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4 高句麗王国
しおりを挟む隋国から見れば、やや北東方面。天頂から俯瞰すれば中国大陸の北東部に直立したウサギがぶら下がっているような形に見えなくもない、南北に細長い半島がある。
時は隋国暦、大業八(西暦六一二)年。朝鮮と呼ばれるこの半島には三つの国が台頭していた。半島南西部を支配する百済、東部を治める新羅。半島北部から中国大陸の北東部にかけての広い地域を統括する高句麗である。これらの国々は半島の支配権を巡って、数百年の長きに亘り血生臭い戦いを続けているのだ。
現在ある三国のうち最も力と勢いがあるのはなんと言っても新羅で、隣国であった伽羅を併合した後は百済、高句麗にも侵攻を続け、着々とその領土を広げていた。
次が高句麗だ。いまは少し力が衰えて新羅に押され気味ではあるがかつては朝鮮半島の八割と中国大陸北東部をも支配していた大国であり、現在も依然として三国一の広さの領土を誇っている。
これら二国に比べると、百済はいささか旗色が悪い。力をつけてきた新羅に攻められても持ちこたえるだけで精一杯といった感がある。それでもなんとか劣勢を覆そうとして、西の大国隋や東の島国である倭と手を組むなど、色々考えてはいるようである。
乙支文徳と高建武が向かっているのはそんな三国のうちの一つ、高句麗の首都である平壌城の街だ。北から大同川に流れ込む二つの河川、東の長寿川と西の泗水に挟まれた大城山の南の麓には王城である安鶴宮が建てられていて、それを西南東の三方から囲むように町や村が整然と広がっている。朝鮮半島随一の賑わいと堅牢な街壁を有する大都市である。
この時点から二〇〇年近く前の西暦四二七年、第二〇代の国王である長寿王が北の山間にあった国内城(中国の吉林省集安市辺り)から平野であるこの地に都を移して以来現在に至るまで、高句麗はこの地を中心として発展し、栄えてきたのだ。
もうそろそろ太陽が西の海の水面に沈もうかという頃。街門が閉められる直前の時刻になって、乙支文徳と高建武を乗せた松風はなんとか街にたどり着くことが出来た。
二人は松風から降りると門を守る兵士に身分と名前を告げて、街に入るための許可を求める。乙支文徳は荷物と一緒に、身分証明書も街に入るための通行手形もなくしてしまっていたのだが、高建武がいてくれたお陰でそれらの手続きはスムーズに終わった。
街の中では馬に乗って走ることは禁止されているので、二人は松風を引っ張ってゆっくりと歩いている。
本当なら乙支文徳は旅から帰ってきたことを国王に報告するため、一刻も早く安鶴宮に向かわねばならない。だが三年ぶりに帰ってきたのだし、どうせならちょっとくらい街の様子を見物しておきたいところである。
高建武としては早く王城に向かいたかったようだけれども。一応は上司である乙支文徳に頼まれると嫌とは言いにくいらしく、少しだけですよと言いながら寄り道を認めてくれた。
二人はあまり目立たないように民衆に紛れ、お忍びのごとく街を見物しながら安鶴宮へと向かうつもりだった。
だが一見可愛らしい少女でありながら鎧兜を身に着けて腰に剣まで差している高建武と、威風堂々とした青毛の軍馬である松風が道を歩いていれば、注目されないほうがおかしい。そんな彼女たちと一緒にいるせいで本来ならそれほど人目を引く容貌ではないはずの乙支文徳も自動的に目立ってしまっているようだ。
「おい、あそこを歩いている御仁は乙支文徳さんじゃないか?」
「ああ、おれもそう思っていたところだ」
「乙支文徳だって!? 三年ほど前、突然行方不明になったあの人が帰ってきたのか?」
街の人々は当初、こちらを指さしながらひそひそと声をあげていただけだったが、やがてあからさまになにかを問いたげな目つきを浮かべながら、二人のほうに目をやってくる。高建武は相手にするなとばかりに目配せをしてきたけれど、乙支文徳は気がつかないふりをして、自分のほうを見ている市民たちに笑顔で手を振って見せた。
「やあ、三年ぶりだね。みんな、元気にしてたかい?」
乙支文徳が声をあげたので、高建武は『あ~あ』と言いたげに手を顔面に当てて眉をしかめた。周囲に集まっていた市民たちはそれを聞き、わっと大きな歓声をあげる。
「なんだ、やっぱり乙支文徳だったのか」
「久しぶりだな。一体いままで、どこをうろついていたんだ!?」
「よく帰ってきたね、乙支文徳!」
「もっとよく顔を見せておくれ!」
肉屋のおやじに魚屋のおばちゃん、金物屋の兄ちゃんも籠屋の姐ちゃんも、犬の散歩をしていた翁ちゃんも猫を抱いて歩いていた婆ちゃんも。エサに群がる鯉のごとくわらわらと集まってきては、先を争うように乙支文徳を歓迎する言葉を述べてくれる。
「相変わらず閣下は、民にだけは人気がありますねえ」
高建武が呆れたような感心したような吐息をこぼすと、乙支文徳は『人徳だよ』と言うように軽く片目をつむって見せる。
声をかけてくる市民一人一人に対して丁寧に応対しているので、当然ながらその歩みは遅々として進まない。そうしているうちに噂を聞きつけた他の市民たちも寄ってきたため、通りは時ならぬ大渋滞。乙支文徳は売り出し中の人気アイドルよろしく、もみくちゃにされてしまった。
「あの、みなさん。乙支文徳閣下は安鶴宮まで赴いて国王陛下に旅の報告をしなければなりませんので。申し訳ありませんが、そろそろ通していただけないでしょうか?」
いい加減しびれを切らしたらしく、高建武がたまりかねたように口を開く。だがいかにも女の子女の子した感じの声の高建武では、いささか迫力不足は否めないようで、人気アイドルの追っかけおばちゃんと化した民衆に打ち勝つのはそう簡単なことではない。
「うるさいわねえ! マネージャーさんは、ちょっとあっちに行ってなさいよ!」
「誰がマネージャーですか!? 閣下ー! 閣下もなんとかおっしゃってくださいよー」
あたかも津波のごとく次から次へと乙支文徳に向かって押し寄せてくる人の波に流されないよう、高建武は必死に松風の足につかまりながら、半分べそをかいている。乙支文徳もなんとかおっしゃってやりたいのはやまやまなのだが、ひっきりなしに話しかけてくる街の人たちへの応対に忙しく、それどころではない。
「ねえねえ、乙支のお兄ちゃん。いままでどこに行ってたの?」
そうこうしているうちに、乙支文徳の足下にまとわりついていた八歳くらいの女の子が顔を上げて、無邪気な口ぶりでそのように尋ねてきた。
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