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番外編
クレマティス×ディルクの後日談
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※TS・BL要素を含みます
この日、ディルクは難しい顔をして、楕円の姿見鏡をじっと見つめていた。
先日、彼は元公国軍の将軍クレマティスと結婚した。
グレンダン公国は同性婚が認められている国で、男同士の結婚は数こそ少ないものの、普通に行われている。
退役したクレマティスは新たな大公となったが、大公は世襲ではなく、世継ぎは必要ない。男と結婚しても何ら問題はないのだが、クレマティスの妻となったディルクの心境は複雑であった。
(クレマティスは、童貞のまま俺と結婚した……)
性的なことも愛を交わすことも経験せず、クレマティスは男である自分と結婚した。その事実がディルクの上にずんと重く伸し掛かる。
クレマティスは自分と結婚したことで、何か大切なものを得損なってしまったのではないか。
そう考えると、ディルクの気分は沈んだ。
(まぁ、俺だって……愛とか恋とか、そういうものを知らずに結婚したけどよ……)
ディルクは帝国の第八王子だが、母親の身分が低く、生まれ育った後宮での待遇は良いものとは言えなかった。
彼はその身一つで生き抜いてきた。今まで多くの人間達と交わりを持ってきたが、誰かと真剣に恋をしたことはただの一度もなかった。
今では、自分が女を好むのか、男を好むのか、性嗜好さえ曖昧だ。
だが、クレマティスは違うだろう。
(たぶん、クレマティスは普通に女が好きな男だろうな……)
ディルクから見たクレマティスは至極真っ当な人間で、同性を好むような、そんなニッチな性癖は待ち合わせていないように思えた。
うむむと唸る。
クレマティスは性愛を生涯経験しないままで、本当にいいのだろうか。
(……クレマティスの筆下ろしをしてやりたい)
クレマティスは絶対に浮気はしないだろう。伴侶が男でも、裏切ったりはしない。それは断言できる。
だから、ディルクは考えた。自分が彼の夜の相手をしようと。自分は彼の妻なのだから。
「よしっ……! そうと決まれば!」
ディルクは頭の中に術式を浮かべる。
彼の特殊能力は、変化。
人の姿形を別人に変えることができる。
ある程度の制約はあるものの、自分の姿も変えることができた。
(あいつが気に入るような、絶世の美女に変身してやる!)
美女と言っても、ディルクの面影がまったくないようでは、クレマティスは手出ししようとはしないだろう。
なるべく顔や髪型などの印象は変えず、自分の体型を作り変える。
(クレマティスはどんな女が好みなんだ……?)
クレマティスはアザレアを娶ろうと考えていた時期もあったようだが、それは彼女のことが好きというよりも、同情心の方が強かったようだ。
アザレアはおそらく、クレマティスの好みではない。もちろん、嫌いではないだろうが。
ディルクはしばらく考えたが、答えは出なかった。
クレマティスと俗っぽい会話をしたことがなく、判断材料がなかったのである。
(まあ、とりあえず、乳と尻をデカくしておけば間違いないだろう……)
分かりやすくエロい女に変身して迫れば、クレマティスも悪い気はしないはず。
そう思い、軽い気持ちでディルクは自身の身体を特殊能力で作り変えていった。
──小一時間後。
「う~~ん……。もっと吸い付くような乳にしたいな……」
ディルクは姿見鏡の前で、メロンのような乳房を両手で掬いあげる。彼の手の上でたわわがぷるるんと揺れた。
彼はクレマティスが気に入る最高の女になるべく、試行錯誤をしていた。
こだわったのは乳房だけではない、腰のくびれ具合や太ももの柔らかさにも細心の注意をはらった。
どことは具合的には言えないが、あそこも名器だ。
声も女性らしいものに変えた。
「おっと、クレマティスが帰ってくる時間だ」
壁掛け時計がボーンと鳴った。
今夜のところはこの姿で挑もう。
ディルクは自身の肢体を満足げに見下ろす。我ながらなかなかの出来だと思う。
「クレマティス、喜んでくれるかな……」
金の鎖を細い首や腕に巻きつけながら、ふんふんと鼻歌を口ずさみ、にやにやと笑う。
男に触られるなど、昔はおぞましいと思っていたが、クレマティスは別である。彼は自分のことをすごく大事にしてくれている。何か恩返しができればとずっと考えていた。この身を捧げられるのならば、本望だ。
砂漠の国の側女をイメージした扇情的な衣装に身を包んだディルクは、夫婦の寝室へ向かった。
◆
寝室の扉を叩くと、すぐにクレマティスの声が聞こえた。嬉しくなったディルクは、勢いよくその扉を開ける。
そして。
「クレマティス、初夜をしようぜ‼︎」
開口一番、そう宣言した。
寝室で、ポットから薬湯を淹れていたクレマティスの手がぴたりと止まる。瞬きを何度もしながらこちらを見つめる彼に、ディルクはハッとした。
(しまった……!)
つい、チェスに誘うようなノリで声を掛けてしまった。これではいくら魅惑的な美女に扮しようとも、クレマティスのすけべ心が萎えてしまうだろう。
もっといやらしい雰囲気を作るべきだったと後悔するも、もう遅い。
「ディルク様……⁉︎ なんですか、その格好は……‼︎」
「へへっ、いいだろ?」
「それにその身体……変化の術で女性になったのですか? 一体、なんのために……?」
クレマティスはおろおろしながらも、自分の上着を急いで脱ぐと、ディルクの上半身をすっぽり包みこんだ。
「聞いてなかったのか? あんたと初夜をするためだ」
「初夜?」
クレマティスは眉間に皺を寄せると、眉尻を下げる。
「そんなことをしなくても、私はあなたを大切に思っている」
「大切にしてもらえるのはありがたいけど、俺はあんたともっと深い仲になりたいんだ」
「なぜですか? 我々はもう充分深い仲だと思いますが……」
「それは精神的な話だろ? 俺はもっとこう、物理的に深い仲になりたいんだよ」
さすがにどストレートに、筆下ろしがしたいなどとは言えない。夫婦として深い仲になりたいと、ディルクは訴える。
だが、クレマティスは首を縦に振らなかった。
「申し訳ありません、ディルク様……。私は、性的な欲が持てないのです」
心底申し訳なさそうにそう呟くと、クレマティスは夜着のシャツを捲り上げ、ゆったりとしたズボンに手を掛けた。
そして、六つに割れた腹筋が露わになる。
「なん、なんだよ……これ……」
クレマティスの腹部を目にしたディルクは、片手で口元を覆った。
なぜなら彼の下腹部には、緻密な文字が入った黒い円形の紋様がくっきりと浮かびあがっていたからだ。
「……性欲を封じるための逆淫紋です」
「ぎゃく、いんもん?」
「私は子どもの頃から、公国軍の将軍となるよう期待されていました。そして、ゆくゆくは国を率いる立場にと……。そういう人間は誘惑が多い。私は性愛で道を踏み外すわけにはいかなかった。だから、逆淫紋で性欲を封じたのです」
ディルクは言葉を失う。
クレマティスの、国を率いる者としての覚悟の重さをまったく理解できていなかった。
性欲を封じるなど、なかなかできることではない。
ディルクはスンと鼻を鳴らした。
「ディルク様……?」
「それ、消せないのか?」
「……消せません」
(まぁ、簡単に消せたら意味ないよな……)
欲を封じる紋様の類は、簡単には消せないよう複数の高位魔道士が術式を描く。掛けられた側は当然消すことはできない。
(だが、この世の中に絶対はない)
クレマティスの腹を見つめていたディルクは、顔を上げると、力強くこう宣言した。
「俺が、この逆淫紋を消してやる」
「はっ……?」
「今は俺という妻がいるんだ。あんたが催したら、いつでも俺が相手してやる。だから、逆淫紋を消す!」
ディルクは、透けるほど薄い布で包まれた己の尻をばちんと叩く。
「何を仰っているのか、分かっているのですか? 私は十八年前にこの逆淫紋を腹に刻みました。今これを解いたら、何が起こるか……」
「暴走しちまうかもな。へへっ、望むところだ!」
鼻の下を人差し指の背で摩りながら、ディルクは笑い飛ばした。
◆
(まったく……ディルク様はとんでもない方だな)
自分の隣りに横たわり、すうすうと寝息を立ているディルクを見つめながら、クレマティスは苦笑する。
ディルクはまだ、女性の姿のままだった。
体型にこだわるあまり、術式を重ねがけしすぎたせいですぐには元の姿に戻れなかったのだ。
クレマティスは、ディルクの焦茶色の癖っ毛をそっとなでる。彼を見ていると、昔世話をしていた魔狼の仔を思い出す。
(懐かしいな……)
もう十年以上も前。まだ見習い身分の軍職者だったクレマティスは、森の中で怪我をした魔狼の仔を拾った。
母親の姿は見えず、放っておくことができなかったのだ。
寮の部屋に魔狼の仔を連れ帰ると、怪我が治るまで世話をした。
魔狼の仔は人を恐れず、人懐っこかった。クレマティスが部屋に戻ると千切れんばかりに尻尾をふり、舌を出して飛びつく。
魔狼の仔と暮らした期間はたった一年ほどだが、人生であれほどまでに何かに懐かれた経験はない。
ディルクはその魔狼の仔によく似ていた。魔狼の仔も彼のように焦茶色の毛を持っていた。甘えん坊だが、帰宅が遅くなると部屋の隅でふて寝する。
喜怒哀楽がはっきりしているところなんか、そっくりだ。
女性に変化したディルクは「自信作の乳だ! 揉んでいいぞ」と迫ってきたが、魔狼の仔も自身の腹をモフれと言わんばかりに見せつけてきたことがたびたびあった。
(魔狼に似ていると言ったら、ディルク様は怒るだろうな……)
ペット扱いするなとプクッと頬を膨らませるディルクの姿を想像したクレマティスは、ふっと小さく笑い声を漏らす。
(ゆかいな方だ)
ディルクと過ごすようになり、自分でも笑うことが増えたと思う。彼はもう自分にはなくてはならない人だ。
(だからと言って、ディルク様を抱きたいとは思わないが……)
性の知識は一応ある。だが逆淫紋の影響か、ディルクを愛しく思っても、彼とどうにかなりたいとは思わなかった。
ディルクは自分が守っていかなければならない、かけがえのない家族。それを性のはけ口にする気にはどうしてもなれない。
(だが、ディルク様は本懐を遂げたいのだろうな)
ディルクとは価値観が大きく異なる。
自分では違い、性愛の経験がある彼は、身体の関係を持つ重要性を分かっているのだろう。
(もしも、ディルク様がこの逆淫紋を解いたら……)
クレマティスは自身の腹部を摩る。
(私はディルク様を受け入れなくてはいけないだろう)
ディルクを受け入れる日がやってくるのかどうかは分からない。この逆淫紋は強力で、名のある魔道士達が術式を刻んだ。ディルクはエレメンタルマスターに匹敵する能力を持つが、だからと言って易々とは解けないだろう。
逆淫紋が解けたら、と考えると、不安を感じると同時に、また別の感情を覚える。
ディルクと未知の体験ができるかもしれない。
そう考えると胸の奥が跳ねた。
(私にも、人並みに欲があったのだな……。誰かと特別な関係になりたいという、欲が)
自分に特別な人間ができるなど、以前は考えられなかった。
この感情をくれたディルクを愛しく思ったクレマティスは、また彼の髪をそっとなでた。
<完>
ご閲覧いただき、ありがとうございます。
最後にエールを押してもらえたらすごく嬉しいです!
この日、ディルクは難しい顔をして、楕円の姿見鏡をじっと見つめていた。
先日、彼は元公国軍の将軍クレマティスと結婚した。
グレンダン公国は同性婚が認められている国で、男同士の結婚は数こそ少ないものの、普通に行われている。
退役したクレマティスは新たな大公となったが、大公は世襲ではなく、世継ぎは必要ない。男と結婚しても何ら問題はないのだが、クレマティスの妻となったディルクの心境は複雑であった。
(クレマティスは、童貞のまま俺と結婚した……)
性的なことも愛を交わすことも経験せず、クレマティスは男である自分と結婚した。その事実がディルクの上にずんと重く伸し掛かる。
クレマティスは自分と結婚したことで、何か大切なものを得損なってしまったのではないか。
そう考えると、ディルクの気分は沈んだ。
(まぁ、俺だって……愛とか恋とか、そういうものを知らずに結婚したけどよ……)
ディルクは帝国の第八王子だが、母親の身分が低く、生まれ育った後宮での待遇は良いものとは言えなかった。
彼はその身一つで生き抜いてきた。今まで多くの人間達と交わりを持ってきたが、誰かと真剣に恋をしたことはただの一度もなかった。
今では、自分が女を好むのか、男を好むのか、性嗜好さえ曖昧だ。
だが、クレマティスは違うだろう。
(たぶん、クレマティスは普通に女が好きな男だろうな……)
ディルクから見たクレマティスは至極真っ当な人間で、同性を好むような、そんなニッチな性癖は待ち合わせていないように思えた。
うむむと唸る。
クレマティスは性愛を生涯経験しないままで、本当にいいのだろうか。
(……クレマティスの筆下ろしをしてやりたい)
クレマティスは絶対に浮気はしないだろう。伴侶が男でも、裏切ったりはしない。それは断言できる。
だから、ディルクは考えた。自分が彼の夜の相手をしようと。自分は彼の妻なのだから。
「よしっ……! そうと決まれば!」
ディルクは頭の中に術式を浮かべる。
彼の特殊能力は、変化。
人の姿形を別人に変えることができる。
ある程度の制約はあるものの、自分の姿も変えることができた。
(あいつが気に入るような、絶世の美女に変身してやる!)
美女と言っても、ディルクの面影がまったくないようでは、クレマティスは手出ししようとはしないだろう。
なるべく顔や髪型などの印象は変えず、自分の体型を作り変える。
(クレマティスはどんな女が好みなんだ……?)
クレマティスはアザレアを娶ろうと考えていた時期もあったようだが、それは彼女のことが好きというよりも、同情心の方が強かったようだ。
アザレアはおそらく、クレマティスの好みではない。もちろん、嫌いではないだろうが。
ディルクはしばらく考えたが、答えは出なかった。
クレマティスと俗っぽい会話をしたことがなく、判断材料がなかったのである。
(まあ、とりあえず、乳と尻をデカくしておけば間違いないだろう……)
分かりやすくエロい女に変身して迫れば、クレマティスも悪い気はしないはず。
そう思い、軽い気持ちでディルクは自身の身体を特殊能力で作り変えていった。
──小一時間後。
「う~~ん……。もっと吸い付くような乳にしたいな……」
ディルクは姿見鏡の前で、メロンのような乳房を両手で掬いあげる。彼の手の上でたわわがぷるるんと揺れた。
彼はクレマティスが気に入る最高の女になるべく、試行錯誤をしていた。
こだわったのは乳房だけではない、腰のくびれ具合や太ももの柔らかさにも細心の注意をはらった。
どことは具合的には言えないが、あそこも名器だ。
声も女性らしいものに変えた。
「おっと、クレマティスが帰ってくる時間だ」
壁掛け時計がボーンと鳴った。
今夜のところはこの姿で挑もう。
ディルクは自身の肢体を満足げに見下ろす。我ながらなかなかの出来だと思う。
「クレマティス、喜んでくれるかな……」
金の鎖を細い首や腕に巻きつけながら、ふんふんと鼻歌を口ずさみ、にやにやと笑う。
男に触られるなど、昔はおぞましいと思っていたが、クレマティスは別である。彼は自分のことをすごく大事にしてくれている。何か恩返しができればとずっと考えていた。この身を捧げられるのならば、本望だ。
砂漠の国の側女をイメージした扇情的な衣装に身を包んだディルクは、夫婦の寝室へ向かった。
◆
寝室の扉を叩くと、すぐにクレマティスの声が聞こえた。嬉しくなったディルクは、勢いよくその扉を開ける。
そして。
「クレマティス、初夜をしようぜ‼︎」
開口一番、そう宣言した。
寝室で、ポットから薬湯を淹れていたクレマティスの手がぴたりと止まる。瞬きを何度もしながらこちらを見つめる彼に、ディルクはハッとした。
(しまった……!)
つい、チェスに誘うようなノリで声を掛けてしまった。これではいくら魅惑的な美女に扮しようとも、クレマティスのすけべ心が萎えてしまうだろう。
もっといやらしい雰囲気を作るべきだったと後悔するも、もう遅い。
「ディルク様……⁉︎ なんですか、その格好は……‼︎」
「へへっ、いいだろ?」
「それにその身体……変化の術で女性になったのですか? 一体、なんのために……?」
クレマティスはおろおろしながらも、自分の上着を急いで脱ぐと、ディルクの上半身をすっぽり包みこんだ。
「聞いてなかったのか? あんたと初夜をするためだ」
「初夜?」
クレマティスは眉間に皺を寄せると、眉尻を下げる。
「そんなことをしなくても、私はあなたを大切に思っている」
「大切にしてもらえるのはありがたいけど、俺はあんたともっと深い仲になりたいんだ」
「なぜですか? 我々はもう充分深い仲だと思いますが……」
「それは精神的な話だろ? 俺はもっとこう、物理的に深い仲になりたいんだよ」
さすがにどストレートに、筆下ろしがしたいなどとは言えない。夫婦として深い仲になりたいと、ディルクは訴える。
だが、クレマティスは首を縦に振らなかった。
「申し訳ありません、ディルク様……。私は、性的な欲が持てないのです」
心底申し訳なさそうにそう呟くと、クレマティスは夜着のシャツを捲り上げ、ゆったりとしたズボンに手を掛けた。
そして、六つに割れた腹筋が露わになる。
「なん、なんだよ……これ……」
クレマティスの腹部を目にしたディルクは、片手で口元を覆った。
なぜなら彼の下腹部には、緻密な文字が入った黒い円形の紋様がくっきりと浮かびあがっていたからだ。
「……性欲を封じるための逆淫紋です」
「ぎゃく、いんもん?」
「私は子どもの頃から、公国軍の将軍となるよう期待されていました。そして、ゆくゆくは国を率いる立場にと……。そういう人間は誘惑が多い。私は性愛で道を踏み外すわけにはいかなかった。だから、逆淫紋で性欲を封じたのです」
ディルクは言葉を失う。
クレマティスの、国を率いる者としての覚悟の重さをまったく理解できていなかった。
性欲を封じるなど、なかなかできることではない。
ディルクはスンと鼻を鳴らした。
「ディルク様……?」
「それ、消せないのか?」
「……消せません」
(まぁ、簡単に消せたら意味ないよな……)
欲を封じる紋様の類は、簡単には消せないよう複数の高位魔道士が術式を描く。掛けられた側は当然消すことはできない。
(だが、この世の中に絶対はない)
クレマティスの腹を見つめていたディルクは、顔を上げると、力強くこう宣言した。
「俺が、この逆淫紋を消してやる」
「はっ……?」
「今は俺という妻がいるんだ。あんたが催したら、いつでも俺が相手してやる。だから、逆淫紋を消す!」
ディルクは、透けるほど薄い布で包まれた己の尻をばちんと叩く。
「何を仰っているのか、分かっているのですか? 私は十八年前にこの逆淫紋を腹に刻みました。今これを解いたら、何が起こるか……」
「暴走しちまうかもな。へへっ、望むところだ!」
鼻の下を人差し指の背で摩りながら、ディルクは笑い飛ばした。
◆
(まったく……ディルク様はとんでもない方だな)
自分の隣りに横たわり、すうすうと寝息を立ているディルクを見つめながら、クレマティスは苦笑する。
ディルクはまだ、女性の姿のままだった。
体型にこだわるあまり、術式を重ねがけしすぎたせいですぐには元の姿に戻れなかったのだ。
クレマティスは、ディルクの焦茶色の癖っ毛をそっとなでる。彼を見ていると、昔世話をしていた魔狼の仔を思い出す。
(懐かしいな……)
もう十年以上も前。まだ見習い身分の軍職者だったクレマティスは、森の中で怪我をした魔狼の仔を拾った。
母親の姿は見えず、放っておくことができなかったのだ。
寮の部屋に魔狼の仔を連れ帰ると、怪我が治るまで世話をした。
魔狼の仔は人を恐れず、人懐っこかった。クレマティスが部屋に戻ると千切れんばかりに尻尾をふり、舌を出して飛びつく。
魔狼の仔と暮らした期間はたった一年ほどだが、人生であれほどまでに何かに懐かれた経験はない。
ディルクはその魔狼の仔によく似ていた。魔狼の仔も彼のように焦茶色の毛を持っていた。甘えん坊だが、帰宅が遅くなると部屋の隅でふて寝する。
喜怒哀楽がはっきりしているところなんか、そっくりだ。
女性に変化したディルクは「自信作の乳だ! 揉んでいいぞ」と迫ってきたが、魔狼の仔も自身の腹をモフれと言わんばかりに見せつけてきたことがたびたびあった。
(魔狼に似ていると言ったら、ディルク様は怒るだろうな……)
ペット扱いするなとプクッと頬を膨らませるディルクの姿を想像したクレマティスは、ふっと小さく笑い声を漏らす。
(ゆかいな方だ)
ディルクと過ごすようになり、自分でも笑うことが増えたと思う。彼はもう自分にはなくてはならない人だ。
(だからと言って、ディルク様を抱きたいとは思わないが……)
性の知識は一応ある。だが逆淫紋の影響か、ディルクを愛しく思っても、彼とどうにかなりたいとは思わなかった。
ディルクは自分が守っていかなければならない、かけがえのない家族。それを性のはけ口にする気にはどうしてもなれない。
(だが、ディルク様は本懐を遂げたいのだろうな)
ディルクとは価値観が大きく異なる。
自分では違い、性愛の経験がある彼は、身体の関係を持つ重要性を分かっているのだろう。
(もしも、ディルク様がこの逆淫紋を解いたら……)
クレマティスは自身の腹部を摩る。
(私はディルク様を受け入れなくてはいけないだろう)
ディルクを受け入れる日がやってくるのかどうかは分からない。この逆淫紋は強力で、名のある魔道士達が術式を刻んだ。ディルクはエレメンタルマスターに匹敵する能力を持つが、だからと言って易々とは解けないだろう。
逆淫紋が解けたら、と考えると、不安を感じると同時に、また別の感情を覚える。
ディルクと未知の体験ができるかもしれない。
そう考えると胸の奥が跳ねた。
(私にも、人並みに欲があったのだな……。誰かと特別な関係になりたいという、欲が)
自分に特別な人間ができるなど、以前は考えられなかった。
この感情をくれたディルクを愛しく思ったクレマティスは、また彼の髪をそっとなでた。
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