何でもない日の、謎な日常

イトウ 

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まだ始まっていない

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 鎌倉の山奥に私立森守の山学園がある。

「もりもりのやま」という冗談みたいな名前だが、創立されて70年くらいの歴史ある私立高校だ。

 この学校には、放課後の火曜日と木曜日に、英語と数学の補習授業が設けられていて、希望者のみではあるが、塾代わりで参加する生徒も多い。

 篠田桃夢しのだ とうむ33才は、母校でもある、この高校へ一時間もかけて登山出勤している。
 しかしながら、通勤時間は徒歩扱いで、まったく手当が出ない。
 せめて時間給をくれないだろうか、と毎年昇給の頃に打診はしているのだが、現実は甘くないようだ。

 基本、生徒は通学バスを使い、教師はそのバスに乗らせてもらうか、自家用車を使用している。

 しかし、桃夢は放課後のみの勤務なので、帰りのバスは利用できるものの行きのバスはない。
 それに運転免許証を持っていないから、徒歩しか選択肢はないのだ。

 心肺機能に無理をかけて、落ちている木の枝をパキパキ踏みながら、必死に足を上げる。
 途中、低い樹木に囲まれた古い鳥居に両手を合わせ、横にあった岩に座り少し休む。
 この時だけは、緑の匂いと差し込む光に心が癒やされホッと心が休まる。

 だが、今日は水筒を忘れてしまった。いつもなら、水分補給もこの時に行うのに。

 山の上をまでは、まだまだ山道が続いている。

 この鳥居のあたりで、何度、もう行きたくない、と思ったことか。
 しかし、母親の縁故採用で塾に就職させてもらった手前、変な態度は出来ない。
 もししたら、説教をくらうのは目に見えている。

 どうしようもないな、と惰性で続け、すでに5年も補習講師を続けている。

 突然、風が静かに吹いてきて、とても気持ちが良い。
 やはり、ここの空気は澄んでいる。
 トゲトゲした心を穏やかにしてくれるようだ。

 そのまま数分休むと汗が少しひいてきた。
 それから、ラストスパートをかけ一気に頂上までのぼる。

 やっと着いたと背伸びをしていたら、昇降口から男子生徒が元気に向かって走ってきた。

「遭難してるのかと、思いました」

 第一声がそれか、と桃夢は大きなため息をつく。

 3年の生徒の金井翔太かない しょうただ。

 翔太は桃夢の補習が終わった後、バドミントン部に走っていく。
 この高校は、なかなかの強豪校らしく練習も忙しいようだ。
 3年は引退がそろそろのようで、それまでは休みたくないと頑張っているらしい。

 そんな張り切っている運動部の生徒には、30過ぎのインドア人間の俺の気持ちは分からないだろう。

 桃夢は、少し反撃してやろうと翔太が言われて嫌なことを考える。

「そういえば、英語の文法を全然勉強してこないって石川先生が言ってたぞ」

 翔太はダメージを受けた顔をした。
 少しは、仕返しが出来ようで嬉しい。

「何も反論できない!桃夢先生にやり返された。……分かってる。少しは頑張るよ。そうだ。これ、あげるよ」

 翔太は手に持っていたスポーツドリンクを、桃夢にポンと投げた。

「じゃ、補習授業の教室でね。桃夢先生」

 慌てて手を出して、受け取ったドリンクは冷たかった。
 昇降口で待っていたようだし、わざわざ買ってくれたのだろうか。

 真実は分からないが、桃夢は喉が乾いていたので一気に飲んだ。とても、ありがたい。

 じわじわと、喉から内蔵へ体に染みわたっていくのが分かる。
 一息がついた時、焦らせるようなテンポのクラシックが流れた。

 下校の時間だ。
 続いて、スピーカーからバスの発車の知らせが入り、残っていた生徒たちがその音に追いかけられるように駆け足で走っている。
 それを見送りながら、桃夢は走る生徒たちとは逆に、先に補習に行った翔太を追うように教室へ向かった。

 教室に入り、いつものように挨拶をする。

 そして、いつもと変わらない授業をして、帰りの挨拶をする。
それの繰り返し。

「これで、今日の補習は終わりです。質問がある生徒は今聞くか、ミステリー研究会の部室まで来て下さい」

 挙手がないのを確認し教室を出た。

 毎回の一連の動作だ。

 そして、誰からも質問がないことに、ため息をついて、1番端に追いやられているミステリー研究会の部室に向かった。






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