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29 遼河の戦い・その5
しおりを挟むそうしている間にも高句麗軍は矢を射る手を休めず、隋軍兵士の死体を大量に生産しつつある。橋が壊れ、多くの兵士が河川に落ちているため、遼河の人口密度は極めて高いものになっていた。そのため高句麗軍は狙いを定める必要もない。ただ射てば当たるという最悪の状況だ。
おまけに高句麗軍は横に長く背の高い、巨大なやぐらのようなものを建てていた。やぐらは三段構造になっていて、そのそれぞれに二〇〇〇人ほどの弓兵が並んで、矢を射っている。当然、高い場所から射るほうが射程距離は伸びるから、一番上の段にいる兵士は長距離射撃、真ん中の段の兵士は中距離射撃、そして一番下の段や川岸に並んでいる兵士たちは近距離射撃の担当なのだろう。
高句麗の指揮官は恐ろしく頭の切れる奴だと、辛世雄は戦慄せずにはいられなかった。彼は現在隋軍がどのような状況にあり、どのように考えて、どのように行動するのかということを頭の中だけでほぼ正確にシュミレーションしているとしか考えられない。その上で、あたかも詰め将棋の問題を解くかのごとく先の先を読み、一手一手ゆっくりと、しかし確実にこちらを追いつめていく。
なんと見事な……と言うより、冗談みたいな知謀である。この状況を逆転させる手段などは最早存在しない。ただ相手に操られるように駒を動かし、詰みになるのを待つだけだ。辛世雄は為す術もなく肩を落とし、高句麗軍兵士が無数に矢を放ってくる中、無防備に身をさらしているしかなかった。
その刹那。辛世雄は趙孝才と崔弘昇のことを思い出した。あの二人の少女将軍はどうしているだろうか。まさか武麗邏から間断なく放たれ続けている矢に射貫かれ、戦死してしまったのではなかろうな……。
そう不安に思い、辛世雄は目だけを動かして彼女らの居場所を探してみる。見つけたのは、意外な場所だった。二人は辛世雄よりもさらに武麗邏に近い危険な場所に小舟を寄せ、部下たちをかばいながら、飛んでくる矢を必死に刀で振り落としていたのである。
どうせあんなコスプレ娘どもなど、ちょっとピンチになったらすぐに尻尾をまくって逃げ出すに違いないと思っていたので、辛世雄は意外な思いを抱き、次いで自らの偏見と思いこみを恥じた。二人は部下たちを生還させるため敢えて最前線にとどまって、混乱している兵を叱咤激励することでなんとか全軍崩壊を食い止めようと必死に努力しているのに。彼女らより年長で、しかも男である自分は作戦の失敗に動揺しておろおろしているだけとは。
そうだ。いまは後悔したり落ちこんだりしている場合ではない。辛世雄はそう考え直して気を引き締めると、自らに向けて放たれた矢を気合いと共に斬り落とした。将軍である自分があきらめたら、そこで戦争終了である。部下たちの命運もそこで尽きてしまう。もはや作戦の失敗は明らかだが、こうなった以上、一人でも多くの味方を生きて西岸に帰すことに集中しなくては……。
この危機を逃れるためにも大至急、趙孝才や崔弘昇と合流しなければならない。そう思い、辛世雄は小舟の漕ぎ手に向かって、出来るだけ二将軍の近くに行くよう命じた。
「やあ、辛将軍っ。君も無事だったようでなによりだっ!」
辛世雄が近づいてくることに気がつくと、趙孝才は果敢に敵の放つ矢を迎撃しながらも、いささか弱気な口ぶりでそう言ってきた。
「……まったく敵ながら見事な陣としか言いようがないなっ。もしもこれが横一列に弓兵を配置しただけの二次元的な防御陣だったならば、こちら側にいくらか犠牲が出たとしても、最終的には残りの大半が岸に上陸することが出来たはずなんだけど」
「……ですが高句麗軍は三次元にまで広げて兵を配置することでぇ、二次元の時とは比べものにならないほどに強固で頑健な防御陣を敷いていますぅ。これは並大抵のことでは突破出来ませぇん。不意討ちを受けて混乱しまくっているいまの我が軍では不可能としか言いようがないですぅ」
崔弘昇も顔面を蒼白にしながら呟く。放たれる矢の数はいっかな減る気配も見えず、それを受ける彼女たちの体力は明らかに限界に近づいてきている。
「……駄目だっ! これ以上はこらえきれないっ。撤退するしかないっ!」
「ですが趙将軍! 近くにはまだ味方の兵士さんたちが大勢残って戦ってるんですよぅ!? 彼らを残して、将軍たるあたくしたちだけが先に逃げるなんて出来ませんわぁ」
「気持ちは分かるけどっ、だからといってボクたちがここに残っても犬死にするだけだっ」
「でもぉ……」
「お二方は、どうかお逃げくだされ」
そんな二人を背中にかばって戦いながら、辛世雄は不敵な笑みを浮かべつつ、そう呟いた。
「なに。拙者の体力はまだもう少しは保ち申す。お二方は生き残った兵士たちを連れて、逃げるでござるよ。そして司令官どのには敗戦の責は全て辛世雄にある故、生き残った者たちにはどうか寛大な処分をお願いするとお伝えくだされ」
「そんなっ! 辛将軍一人に責任を負わせてボクらだけのうのうと生きてなんか帰れないよっ!!」
「趙将軍の言う通りですぅ。辛将軍お一人にいい格好はさせませんですわぁ。絶体絶命の状況の中ぁ、最後まで部下たちを守り抜いて死んでいった勇敢な将軍として後世に名前を残すぅ、絶好のチャンスですからねぇ」
二人はそう言ってニッコリ微笑むと、逃げ惑う部下たちをかばうように、辛世雄の左右に立った。最初は渋い表情を浮かべた辛世雄も、すぐに苦笑いと共に小さく息を吐く。どんなに口を酸っぱくして説得しようが怒ろうが、二人は自分を置いて逃げることを決して承知しないだろうということを、辛世雄は理屈以外のなにかによって察したのだ。
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