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3章 交錯

3-2.朝(2)

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 アメリアはソファに身をもたせながら、他の侍女に横で待機するよう指示を出して部屋を出て行くクロエを見送った。『奥様』の責任を放棄して逃げようとして、人に服を着せてもらいだらしなく手足を投げ出している自分との違いに苦笑する。
 
 初めてこの腹違いの妹を見た時に、とても綺麗な子だと思った。髪の色と瞳は、父親譲りの栗色と緑で同じなのに、だからこそ、違いがわかった。切れ長の瞳は大人びていて、長い手足と合わせて、いくつか上に見えた。

 彼女が自分の父親が使用人に産ませた子どもだということは、使用人の噂話から知った。黙々と仕事をこなすクロエの評判は屋敷の中で悪くないようだった。

 いつからだろう。父親と母親を前にすると、言葉がうまく出せなくなったのは。
 最初はそう、少し離れたところに住む、優しい叔父を、『叔父様がお父様だったら良かったのに』と言ったことを、どこからか父親が聞いたことだったと思う。

 別宅や、領地内の愛人のいる場所から帰ってこないイワンにヴィクトリアが詰め寄った時、「お前だって――この愚鈍な娘が私の子か怪しいな」と彼は言った。ヴィクトリアは血相を変えて、夫に詰め寄った。その頬を叩いて、「口やかましい女だ」と彼は言った。

 父親が手を上げるのを見たのはそれが初めてだった。アメリアは、それをただ見ているしかなかった。(私が失敗すると、またお母さまが叩かれる)と思うと、言葉がうまく出せなくなった。

 王宮に行くのは辛かった。チャールズの両親は仲が良く、羨ましくなってしまうから。チャールズは口籠る自分を「かわいい」と言ったが、それは全く嬉しくなく、むしろ、恥ずかしく思った。彼の姉たちが何をやってもたどたどしいアメリアのことを「かわいそう」と言っているのも聞いてしまった。それはきっと悪気があるわけではなかったのだろうが、アメリアは恥ずかしさで、彼女たちの前に顔を出したくないと思うようになった。

 アメリアの中で「かわいそうな母親」の印象が変わったのは、彼女が恐ろしい形相でクロエを折檻しているところを見たときだった。

 私もそうなってしまうのだろうか。
母親の姿を見た時に、不安になった。自分の中にも同じ部分が眠っている気がした。
 父親の前での弱弱しい母親の姿と、自分に優し気に話す姿と、鞭をふるう彼女の姿が重ならなかった。

***

 マクシムに腹を刺されたチャールズを発見したのはアメリアだった。チャールズは自分が傷ついたことは内密に、としたので、表向きは、執事が主人の貴金属を盗み、逃げたということになった。森で獣に食い荒らされて骨になった執事の死体と、盗まれた貴金属が領地の外れの森の中で見つかったのは2週間後だった。クロエの姿はそこにはなかった。

 食事が終わり、ワインを飲みながら、イアンは呟いた。

「確かに、クロエはエマに似て美しく育ったものな」

 イアンはちらりとアメリアを見る。

「――マクシムも、執事としての領分をわきまえるべきだったものを」

「チャールズ様は、貴方とは違います。誘ったとすれば、クロエからでしょう」

 ヴィクトリアの額に青筋が走っていた。ばしん、とイアンが妻の頬をはたく音が響いた。

「――それが、主人に対する口の利き方か」

 この二人は何を話しているのだろう、とアメリアは言葉を失った。クロエの安否はどうでも良いのだろうか。

「おおお父さま、おお母さま、そそんな、話を、今」

 アメリアは声を張り上げた。今はそんなことを話している時ではないと、そう言おうと思った。口に出した言葉はどもってしまった。この二人を前にすると、うまく言葉が出てこない。顔が赤くなる。

 イアンはそんな娘を呆れたように見た。

「相変わらず愚鈍な娘だ。お前がそんなだから、チャールズ様もクロエに目が移ったんだろう」

 父親の言葉にアメリアはさらに顔が赤くなるのを感じた。

「……女は使用人が一番だな。よく従い、よく働く。何だお前たちは、働きもせず、ドレスだ何だに金を使い、この家の主人に意見するとは良い身分だな」

「あなた!」

 叫んだヴィクトリアの頬を再度イアンがはたいた。彼女は勢いで吹き飛び、床に倒れた。アメリアは慌ててそこに駆け寄る。

「――お前と結婚などせねば良かった。嫉妬深く、口うるさく、やかましい。こんな女だとは思わなかったよ。産まれたのは愚鈍な娘がひとり」

 ちらりとアメリアを見る。

「お前は母親のようになるな、アメリア。慎ましく、夫に従え。チャールズ様がお前を気に入ってくれたことが奇跡なのだから」

 アメリアは顔が熱くなるのを感じた。イアンは、しばらくの沈黙の後、イライラした口調で言った。

「返事をしなさい、アメリア」

「――はい、お父さま」

 イアンはため息をつくと部屋を出て行った。アメリアは唇を噛んだ。
 
 チャールズとクロエの間に何かあるはずはない、と思った。
 しかし、もう一人の自分が囁く。

 本当に? じゃあ何故、マクシムはチャールズを刺して、クロエを連れて姿を消したの?チャーリーは、クロエのことを気にかけていたじゃない。クロエはあんなに綺麗なのに?
 
 父親の言葉が頭の中に響く。

『相変わらず愚鈍な娘だ。お前がそんなだから、チャールズ様もクロエに目が移ったんだろう』

 腕の中でヴィクトリアが呻いた。転んだ拍子に頭を打ったのか、顔を歪めている。

「お母さま!」

 アメリアは慌てて侍女を呼んだ。
 
 医者に見せると、ヴィクトリアは腕の骨を折っていた。

(お父さまがも、同じ思いをすればいいのよ)

 アメリアは馬宿に行くと、父の愛馬の蔵の螺子を1つ外した。気に入らない事があると父は裏の山へ狩りに行く。怪我でもすればいいと思った。

 翌日、狩りに出たイアンは、落馬し首の骨を折り、動けない状態で屋敷に戻ってきた。そして、3月後、息を引き取った。

 葬式で涙は出なかった。それよりも、何よりも、怯えていた。

(チャーリーが知ったら、どう思うかしら)

 彼は、自分のことを、馬鹿で間抜けな、庇護が必要な存在だと思っているだろう。そこに、心の醜さが加わったらどうなるだろうか。

(嫌、)

 彼には自分の心の醜さを見られたくなかった。

 クロエを『かわいそう』だと見下していた自分。
 父親の葬式で、その死を悲しむよりも、その原因を作ったことを知られたくない自分。

 目に涙が浮かんできた。
 横に立ったチャールズが、それに気づき、ハンカチを渡した。

「僕が傍にいるから」

 心臓がどくんと鳴る。ねえ、チャーリー、私が今何を考えているかわかる?
 わかったら、そんな言葉は言ってくれないでしょうね。

 彼とクロエの間に何かあったとは思えなかったが、何かあったと思いたい部分もあった。
 清廉潔白な彼に一途に思われるのが耐えられなかった。
 彼が父親の様な行動をとってくれればいいのにと思う自分に愕然とした。

 父親が死んで数か月後、クロエが屋敷に戻ってきた。

 半年以上ぶりに見る、腹違いの妹は日に焼けていたがそれでも前と同じに綺麗だった。

 領地の外れの村に急に姿を現し保護された彼女を確認しに、チャールズが現地へ向かった。それは確かにずっと行方不明だったクロエ本人で、マクシムと野党に襲われた後の記憶がないと言う。

「覚えていないって、そんなことがあるかしら」

「――森は不思議だから、そういうこともあるのかもしれない」

 チャールズはうつむいた。自分が余計なことをしたせいで、クロエを巻き込んでしまったと、自責の念が重かった。

「僕は、――彼女は、ここを離れて王宮に行ったらどうかと思うんだけれど、ここに――この屋敷にいたいって言うんだ。使用人たちは噂が好きだから――、お義母かあ様か君の侍女として、ついてもらう方が良いと思うんだけど、どうかな」

 元執事と一緒に姿を消したクロエは、他の使用人にとっては格好の噂の種だった。侍女は直接女主人の元につくため、他の使用人とは一線を画する。

「――私の侍女になってもらうわ」

 ヴィクトリアの元にクロエを戻すわけにはいかなかった。

「よろしくお願いいたします。お嬢様」

 クロエは何事もなかったかのように、てきぱきとアメリアの侍女としての仕事をこなした。

(クロエは、何も思わないのかしら。どうして私のためにそんなに働かなければいけないだとか)

 その様子を見る度に思った。彼女は何の邪念も持たずに、与えられた仕事を粛々と無駄なくこなしている。自分とは大違いだと思った。

(貴方が、『お嬢様』だったら良かったでしょうにね)

 チャールズと彼女の間に何かあったはずはないと思いながらも、結局どちらにもそのことは聞くことができなかった。
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