週末は迷宮探検

魔法組

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 目を開いた時。最初に視界に入ったのがいつもの自分の部屋の見慣れた天井でないことに気がついて、聖は少し戸惑いを覚えた。

(ああ、そうか。あたしいま、邪竜の地下迷宮に入ってるんだっけ)
 しかしすぐにそのことに気がついて。聖は首まで寝袋の中に潜りこんだミノムシ状態のまま、腹筋をするようにムックリと上半身だけを起こす。

 いまは何時頃なのだろうと聖は思った。
 迷宮の中は言うまでもなく地下である。当然地上の光は届かないから、周囲の明るさで現在の時間を推し量るのは不可能だ。

 そこで聖は首だけを少し回して、枕替わりにしているリュックサックの脇を覗きこんだ。そこにはこういう時すぐに時間が確認出来るようにと、蛍光デジタル表示の腕時計がぶら下げてあるのである。
 腕時計の表示は、三時四五分AM。起きるにはまだかなり早い。寝直そうと思って再び横になり、目をつむった聖だったが。底冷えのする地下迷宮で寝ていたためか、膀胱がパンパンに膨らみきって悲鳴をあげていることに気づいた。

 最初は、気がつかなかったことにしてなんとか寝直そうと思ったが。こういうことは一度意識すると、なかなか忘れられるものではない。
 それでも聖は未練がましく、何度か無駄な努力を続けていたが。やがてあきらめて重い吐息をこぼしながら、のろのろと寝袋から這い出た。

「ありゃ?」
 だがせっかく決心して起きたというのに。トイレ用のテントは使用中である印として、入り口が閉じられている。

 反射的にキャンプ結界の中を見渡してみると。熊さんと敦哉、愁貴が寝袋と毛布に包まれながら、安らかな寝息を立てて気持ち良さそうに眠っている様子を見てとることが出来た。

「……ということは、いま入ってるのは砂川くんか。よりによってまあ」
 聖は湿ったため息をついた。賢悟は男のくせにトイレが長く、一度中に入るとなかなか出てこないのである。よっぽどトイレが好きなのだろう。前世は妖怪ふんばり入道かなにかだったに違いない。

 しばらくの間、太ももをこすり合わせながら賢悟が出てくるのを待っていた聖だったが。さすがに五分も待たされると限界に近くなってくる。
 いっそのことここでしてしまおうか。どうせあとの三人は寝ているんだし……と思わないでもなかったけれど。万が一そのタイミングで誰かが起き出してきたらと思うと、やっぱりそれはためらわれる。
 しかしいつまでも我慢は出来ないし。賢悟はまだまだ出てきそうもない。

「……仕方ないなあ」
 聖はぽつりと呟くと、五感を集中させて周囲の様子を探ってみた。幸い、近くに魔物の気配は感じられない。短い時間なら、結界の外に出ても大丈夫だろう。

 そのように判断した聖はリュックサックから携帯用トイレパックを取り出し。さらには用心のため錫杖も持って。可能な限り足音や気配を立てないようにしながらキャンプ結界の外に出て、こそこそと一番近くの曲がり角まで足を進める。

(魔物さん……お願いだから、いまだけは出てこないでよね~)
 もしここで魔物が現れたら、抵抗する暇もなく殺されるのは確実だ。レベル四の僧侶が一人だけで対抗出来るほど、地下六階の魔物は甘くないのだから。

(豊穣の女神、ファイフラーさま。どうかあなたの忠実な下僕をお守り下さい)
 その場にしゃがみこみ。片手でホーリーシンボルの五つ葉のクローバーペンダントを握り締めながら。聖は僧侶らしく、信仰する神に祈りを捧げた。

 もっとも。実を言えば聖は僧侶のくせにかなり不信心であり、神に祈ることなど滅多にないのだ。なのにこんな時だけこんな状況で真剣に祈られても、神さまもちょっと困ってしまうだろう。

 もしもいま魔物がやって来て殺されちゃったら、末代まで残る大恥だろうな。もっともいま死んじゃったら、末代もへったくれもないけれど……などといったことを考えながら、聖はビクビクと用をたした。

(こういう時に、紅一点パーティーっていうのは辛いわよね。あと一人でも女の子がいれば、頼んで一緒に来てもらえるんだけど)
 幸い、何事も起こらないうちに用は済んだ。神のご加護があったのだろう。聖はトイレパックを片づけ、濡れティッシュで手を拭いてからホッと一息ついた。
 いや。本格的に安心するのはキャンプに戻ってからだ。聖は来た時と同じく注意深く辺りの気配を探って、魔物がいないかどうかを確かめた。

(……大丈夫だわ)
 と、確信して聖は足を一歩前に踏み出した。だがその瞬間。黒い影のようなものが聖の前方に立ちふさがるように現れる。

 魔物だろうか!? あまりの恐怖に、聖は悲鳴をあげることすら出来ず。腰を抜かしてその場に尻餅をついた。

「神代! なにやってんだよこんな所で!?」
 だがそこにいたのは魔物ではなく。聖がよく見慣れた顔を持つ人間だった。

「な……なんだ、砂川くんか。お、驚かさないでよ。魔物かと思ったじゃない」
 長い安堵の息を漏らしてから、聖は左胸を押さえながら抗議するように呟く。そんな聖を、賢悟は呆れたように見つめている。

「なんだよその言い種は? 便所から出たらお前の姿が見えないから、なにかあったんじゃないかと心配して。わざわざこうして探しに来てやったのに」
 賢悟は頬を膨らませながら、憤慨するように声を荒らげた。

 なるほど。それで賢悟はこんな所にいたのかと、聖はようやく納得する。

 しかし。心配してくれたのは嬉しいが、はっきり言ってありがた迷惑もいいところだ。大体、男だらけのパーティーの中に一人だけいる女の子が一時的に黙って姿を消したら、なにをしようとしているのかくらい察してほしいものである。

 わざわざ探しに来るなんて、言語道断も甚だしい。もしも用たしの真っ最中に出くわしていたらどうするつもりだったのだろうか。その辺の機微というものをまるで分かっていないから、こいつは朴念仁だと言うのだ。

「さ。早くキャンプに戻ろうぜ。本当に魔物が出てきたら厄介だし」
「……うん」
 内心不満たらたらだったが。さすがにこんな危険地帯で口ゲンカを仕掛けるほどには、聖は我を失っていない。

 賢悟の言葉に従って、聖は急いでキャンプに戻ろうとしたが。その賢悟がなにやら緊張したような面持ちを浮かべ出したので、聖は軽く首をかしげる。

「……? どうしたの、砂川くん」
「誰か来る……」
「えっ!?」
 賢悟の言葉に聖は慌てて耳をすまし、辺りの気配を探った。しかしどんなに五感を研ぎ澄まし、集中させても、周囲に何者かがいるような様子は全く窺えない。

(気のせいじゃないの?)
 聖はそのように口を開きかけたが、すんでのところで思いとどまり。代わりに錫杖を構えながら賢悟と互いにかばいあうように、背中合わせに立った。

 レベル一とは言え、侍の気配探知能力は僧侶のそれをはるかに上回る。

 と、言うか。聖は何者かの気配を察知出来るような器用な能力など、そもそも持ち合わせていなかったらしい。それはつい先程、賢悟がすぐ側まで近づいて来ていてさえ、寸前までそのことに気づけなかったことではっきり思い知らされた。

 一方。賢悟が鋭敏な神経の持ち主であることは、この半年間の冒険で何度も実感させられている。どう考えても、ここは自分の勘より賢悟の感覚のほうを信頼する場面だろうと判断したのだ。

「誰か来るって……それは人間? それとも、魔物?」
「分からない。ただ気配は一つだけだ。キャンプのある場所と反対側のほうからこっちに向かって、ゆっくり近づいてきている」
 聖の問いに、賢悟はそちらの方向への警戒を緩めずに応えた。

 キャンプの反対側から……ということは。聖たちがいないことに気がついた熊さんらが捜しに来た、という可能性はない。他の冒険者か、魔物かのどちらかだ。
 だけどこんな時間に冒険者が独りきりで、地下六階をうろついているとは考えにくいわねと。つい先程まで、独りきりで地下六階をうろついていた聖は思った。ということは九分一分くらいで、魔物である可能性が高そうだが。

「そうとも限らないぞ」
 聖がそのように意見を述べると、賢悟は細かく首を横に振って見せた。

「確かに、好んで地下六階を一人で歩き回るような馬鹿がいるとは思えない。だが冒険中にパーティー仲間からはぐれたとか、あるいは他のメンバーが全滅して一人だけ生き残った遭難者という可能性もあるからな」
 遭難者……。賢悟のその言葉に聖は昨日、熊さんから聞いた話を思い出した。

 最近どういうわけか、この迷宮に挑む冒険者たちの未帰還率が極端に増大しているという話だ。つまり遭難者が増えているわけである。
 いま聖たちに近づいてきているのも、そんな遭難者の一人だという可能性は確かに小さくはない。だとしたらもちろん、救出するのにやぶさかではないが……。

「魔物の可能性だって否定しきれないわけでしょう? だったらとりあえずキャンプに戻って、熊さんたちと合流してさ。それから全員で確認したほうがよくない?」
「……そうだなあ。でもまだ朝が早いわけだし。わざわざ熊さんたちを起こして迷惑をかけたくないな。もし魔物だったら、キャンプの中に逃げ帰ればそれで済むだけの話なわけだし」
 どこか煮えきらない口調で、賢悟は言葉を紡いだ。

「でも逆に遭難者だった場合は、助けるために熊さんたちを起こさないわけにはいかないんじゃない?」
「そこが問題なんだよ。魔物なのか、それとも人間の遭難者なのか。それをここで見極めることが出来ればいいんだけど。……そうだ、神代。お前は僧侶なんだから聖眼セント・アイが使えるんじゃないか?」
 ふと思いついたと言うように、賢悟が尋ねてきた。

 聖眼というのは、僧侶の持つ二つの特殊能力のうちの一つで。生き物の魂や魔力によって発せられるオーラと呼ばれる光を見ることの出来る能力のことだ。

 人間と魔物とではそのオーラの色が異なるから、その光を見られさえすれば遠くからでも、相手が人間か魔物かをすぐに判別することが可能なのだけれど……。

「ごめん。あたしはまだ聖眼が使えるほどのレベルには達してないみたい」
 聖は気まずい思いで、小さく肩をすくめた。

 実際には聖眼はレベルに関係なく、僧侶ならば誰にでも使える能力のはずなのだけれど、何故だかまれに使えない者もいるのである。
 聖も相性が悪いのか、それとも単に未熟なせいなのか。まだこの能力を使うことが出来なかった。そのうちレベルが上がるなり、なにかきっかけをつかむなりすることが出来れば、使えるようになれるかもしれないのだけど。

「ならしょうがないな」
 聖の言葉に、賢悟はあっさりうなずいた。一応確認してはみたけれど、最初からそれほど期待していなかったというふうである。

「仕方ない。おれはちょっとこの気配の主がどちらなのか確かめてくる。神代。お前は先にキャンプに戻ってていいぞ。確かめるのは、おれ一人でも出来るし」
「そんなこと出来るわけないでしょう。地下六階を一人でうろつく奴は馬鹿だって、いまさっき自分で言ったばかりじゃない」
 聖は呆れ果てて口を開いた。

 賢悟はそうだなと呟く。二人はお互いの顔を見合わせると苦笑いを浮かべ、こちらからもゆっくりとその気配の主の元へ歩み寄っていった。もし気配の主が魔物であった場合は、すぐキャンプに逃げ戻れるよう細心の注意を払いながら。

「……人間だ」
 ある程度近づいてから、賢悟がゴクリと息を飲みこみながら口を開いた。

 確かにその通りのようだと、聖も思う。その人物は中肉中背の男性で、年齢は三〇歳くらい。魔法使い用のローブを羽織るようにまとっているが、そのあちこちは血や泥で汚れており。顔の右半分などはケロイド状の大火傷を負っている。

 おそらく右目はもう見えていないだろう。魔法使いの杖に身を任せながらふらふらと頼りなく歩いているその足取りからしても、相当重傷なのは明らかだ。

 早く助けなくては! と、思いながらも。何故か聖の身体は動かなかった。

 恐怖のためではない。仮にも冒険者をやっていれば見るも無残な重傷人の姿を目にすることなど何度もあるし、もっとひどい姿の死体を見たことだってある。
 ましてや聖は僧侶だ。呪文を唱えて、怪我人を治すのが役割なのだから。怪我がひどいからと言って、いちいち怖じ気づいてなどいられない。

 ではどうして身体が動かないのか? それはどこかに違和感があるからだ。
 なにがどういうふうにおかしいのかは分からないが、なにかがなんとなく変だと。本能がしきりに警鐘を鳴らしているのである。

 その警告を気のせいだと切り捨てるのは簡単だ。
 そもそも聖の感覚など、これまで当てになったためしがない。今回も、本当は重傷者を目の前にして怖じ気づいているだけなのに。それを脳が『嫌な予感がするため動けないのだ』とごまかしているのかもしれないのだし。

 それに、聖よりもよほど鋭敏な感覚の持ち主である賢悟は全く疑っている様子はない。となれば先程と同じように、今回も自分の直感や本能よりも賢悟のほうを信じるべきなのかもしれない。

 だが。今回に限っては、聖は結局自分の本能のほうを信じることにした。
 訓練所時代に教官から言われた『冒険者は勇敢な者から順番に死んでいく。生きていたければ常に臆病であれ』という言葉を思い出したからだ。そして聖は、自分の臆病さには並ならぬ自信を持っている。

 なので、聖は口の中で急いで呪文の詠唱を始めた。目の前の重傷人を癒すための回復呪文ではなく、別の呪文を。
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