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31 遼河の戦い・その7
しおりを挟む液体窒素よりも冷たい視線と共に放たれた趙孝才のツッコミに、ストッキング仮面は驚いたような表情を浮かべて思わずと言うように二、三歩後ずさる。もっとも小舟の上なのでそれほど下がることは出来ず、すぐに元の場所に戻ってきたが。
「はーっはっはっは。なんのことであろうか趙将軍。わしの名は隋軍謎の助っ人、ストッキング仮面である。隋軍十二将軍の一人で、ちょっと小粋なイノセンスボーイの屈突通などという名前の者などは全く知らない。人違いではないのかな?」
「とぼけても無駄ですよぅ。と言うかぁ、そんな全身ぶよぶよのぜい肉ダルマみたいな身体をしておいてぇ、顔の半分を覆っただけで正体を隠せると思っているところが図々しいですわぁ」
崔弘昇も頭痛をこらえるように、こめかみに指を当てながら呟くように言った。可愛い顔をして、結構平然とキツいことを言う少女である。
そう言われて、ストッキング仮面はようやく癇にさわる笑い声を収めて、それからなにかに気づいたように大きく頷くと、ポンと両手を叩いた。
「……なるほど。盲点だったわい。しかしそこに気がついて即座にわしの正体を見抜くとは、さすがは趙将軍に崔将軍じゃ」
「随分でっかい盲点でござるが。それはともかく、一体なにしに来たのでござる?」
「なにしに来たとはご挨拶よな。嫌な予感がするから、出来れば貴公たちの救援に行ってきてくれないかと衛将軍から頼まれたので、こうしてわざわざやって来たというのに!」
ストッキング仮面はただでさえ膨らんでいるほっぺたをさらに膨らませながら、不満そうに応えた。その意外な応えに、辛世雄はえっと声を詰まらせる。
「衛将軍が?」
「ああ。自分は司令官に周辺住民の慰撫という仕事を任せられていて手が離せないから是非とも頼むとのことだった。正直、そんな面倒くさい仕事はごめんだと思ったが、ご老人に頭を下げて頼まれては嫌とも言えんからな」
「……そうか。衛将軍が。友達というのはありがたいものでござるな」
辛世雄は感動してしみじみと呟いたが、ストッキング仮面は鼻息をふんと荒くし、いかにも感謝しろと言わんばかりの口調で言葉を続ける。
「そういう訳だから三人とも、部下どもを連れてさっさと逃げるがよい。後はわしが引き受けた!」
そう言うとストッキング仮面(まだかぶったまま)は服のたもとから炸薬を仕込んだバラを取り出した。いや、取り出そうとした。だが彼は『あれ?』と言うように首をかしげると今度は反対側のたもとを探り、再び『あれ?』と困ったような表情を浮かべる。
「……まさか。もうバラがなくなったと言うのではないでござろうな?」
さらに懐やズボンのポケット、果てはパンツの中にまで手をつっこんでいるストッキング仮面の様子を見て、辛世雄は冷たくツッこんだ。
バラがなくなってしまえば、彼は頭の半分にストッキングをかぶっただけの、ただの肥えた変なおっさんである。とてもではないが高句麗軍の猛攻をしのぎきり、辛世雄たちを西岸まで逃がすことなど出来る訳がない。
「……はーっはっはっはっは!」
ストッキング仮面はごまかすように再び笑い声をあげた。もっとも頬や首筋などに何粒もの脂汗が浮かび上がっては流れ落ちていくのを見れば、たとえ黙っていたとしてもなにをか言わんや、というやつである。
辛世雄たち三人の放つ白い視線に耐えかねたようにストッキング仮面はもう一度大きく高笑いをし。それから意味もなくマントを『ばさっ』とひるがえしたかと思うと、
「……さらば!」
とだけ呟き、そのまま船頭に命じて自分たちだけでさっさと西岸に逃げ帰って行ってしまった。傍で見ていた辛世雄が思わず感嘆の声をあげるほど、見事な逃げっぷりだ。
「なにしに来たんだよっ、あいつはっ!」
その後ろ姿に向かって、趙孝才がそう罵りの声をあげる。
しかし、彼のお陰で高句麗軍は調子を狂わせ、指揮系統も混乱している様子なのは間違いない。いまならば逃げるのもそう難しいことではないと判断した辛世雄は生き残った兵士たちに素早く撤退命令を出すと、自らも二人の少女将軍と共に一目散に逃げ出した。
その途中で高句麗軍も我に返ったらしく、慌てて大量の矢を射ち放ってきたが、時すでに遅し。辛世雄たちは悠々……とは言わないまでも、なんとか高句麗軍の矢の射程距離範囲外に逃れることに成功する。
なんとか九死に一生を得ることが出来て、ほっと安堵の息をつく辛世雄。だがこの戦いで隋軍は六万の兵のうち実に四万以上を失うこととなった。対して高句麗軍の死者は数名か、十数名といったところだ。もちろん武麗邏への上陸作戦は失敗。初日の大敗すらかすんでしまうほどの大大敗北を喫することとなったのである。
☆ ☆
その後も数日間。宇文述はさらに何度か武麗邏に向けて兵を送ったが、そのことごとくが乙支文徳の知略によって阻止されて、隋軍の一方的な敗北に終わることとなる。
しかし兵力の差は依然として大きいままであり、隋軍は全面撤退に追いこまれるまでには至らなかった。その上、寡兵の高句麗軍は一度でも負けたらそのまま全軍崩壊につながりかねないという危機を孕んでいるため、乙支文徳は常に勝ち続けなければいけないという重圧を背負いながら戦い続けることを強いられている。
どうしても勝利をつかむことの出来ない隋軍と、連戦連勝であるにも関わらず未だ決定的な勝利にはほど遠い高句麗軍。両軍共に消化不良で煮え切らない思いを抱きながらも半ば惰性的に戦闘を続けるしかなく、戦況は緩やかな膠着状態に陥りつつあった。
両陣営共に『なんとかしたいがなんともならない』というその状況は戦いが始まってから一週間後。皮肉にも高句麗軍征虜大将軍乙支文徳と隋軍司令官宇文述の両名が、別々の意味でながら、それぞれ共に恐れていた事態が起きたことから一変する。
隋軍副司令官の于仲文が、隋軍第二陣四〇万の兵を率いて遼河西岸に到着したのだ。
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