」
両親を亡くした頃は訳も分からず眠れない日々が続いたことが脳裏をよぎり、それを振り払うために私は軽く頭を振った。
「すぐにベッドに入りますか?」
「えっと、じゃあ……はい」
彼女はうつむきがちながらも恥ずかしそうにそう言う。
それではどうぞ、と彼女をベッドルームに案内して私は仕事の準備を始めた。彼女は良く眠ることができるだろうか、そんなことを考えながら私はコーヒーを淹れる。普段はインスタントなのだが、なんとなく飲みたくなったのでドリップして、その液体がサーバーの中に落ちていくのをぼんやりと眺める。
――今日の仕事は集中できるだろうか。
『先輩、なああんか変な顔ですね。隣人さんと何かありました?」
にやにや笑いの矢賀さんは、ディスプレイの向こう側で膝を抱えて椅子に座っている。
「特になにもありませんよ。ただの隣人の方とそこまで頻繁に接触しません」
真っ赤な嘘だが強気で押し通すことにする。
『ふーん。まあいいですよー』
「とにかく、今週の予定を確認しましょう。私は……珍しく水、木、金と打ち合わせが続きます。急な連絡があってもタイムリーに返信できないと思いますので注意してくださいね」
『お、先輩ってば人気者!私の方は、今の所なーんにもないっす。今週はのんびり社内規程の整備を進めてますね』
「了解。もしかしたら私の方の案件でお願いすることがあるかもしれませんので、そのときはメールかなにかでご連絡します」
『はいっ。いやあ、またしばらくは先輩とは顔を合わせないので寂しくなりますねえ』
「……まあ、必要があれば機会を設けましょう」
『あれ?今日はいつもより優しくないです?』
矢賀さんは私の微妙な雰囲気の違いを察知したのか、そんな事を言う。本当に目ざとい子だ。
「そんなことはないですよ。さて、何もなければ通話を終了しますが」
『うーん……いや、大丈夫っす。それじゃあ今週も頑張りましょう!』
私が週明けに良く言っていたセリフを真似しつつ、矢賀さんは画面から消えていった。
「ふう……」
仕事は始まったばかり。しかし、なんとなく今日はあまり精力的に働く気がしないのも事実だ。
「……うん、書類の整理をしようかな」
そういうわけで、散らかったデスクトップを案件ごとに整理し直すという必要なことだが、積極的にやらないような作業に取り組むことにした。決してサボりではなく、今後の仕事に必要な作業というのがミソなのだ。たまにはこういうことをしてもいいだろう。
昼休み。一応、人栄さんにも昼食を食べるか声をかけようと、ベッドルームをノックする。しかし返事はない。
「人栄さん?」
再度ノックとともに声をかけてみるが同様である。一応中に入ってみようかと思ったが、ぐっすりと眠っているのであれば起こしてしまうのも忍びない。
結局ベッドルームに入ることは諦め、私は余った食パンにピザソースとチーズを載せて焼いただけのものを昼食としつつ、昼休みをぼんやりと過ごすのであった。
『以前にベッドを使わせて貰ったとき、本当にぐっすり眠れたんです……』
ということらしい。彼女自身にも無茶苦茶なお願いをしていることに自覚があるようだが、恐らく藁にもすがる思いだったのだろう。それを無下にするのは忍びなかった、というのが私が彼女のお願いを聞き入れた理由の一つかもしれない。もちろん、後から考えてそう思ったというだけだ。実際、私がその瞬間に何を考えていたのかは闇の中である。
時間は朝8時。今日は9時から仕事なのでまだ時間はある。人栄さんは一度家に戻ったが、私が部屋に帰ってから10分も立たずにインターホンを鳴らしてくれた。
「本当に、不躾なことを申してしまい……」
彼女は非常に恐縮した様子だ。しかし、先程よりもさらにリラックスした服装になっており、恐らく眠りやすいような格好を選んできたのだろう。
「いえ、不眠は本当に辛いものですから……生活の基本は食事と睡眠ですよ」
両親を亡くした頃は訳も分からず眠れない日々が続いたことが脳裏をよぎり、それを振り払うために私は軽く頭を振った。
「すぐにベッドに入りますか?」
「えっと、じゃあ……はい」
彼女はうつむきがちながらも恥ずかしそうにそう言う。
それではどうぞ、と彼女をベッドルームに案内して私は仕事の準備を始めた。彼女は良く眠ることができるだろうか、そんなことを考えながら私はコーヒーを淹れる。普段はインスタントなのだが、なんとなく飲みたくなったのでドリップして、その液体がサーバーの中に落ちていくのをぼんやりと眺める。
――今日の仕事は集中できるだろうか。
『先輩、なああんか変な顔ですね。隣人さんと何かありました?」
にやにや笑いの矢賀さんは、ディスプレイの向こう側で膝を抱えて椅子に座っている。
「特になにもありませんよ。ただの隣人の方とそこまで頻繁に接触しません」
真っ赤な嘘だが強気で押し通すことにする。
『ふーん。まあいいですよー』
「とにかく、今週の予定を確認しましょう。私は……珍しく水、木、金と打ち合わせが続きます。急な連絡があってもタイムリーに返信できないと思いますので注意してくださいね」
『お、先輩ってば人気者!私の方は、今の所なーんにもないっす。今週はのんびり社内規程の整備を進めてますね』
「了解。もしかしたら私の方の案件でお願いすることがあるかもしれませんので、そのときはメールかなにかでご連絡します」
『はいっ。いやあ、またしばらくは先輩とは顔を合わせないので寂しくなりますねえ』
「……まあ、必要があれば機会を設けましょう」
『あれ?今日はいつもより優しくないです?』
矢賀さんは私の微妙な雰囲気の違いを察知したのか、そんな事を言う。本当に目ざとい子だ。
「そんなことはないですよ。さて、何もなければ通話を終了しますが」
『うーん……いや、大丈夫っす。それじゃあ今週も頑張りましょう!』
私が週明けに良く言っていたセリフを真似しつつ、矢賀さんは画面から消えていった。
「ふう……」
仕事は始まったばかり。しかし、なんとなく今日はあまり精力的に働く気がしないのも事実だ。
「……うん、書類の整理をしようかな」
そういうわけで、散らかったデスクトップを案件ごとに整理し直すという必要なことだが、積極的にやらないような作業に取り組むことにした。決してサボりではなく、今後の仕事に必要な作業というのがミソなのだ。たまにはこういうことをしてもいいだろう。
昼休み。一応、人栄さんにも昼食を食べるか声をかけようと、ベッドルームをノックする。しかし返事はない。
「人栄さん?」
再度ノックとともに声をかけてみるが同様である。一応中に入ってみようかと思ったが、ぐっすりと眠っているのであれば起こしてしまうのも忍びない。
結局ベッドルームに入ることは諦め、私は余った食パンにピザソースとチーズを載せて焼いただけのものを昼食としつつ、昼休みをぼんやりと過ごすのであった。
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