湿った夏の日の記憶~初体験の相手に再会した~

越智むう

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プロローグ

1.ある蒸し暑い日

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 7月に入ったのにまだ梅雨は明ける気配がない。灰色の空がどんよりと空を覆っていて、降水確率は40%だと朝の天気予報は言っていたけれど、いつ降り出してもおかしくない空模様だ。湿気を含んだ空気が、重く身体にのしかかってくる。

  高梨 剛たかなし ごうは、首に巻いたタオルで顔を拭った。

「暑いっすね」
 
 運転席に座る先輩社員にうんざりした顔で話しかける。

「クーラー強くしていいよ。悪いな。あいつ、急に休みとりやがって」

 彼らの乗った『引越センター』という熊のロゴが大きく書かれたトラックは、幹線道路を左折して住宅街へと入っていった。剛は大学を卒業してから、学生時代アルバイトをしていたこの引っ越し屋へそのまま就職して4年目になる。今日は本当は休みのはずだったのだが、アルバイトの大学生が急に休みをとったため、代理で出勤することになってしまったのだった。

「まあ、しょうがないすよ」

 自分の学生時代を思い出して、苦笑しながら言った。『体調不良だ』という電話の声はそんなに具合が悪そうではなかったが、テスト前だろうし、この気候でやる気を失ったのかもしれない。どうせ自分も、この前彼女と別れて、休日だといってもこれといった予定もなかったので、手当が出るならそれはそれで良かった。

「――でも、暑いな」

 もう一度呟いて、汗を拭うと車内のクーラーを強にした。顔に冷たい風が当たって心地良い。作業に入る前からこの汗だ。動いたらどうなることか。

「単身だから、すぐ終わるよ」

 先輩社員はそう言うと、小綺麗なマンションの前にトラックを停めた。エントランスに自動ドアのある、新しそうなマンションだ。良かった、と剛はため息をついた。和室の安アパートでなくて良かった、と思った。この気候はあの日を思い出させる。

 ――雨と汗で湿ったシャツに透ける、水色の下着。制汗剤の洗剤のような香りに混ざった、微かな体臭。黄色い日に焼けた畳にぽつんと広がる、小さな赤い染み。歪んだ彼女の表情。

 高校生だった頃の初体験の記憶が未だに脳裏に浮かぶ。

(10年、経つんだけどな)

 ため息をついてしまう。あれ以来、セックスの度に相手の反応を言葉で確認せずにはいられなくなってしまった。

 ――気持ち良い? イけそう?

 『いちいち聞かないでよ』

 元カノはうんざりした声でそう言った。

「――ここの5階だよ。エレベーターもあるし、楽だな」

 先輩社員がガチャリ、とトラックのドアを開けた音で現実に引き戻される。

「エレベータ、あるの有難いすね」

 慌てて車から降りる。先輩は先に、オートロックに「501」と入力して住人と話していた。
 
「田中さん、引っ越しセンターです」

(タナカ……)

 その苗字に、剛は思わずピクリと耳を動かした。

(いや、よくある苗字だよな)

 自動ドアが開いて、二人はエレベータに乗った。中は広々していて、荷物をたくさん積んでも大丈夫そうだった。

「まあ、そんなに大きいものもないみたいだけどな。これなら楽だな。ネット見積もりだけだと、実際行ってみたら、エレベータあるっちゃあるけど、狭くて全然使えないとかもあるもんな」

 先輩の話に「そうっすね」と相槌を打ちながら、剛は額の汗を拭った。また、記憶が蘇ってくる。それを思い出すたび、どこかに全力疾走で走って逃げたくなるような、情けない気持ちになる。

 エレベーターホールのすぐ前にある、『501』というプレートのついた扉が開いた。

「すいません、暑いのにありがとうございます」

 落ち着いた女の声が2人を迎える。お辞儀をしているのか、下げた頭が見えた。肩までの緩いパーマがかかった茶色い髪は、根本が黒くなっていて、どこかこの小綺麗なマンションの雰囲気とは違った、疲れた雰囲気を出していた。

「田中さん、とりあえず書類にサイン良いですか」

 先輩が鞄から書類を出す。そこには今日の客の氏名が記載されていた。

『田中 海』

 剛は「あ」と声をあげ、その名前を呟いた。

「たなか、まりん」

「え」

 女が顔を上げ、驚いたような表情で剛を見つめた。
 
 あの時と違って、化粧されたその顔は大人びていたが、それは間違いなく、記憶の中――蒸した安アパートの和室で顔を歪めていた『彼女』だった。

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