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1巻
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◆◇◆
そんなこんなで、二人の同居生活は始まった。
アレスが自分を受け入れてくれるかどうか不安だったが、リオノーラが想像していたよりもすんなりと、彼は同居することに同意した。
「ティンエルジュ侯と何があったのかは聞きません。落ち着いたら帰りましょうね、俺も一緒に行きますから」
アレスの目が優しげに細められる。
どうやらアレスは、リオノーラが父親と大喧嘩し、当てつけのためにここに来たのだと思っているらしい。一ヶ月間もの有給休暇を事前に取り付けてきたのも、自分に護衛兼世話係をさせるためだと脳内補完しているようだった。
「……突然すみません、アレス様。どうぞよろしくお願いいたします」
そんな誤解が生じたのは、リオノーラがここへ来た理由を特に何も言わなかったからだ。アレスと楽しく過ごすため、と言ったが、それだけだ。
リオノーラはレイラやラインハルトからとある助言を受けていた。「看病のために来た」とは言うな、と。彼女自身、アレスに真の目的を告げるつもりはなかった。アレスの戦神の薬依存を知った経緯を彼に話さなければならなくなるからだ。さすがに留守中に床下収納を勝手に漁ったなどとは言いたくない。不法侵入しただけでも、アウトなのに。
「後で必要なものを買いに行きましょうか。俺はここにほとんど戻っていないので、部屋に何もないんですよね」
「はい!」
アレスの看病のために王都へ来たリオノーラだったが、彼女はこれから始まる新生活に胸を躍らせていた。アレスが思いのほかあっさり同居に同意してくれたのもある。もっと渋ったり嫌そうな顔をされる覚悟をしていたのだ。
結婚後、一年九ヶ月もの間別居していたとは思えないほど、二人の同居生活はスムーズに始まったかに見えた。が、お互い両手に抱えきれないほどの役目を負っている身。易々と蜜月を過ごすことはできなかった。
リオノーラが王都へ来て今日で五日目になる。
町娘のように頭に三角巾をつけ、前あきのない丸首シャツにボディスを合わせ、ごわついた生地のロングスカートの上からエプロンをつけた彼女は勝手口でしゃがみ込み、野菜の皮むきをしていた。
彼女はティンエルジュ侯爵家の歴とした令嬢だが、万年人手不足の田舎で育った影響で、ひと通りの家事ができる。ティンエルジュ侯爵家は自領の警護に力を入れていて私設兵の数は多いのだが、その分使用人などの内勤者の数は限られている。そのため、リオノーラは幼い頃から食事作りや洗濯、掃除を使用人に交じってやっていたのだ。アレスからの菓子の差し入れを、手づかみで食べていたのも洗い物を少しでも減らすためだった。
今夜のメニューは根菜のシチューとえん麦を使った魚フライ、それに買い置きしてある塩パンをつける予定だ。アレスが暮らす将校用の寮は西の帝国の建築士が設計した最新鋭の二階建て住宅で、加熱機器や給湯設備が備わっている。わざわざ火起こしをしなくても加熱調理ができ、湯も使えた。
設備が整っていることもあり、もともと家事能力があったリオノーラは問題なく、炊事ができていた。
リオノーラは芋の皮むきが終わると「よいしょ」と立ち上がり、つま先立ちになって扉の窓から室内を覗く。中にはアレスともう一人、若い男の姿が見えた。
ツンツンした短い金髪に青い目をした体格の良い青年だ。美形ではないが、目がくりっと大きく愛嬌のある顔立ちをしている。気安く声をかけやすい雰囲気で、いかにもモテそうだ。扉越しに金髪の男の声が聞こえてきた。
「ひどい! アレスさん! オレに全部仕事を押し付けて!」
「はいはい」
「有休を取るなとは言いませんけど、いきなり一ヶ月間も取るなんてひどいです! 鬼! 悪魔!」
「だから書類仕事だけでも手伝っているだろうが。大きな声を出すな、ドグラ」
アレスの部下、ドグラ。王都でも有名な大商家ティッツァーノ商会の次男坊だが、娼婦に入れ込み、家の金を使い込んだことで両親や兄の逆鱗に触れ、王立騎士団の中でももっとも業務がきつい特務師団へ投げ込まれたのだと、アレスが呆れたように言っていた。
ドグラは他の騎士達同様、灰色の詰襟服を着ているが、職は騎士ではなく『骨拾い』。他国では従者と呼ばれることが多いが、主に騎士の荷物持ちや、騎士が討ち取った大将首の処理を行う。『骨拾い』は王立騎士団特有の仕事で、名は大将首を拾うことに由来する。
ドグラは宗西戦争時、アレスとペアを組んでいた。アレスが討ち取った百以上の敵将校や王族の首は彼が処理して運んだのだそう。
「あ、リオノーラ様、お疲れ様っす!」
「ドグラ様、お疲れ様です。今、お茶を淹れますね」
「すんません!」
部屋に入ってきたリオノーラに気がついたドグラが、人のよさそうな笑みを浮かべながら、ぺこぺこと頭を下げる。
幼少期に母親を家令に連れ去られた一件から、リオノーラはあまり男性が得意ではないが、なぜかこのドグラのことはそんなに嫌でもないなと思っている。彼には商家出身らしい人懐っこさがあるからかもしれない。リオノーラは領主である父親の仕事を手伝っている絡みで、商人とは頻繁にやりとりしていた。商人に馴染みがあるのだ。
「いや~~。ティンエルジュ侯爵家のリオノーラ様がこんなにもお可愛らしい方だったとは! そりゃあアレスさんも宗西戦争で鬼神のごとく剣を振るうわけですよ!」
紅茶が入ったカップを出すリオノーラに、へっへっと笑いながら揉み手をし、世辞を言うその姿は商人のそれにしか見えない。
ドグラの軽口に、アレスが眉間に皺を寄せる。
「ドグラ、用が済んだのなら帰れ」
「ひどい! アレスさん!」
「ドグラ様、良かったらお夕食を食べていってくださいね」
アレスはドグラにすげなく「帰れ」と言ったが、リオノーラは自分達の都合で仕事を押し付けてしまった彼を不憫に思い、せめてもと夕食に誘った。
「お、いいんですか? 悪いなァ~、ははっ!」
アレスと同居を始めて早五日。夕刻になるとドグラを始め、毎日誰かしらが訪ねてくる。有給休暇中のはずのアレスが休めていないことは気がかりだが、自分の知らない彼のことを訪問者から聞くことができるので、これはこれでいいなとリオノーラは思っている。
それに、他にも利点はある。アレスはあまり食べない。シチューやスープを作っても余ってしまうので、たくさん食べてくれる王立騎士団関係者の来訪は正直ありがたいのだ。
「アレスさん、いいなぁ……。可愛くて料理が上手い奥さんがいて。リオノーラ様もすごいですよねぇ、大貴族家のお嬢様なのに炊事が得意だなんて」
「ふふっ、ドグラ様、たくさん召し上がってくださいね」
がつがつと食べ、シチューの皿をあっという間に空にするドグラに対し、アレスはお上品に少しずつスプーンで掬い、口へ運んでいく。彼の食べ方はお手本のように綺麗だが、食が進んでいないのは明らかだ。
賑やかに食事を終え、書類を抱えたドグラは元気良く帰っていった。
「毎日毎日すみません……」
ドグラという嵐が過ぎ去った後のダイニングを片付けながら、アレスが俯く。食事の後片付けは彼の役目だ。
「気にしないでください。楽しいですから!」
ティンエルジュの屋敷とはまったく違う生活。リオノーラは約二十年間、自領からほとんど出たことがない。王都へ来たことも年に数えるほどしかなかった。
二階建ての戸建で、アレスと二人きりで過ごす生活は小さな驚きの連続だった。二人で話し合い、家事を分担しながら暮らす日々はささやかながらとても楽しい。
アレスはとても手先が器用で、炊事場が使いやすくなるよう、調味料を置くための収納棚を作ってくれたり、調理道具をぶら下げられるようなフックを壁に取り付けてくれた。
今のところ本来の目的である看病らしい看病は何もしていないので、自分がここにいる意味はあるのだろうかと思わなくもなかったが、アレスと一緒にいられるだけで今までにないほど心が浮かれた。
「せっかく王都へいらしたのですから、色々なところへご案内できれば良かったのですが……」
「そ、そんなの、大丈夫です! それに私はアレス様と一緒にいられるだけで楽しいので、充分です!」
心からの言葉だった。この五日間、同じ家で共に寝起きして、同じものを食べる。二人の間を隔てるものは何もない。手を伸ばせば触れ合える距離にアレスがいると思うだけで、リオノーラは嬉しかったのだ。
結婚前の気安い幼馴染の関係に戻れたような気がする。
「そうですか。来週になれば、仕事も落ち着くと思います。王都をご案内しますので、行きたいところやしたいことがあったら遠慮なく仰ってくださいね」
隣でふっと柔らかく微笑むアレスに、頬が熱くなり、胸の奥が痛む。いや、こんなはずではなかったのだ。リオノーラはもっと、自分が労して彼の世話をするつもりでいた。
「……アレス様、体調は大丈夫ですか? ご気分は?」
「? 別に普通ですが……」
この五日間、毎日繰り返している会話。実際、アレスは食は細いものの、そこそこ元気そうにしている。ティンエルジュの屋敷に来る時はもっと青い顔をしていたのにと拍子抜けしそうになるが、アレスは騎士である。顔に出さないようにしているだけかもしれないと思い直した。
夜になり、一人きりのベッドの中で、リオノーラは天井を見つめていた。
彼らが住む王立騎士団の寮は二階建ての戸建住居。一階のダイニングに隣接した寝室はリオノーラが一人で使っており、アレスは二階の書斎にある簡易ベッドで寝ている。
同居初日、当たり前のように寝室を分けようとするアレスに、リオノーラは共寝を申し出たのだが、「ベッドが狭いので別々に寝ましょう」とやんわり断られてしまったのだ。
同居を始めてから迎える五回目の夜。
今夜もリオノーラは一人でベッドに横になっている。別にベッドは狭くない。本来家族用である住居に備えつけられたベッドは、大人が二人寝転べるぐらいの余裕はある。
リオノーラは天井を睨みつける。彼女は二つの目的があってここへ来た。
ひとつは戦神の薬依存になっているであろうアレスの看病。
もうひとつは離縁回避のための性交渉だ。
リオノーラはこの五日間、ずっと考えていた。どうすればアレスと性交できるのかと。
このまま何もないと、父に強制離縁させられてしまう。
当初は、アレスによる無理やりとも言える結婚だった。
しかし今、リオノーラは離縁するのは嫌だと思っている。なぜ嫌なのかは上手く説明できない。とにかくこのままアレスと縁が切れてしまうのは辛いのだ。五日間という短い期間でも一緒に暮らし、情が生まれているのかもしれない。
自分から「性的なことがしたい」と言えればどれだけ楽だろうかと、リオノーラは布団を被って唸る。しかし、もしもアレスにその気がない場合を考えると、言えなかった。
頭から布団を被ったまま、自分の胸や腰まわりに手を這わせる。仰向けになった胸にはあまり膨らみを感じないのに、いつもドレスに隠れている下半身はむっちりしていた。この残酷な事実に気が重くなる。
買い物の帰り、たまにアレスの勤め先である王立騎士団の詰所の前を通るが、そこを出入りする南方人らしい女性騎士は、大層な美人だった。
すらりと伸びた長い手足、女性らしい曲線を描く肢体、艶やかで癖のない長い黒髪にリオノーラは嫉妬した。アレスはあんな南方美女を毎日のように目にしていたのだ。自分の相手なんかするはずもないと、卑屈になる。
リオノーラは甘いものが好きだが、実家では節制させられていた。淑女のドレスを着るには細い腰まわりが必須で、痩せていることが貴族のつとめだったからだ。
しかし、どれだけ頑張ってコルセットに入る痩せた身体を維持したところで、手足の短さはどうにもならない。下半身も、骨盤が大きいのか、尻が張り出している。医者は安産型だと褒めたが、そもそも自分に出産する機会がやってくるのだろうかと疑問に思う。
アレスが自分に性的な欲求なぞ覚えることがあるのだろうか。
休日のたびに彼はティンエルジュの屋敷までわざわざ来てくれていたが、あれは真面目な彼が婿としての義務を果たしていただけで、惚れた腫れたは関係なかったのではないか。
もぞもぞと寝返りを打つ。
このままではいけない。でも、自分から誘う勇気も湧かない。
明日はレイラが来てくれる予定になっている。彼女に相談しようと、リオノーラはぎゅっと瞼を閉じた。
「はあ? まだ婿殿と寝ていないのか?」
翌日の昼、レイラはトランクに書類を山ほど詰め込んでやってきた。
アレスは留守にしている。王城でどうしても外せない用事があると言い、早朝から騎士服を着て出掛けていったのだ。
「あれから何日経ったと思っている」
「う……」
「五歳の子どもでも口づけぐらいはしているぞ?」
その五歳の時にリオノーラはアレスと出会ったが、その時ももちろん口づけはしていない。手を繋いだことぐらいはあったかもしれないが。
「だいたいなんで別々の部屋で寝ているんだ? お前らやる気ないだろ」
「う、うるさいわね! 色々あるのよ!」
この六日間、一緒に買い物をしたり家事をした。そもそもこんな長い時間、二人で一緒にいたことはなかった。特に結婚してからは鉄格子越しにしか会っていない。両者とも、一緒にいられるだけでいっぱいいっぱい。二人にとって、今が嬉し恥ずかし新婚期間なのである。
「こういうのは時間が経てば経つほど、しにくくなるぞ?」
「ううっ……」
「お互いの存在に慣れれば慣れるほど、興奮しなくなる」
「だって、だって」
「我が家特製の媚薬をやっただろ? 今夜にでも飲んで婿殿の身体に跨りに行け」
「でも……! アレス様が私に興奮しなかったら……!」
リオノーラから見て、アレスに性欲があるとは思えないのだ。アレスはその辺の女性よりずっと綺麗な顔をしていて、あまり男性的なものを感じないのもあるかもしれない。
すらりと背は高いが、他の騎士みたいに筋骨隆々というわけでもなく、細身の体躯。髪も肌も、騎士とは思えないほど綺麗だ。
自分よりも遥かに見目麗しい存在に、リオノーラは尻込みしていた。
「……あまりもたもたしている時間はないぞ、リオ。お館様は、遅くとも三ヶ月後にはティンエルジュへ戻れと言っていた」
レイラが胸の前で腕を組み、ふーっと息を吐き出す。
「さ、三ヶ月……!?」
短すぎると、リオノーラは驚いた。
「この三ヶ月で絶対に身籠もるぐらいの勢いでヤらないと、まぁ離縁だろうな」
ほら、とレイラが小瓶と錠剤をリオノーラへ差し出す。どちらもレイラの実家の薬畑でとれる薬草をもとに作られた、まぐわうための道具だ。彼女はしぶしぶ、それらを受け取った。本当は道具なんて使いたくないが、できなかったら困るのでそっと懐に入れた。
下手に先走ってアレスに嫌われたらどうしようと、リオノーラは泣きたい気持ちでいっぱいになる。でも、性交できなければ二人はお別れだ。それだけは絶対に避けたい。
「ちゃんとトランクの決裁書類も見ておくんだぞ? 週明けに回収に来る」
「うん……」
「リオ、性交渉ぐらい誰でもやっている。特別なものだと思うな」
レイラにとって、アレスは父親違いとはいえ弟だ。それなのによくこんなにあけすけに言えるなあとリオノーラは思ったが、宗国人と南方人とではまた肉親に対する感覚が違うのかもしれない。
「……はぁ」
できればまだ、今の淡くて幸せな関係に浸っていたい。無理に一線を越えてしまったら、何かが駄目になってしまいそうな気がする。
リオノーラは答える代わりに、鼻をスンッと鳴らした。
「すごい量の書類ですね……」
朝から王城へ行っていたアレスは、夕刻に帰ってきた。書類の山に埋もれているリオノーラを見て、ぱちぱちと瞬きする。
その書類の山の中で、リオノーラは半べそをかいていた。
「これ、来週までに全部決裁しなくちゃいけなくて」
「大変ですね、何かお手伝いできることがあったら仰ってください」
そう言いながら、アレスが倒れそうになっていた書類の山の形を慣れた様子でぽんぽんと整える。リオノーラは瞬時に思った、この人は書類整理に長けた人だろうと。
「アレス様、助けてください……!」
「ああ、泣かなくても大丈夫ですよ。手伝います」
相変わらずアレスは淡々としている。表情は乏しいし口数も少ないが、書類の内容を即座に理解し、的確に仕分けている。言い方は悪いが、これは使えるとリオノーラは思った。
「あ、ここ、数字が違いますね」
「ええっ、どこですか? あ、本当……」
「他のものも間違っているといけないので、算盤を弾いて確認します」
「ありがとうございます!」
アレスは数字に強かった。山のように積まれた書類をすごい勢いで確認していく。聞けば、王立商工会議所簿記検定資格一級を持っているらしい。難関と言われる国家資格のひとつである。
「騎士なのに、簿記なんて必要なんですか?」
「特務師団では必要ですね。よその師団や部隊のように書類仕事をする事務官がいないので……」
特務師団には書類仕事をする事務官がいない。どのような組織でも会計報告は必要なはずで、その専任者がいないという事実だけでもリオノーラは震えあがった。
簿記資格を持つアレスが、有給休暇中でもまめに詰所へ顔を出しにいくはずである。
「それに……」
「それに?」
「簿記資格があれば、あなたの仕事を手伝えるかと思いまして」
いつもと同じ抑揚のない口調で、アレスはなんでもないことのように言う。
一方で、リオノーラは彼の健気さに悶絶していた。闇雲に「君を守る」と言われるよりも、現在進行形で困っていることを助けられたほうが遥かに胸に刺さる。
「あ、ありがとう、ございます」
かき消えてしまいそうな声量でリオノーラはもう一度お礼を言った。
言いながら焦る。こんなに意識していては、とてもではないがアレスの身体に跨れないと。
ふと顔を上げると、向かいに座る彼の真剣な面差しが目に入る。少し伸びた真っ直ぐな前髪を耳にかけ、算盤を弾いている。近くで見ると睫毛が長いことが分かる。せめて彼がこんなに素敵な外見をしていなければ、もう少し気軽に攻めることができたのにと、リオノーラは心の中でぐぬぬと唸った。
夜。シャワーを浴びたリオノーラは、薄紫色をした小瓶を握りしめていた。レイラから貰った媚薬である。鋼鉄のような不感症でもアラ不思議、息を吹きかけられただけで身悶えてしまうような、すごい薬らしい。
アレスの前で痴態を晒したくないが、背に腹は代えられない。リオノーラは今年で二十一歳になるが、自慰すらほとんどしたことないような生粋の処女だった。
ためらいながらも脚を開き、錠剤型のローションを脚の間の隙間に押し込んでから、彼女はきゅぽんと音を立てて瓶のフタを開け、中身をぐっと飲み干した。
薄紫色の液体はややとろみがあり、不自然な甘みと、苦味をむりやり誤魔化したような嫌な後味がする。それをなんとか喉の奥へと流し込んだ。
「……美味しくない」
はあと息をつくと同時に、今までしていたシャワーの水音がぴたりとやむ。リオノーラは丸めていた背をピンと真っ直ぐ伸ばした。
王立騎士団が寮として提供しているこの二階建て住宅には給湯設備がある。個人宅でも湯が出るシャワーが使えた。今、アレスはそのシャワーを浴びていた。彼がシャワー室から出てきたところを、一階の自分のベッドへ引きずり込もうという算段だ。
(い、いよいよだわ……!)
リオノーラの胸が早鐘を打つ。
レイラから渡された前合わせの白い夜着の下には何も身につけていない。この白い夜着は初夜の日に着る特別なものらしい。脚の間に挿れた錠剤型ローションが体温で蕩け始めていて、太腿が少し濡れている。
がちゃりと音を立て、シャワー室に続く扉が開く。
アレスは乾いた布で濡れた髪を拭いながら出てきた。あたりに石鹸の清潔そうな匂いが漂う。彼は上下揃いのゆったりとした綿のシャツとズボンを身に着けていた。
「リオノーラ、そんな薄着をしていたら風邪をひきますよ?」
頭上から降る、至って落ち着いた正論。
リオノーラはアレスの淡々とした物言いに怖気づきそうになったが、拳をぎゅっと握りしめ、なんとか耐えた。頭の奥が痛いぐらい熱くなる。
「アレス様……」
「はい?」
「お願いが、あります!」
(なんだか身体がぽかぽかする……)
リオノーラは身体の奥底から湧き出てくるような熱を感じていた。媚薬の効果だろうか。熱を感じるだけでなく、口の中や脚の間など、粘膜が異様にむずむずする。
リオノーラは背後に隠していた小瓶を掲げて見せた。
「私はこれを飲みました」
「これ? ……ああ、媚薬ですか。確か解毒剤があったはずなので、少し待ってもらえますか?」
いやに落ち着きすぎているアレスの言葉に、リオノーラはバッと顔を上げる。どこの世界に、媚薬を飲んだと自己申告した女に解毒剤を処方する男がいるのだ。
信じられない。
ここは媚薬の熱が治まるまでまぐわうのが世界の常識だろうとリオノーラは歯噛みする。
すでに媚薬の効果が脳にまで回ってしまったリオノーラの思考は、普通ではなくなっていた。
「い、嫌です! 解毒剤なんか飲みません! 私はアレス様とまぐわいたくて媚薬を飲みました!」
がしりとアレスの腕を掴む。身体の火照りを意識すると一層粘膜の疼きが増した。早くこの疼きをなんとかしてほしくて、彼女は恥をかなぐり捨てて目の前の男に縋った。
直接的すぎるリオノーラの言葉に、普段は人一倍冷静なアレスの瞳が揺れる。
「いやでも、これをひと瓶飲んだのですよね? だとすると、解毒剤でないと難しいかと……」
「嫌です……っ! 解毒剤じゃなくて、アレス様になんとかしてもらいたいんです!」
「しかし……」
「ううっ、先っぽだけでもいいのでお願いします……!」
しつこいナンパ男のように、リオノーラは食い下がる。
こんなことになるなら、もっと早くアレスと一緒に暮らすなり、関係を深める努力をするなりしておけば良かった。
しかしもう、二人に残された期間は三ヶ月を切っている。最低でも身体の関係ぐらいは持っておかないと離縁待ったなしだ。
「リオノーラ、落ち着いてください。……まぁ、まずはベッドへ行きましょうか」
「性交してくれるんですか!?」
「い……ええ、まあ」
リオノーラの真っ直ぐすぎる物言いに、アレスが頬を引き攣らせる。ムードはゼロどころかマイナスだが、とりあえず性交する流れにはなったらしい。
そんなこんなで、二人の同居生活は始まった。
アレスが自分を受け入れてくれるかどうか不安だったが、リオノーラが想像していたよりもすんなりと、彼は同居することに同意した。
「ティンエルジュ侯と何があったのかは聞きません。落ち着いたら帰りましょうね、俺も一緒に行きますから」
アレスの目が優しげに細められる。
どうやらアレスは、リオノーラが父親と大喧嘩し、当てつけのためにここに来たのだと思っているらしい。一ヶ月間もの有給休暇を事前に取り付けてきたのも、自分に護衛兼世話係をさせるためだと脳内補完しているようだった。
「……突然すみません、アレス様。どうぞよろしくお願いいたします」
そんな誤解が生じたのは、リオノーラがここへ来た理由を特に何も言わなかったからだ。アレスと楽しく過ごすため、と言ったが、それだけだ。
リオノーラはレイラやラインハルトからとある助言を受けていた。「看病のために来た」とは言うな、と。彼女自身、アレスに真の目的を告げるつもりはなかった。アレスの戦神の薬依存を知った経緯を彼に話さなければならなくなるからだ。さすがに留守中に床下収納を勝手に漁ったなどとは言いたくない。不法侵入しただけでも、アウトなのに。
「後で必要なものを買いに行きましょうか。俺はここにほとんど戻っていないので、部屋に何もないんですよね」
「はい!」
アレスの看病のために王都へ来たリオノーラだったが、彼女はこれから始まる新生活に胸を躍らせていた。アレスが思いのほかあっさり同居に同意してくれたのもある。もっと渋ったり嫌そうな顔をされる覚悟をしていたのだ。
結婚後、一年九ヶ月もの間別居していたとは思えないほど、二人の同居生活はスムーズに始まったかに見えた。が、お互い両手に抱えきれないほどの役目を負っている身。易々と蜜月を過ごすことはできなかった。
リオノーラが王都へ来て今日で五日目になる。
町娘のように頭に三角巾をつけ、前あきのない丸首シャツにボディスを合わせ、ごわついた生地のロングスカートの上からエプロンをつけた彼女は勝手口でしゃがみ込み、野菜の皮むきをしていた。
彼女はティンエルジュ侯爵家の歴とした令嬢だが、万年人手不足の田舎で育った影響で、ひと通りの家事ができる。ティンエルジュ侯爵家は自領の警護に力を入れていて私設兵の数は多いのだが、その分使用人などの内勤者の数は限られている。そのため、リオノーラは幼い頃から食事作りや洗濯、掃除を使用人に交じってやっていたのだ。アレスからの菓子の差し入れを、手づかみで食べていたのも洗い物を少しでも減らすためだった。
今夜のメニューは根菜のシチューとえん麦を使った魚フライ、それに買い置きしてある塩パンをつける予定だ。アレスが暮らす将校用の寮は西の帝国の建築士が設計した最新鋭の二階建て住宅で、加熱機器や給湯設備が備わっている。わざわざ火起こしをしなくても加熱調理ができ、湯も使えた。
設備が整っていることもあり、もともと家事能力があったリオノーラは問題なく、炊事ができていた。
リオノーラは芋の皮むきが終わると「よいしょ」と立ち上がり、つま先立ちになって扉の窓から室内を覗く。中にはアレスともう一人、若い男の姿が見えた。
ツンツンした短い金髪に青い目をした体格の良い青年だ。美形ではないが、目がくりっと大きく愛嬌のある顔立ちをしている。気安く声をかけやすい雰囲気で、いかにもモテそうだ。扉越しに金髪の男の声が聞こえてきた。
「ひどい! アレスさん! オレに全部仕事を押し付けて!」
「はいはい」
「有休を取るなとは言いませんけど、いきなり一ヶ月間も取るなんてひどいです! 鬼! 悪魔!」
「だから書類仕事だけでも手伝っているだろうが。大きな声を出すな、ドグラ」
アレスの部下、ドグラ。王都でも有名な大商家ティッツァーノ商会の次男坊だが、娼婦に入れ込み、家の金を使い込んだことで両親や兄の逆鱗に触れ、王立騎士団の中でももっとも業務がきつい特務師団へ投げ込まれたのだと、アレスが呆れたように言っていた。
ドグラは他の騎士達同様、灰色の詰襟服を着ているが、職は騎士ではなく『骨拾い』。他国では従者と呼ばれることが多いが、主に騎士の荷物持ちや、騎士が討ち取った大将首の処理を行う。『骨拾い』は王立騎士団特有の仕事で、名は大将首を拾うことに由来する。
ドグラは宗西戦争時、アレスとペアを組んでいた。アレスが討ち取った百以上の敵将校や王族の首は彼が処理して運んだのだそう。
「あ、リオノーラ様、お疲れ様っす!」
「ドグラ様、お疲れ様です。今、お茶を淹れますね」
「すんません!」
部屋に入ってきたリオノーラに気がついたドグラが、人のよさそうな笑みを浮かべながら、ぺこぺこと頭を下げる。
幼少期に母親を家令に連れ去られた一件から、リオノーラはあまり男性が得意ではないが、なぜかこのドグラのことはそんなに嫌でもないなと思っている。彼には商家出身らしい人懐っこさがあるからかもしれない。リオノーラは領主である父親の仕事を手伝っている絡みで、商人とは頻繁にやりとりしていた。商人に馴染みがあるのだ。
「いや~~。ティンエルジュ侯爵家のリオノーラ様がこんなにもお可愛らしい方だったとは! そりゃあアレスさんも宗西戦争で鬼神のごとく剣を振るうわけですよ!」
紅茶が入ったカップを出すリオノーラに、へっへっと笑いながら揉み手をし、世辞を言うその姿は商人のそれにしか見えない。
ドグラの軽口に、アレスが眉間に皺を寄せる。
「ドグラ、用が済んだのなら帰れ」
「ひどい! アレスさん!」
「ドグラ様、良かったらお夕食を食べていってくださいね」
アレスはドグラにすげなく「帰れ」と言ったが、リオノーラは自分達の都合で仕事を押し付けてしまった彼を不憫に思い、せめてもと夕食に誘った。
「お、いいんですか? 悪いなァ~、ははっ!」
アレスと同居を始めて早五日。夕刻になるとドグラを始め、毎日誰かしらが訪ねてくる。有給休暇中のはずのアレスが休めていないことは気がかりだが、自分の知らない彼のことを訪問者から聞くことができるので、これはこれでいいなとリオノーラは思っている。
それに、他にも利点はある。アレスはあまり食べない。シチューやスープを作っても余ってしまうので、たくさん食べてくれる王立騎士団関係者の来訪は正直ありがたいのだ。
「アレスさん、いいなぁ……。可愛くて料理が上手い奥さんがいて。リオノーラ様もすごいですよねぇ、大貴族家のお嬢様なのに炊事が得意だなんて」
「ふふっ、ドグラ様、たくさん召し上がってくださいね」
がつがつと食べ、シチューの皿をあっという間に空にするドグラに対し、アレスはお上品に少しずつスプーンで掬い、口へ運んでいく。彼の食べ方はお手本のように綺麗だが、食が進んでいないのは明らかだ。
賑やかに食事を終え、書類を抱えたドグラは元気良く帰っていった。
「毎日毎日すみません……」
ドグラという嵐が過ぎ去った後のダイニングを片付けながら、アレスが俯く。食事の後片付けは彼の役目だ。
「気にしないでください。楽しいですから!」
ティンエルジュの屋敷とはまったく違う生活。リオノーラは約二十年間、自領からほとんど出たことがない。王都へ来たことも年に数えるほどしかなかった。
二階建ての戸建で、アレスと二人きりで過ごす生活は小さな驚きの連続だった。二人で話し合い、家事を分担しながら暮らす日々はささやかながらとても楽しい。
アレスはとても手先が器用で、炊事場が使いやすくなるよう、調味料を置くための収納棚を作ってくれたり、調理道具をぶら下げられるようなフックを壁に取り付けてくれた。
今のところ本来の目的である看病らしい看病は何もしていないので、自分がここにいる意味はあるのだろうかと思わなくもなかったが、アレスと一緒にいられるだけで今までにないほど心が浮かれた。
「せっかく王都へいらしたのですから、色々なところへご案内できれば良かったのですが……」
「そ、そんなの、大丈夫です! それに私はアレス様と一緒にいられるだけで楽しいので、充分です!」
心からの言葉だった。この五日間、同じ家で共に寝起きして、同じものを食べる。二人の間を隔てるものは何もない。手を伸ばせば触れ合える距離にアレスがいると思うだけで、リオノーラは嬉しかったのだ。
結婚前の気安い幼馴染の関係に戻れたような気がする。
「そうですか。来週になれば、仕事も落ち着くと思います。王都をご案内しますので、行きたいところやしたいことがあったら遠慮なく仰ってくださいね」
隣でふっと柔らかく微笑むアレスに、頬が熱くなり、胸の奥が痛む。いや、こんなはずではなかったのだ。リオノーラはもっと、自分が労して彼の世話をするつもりでいた。
「……アレス様、体調は大丈夫ですか? ご気分は?」
「? 別に普通ですが……」
この五日間、毎日繰り返している会話。実際、アレスは食は細いものの、そこそこ元気そうにしている。ティンエルジュの屋敷に来る時はもっと青い顔をしていたのにと拍子抜けしそうになるが、アレスは騎士である。顔に出さないようにしているだけかもしれないと思い直した。
夜になり、一人きりのベッドの中で、リオノーラは天井を見つめていた。
彼らが住む王立騎士団の寮は二階建ての戸建住居。一階のダイニングに隣接した寝室はリオノーラが一人で使っており、アレスは二階の書斎にある簡易ベッドで寝ている。
同居初日、当たり前のように寝室を分けようとするアレスに、リオノーラは共寝を申し出たのだが、「ベッドが狭いので別々に寝ましょう」とやんわり断られてしまったのだ。
同居を始めてから迎える五回目の夜。
今夜もリオノーラは一人でベッドに横になっている。別にベッドは狭くない。本来家族用である住居に備えつけられたベッドは、大人が二人寝転べるぐらいの余裕はある。
リオノーラは天井を睨みつける。彼女は二つの目的があってここへ来た。
ひとつは戦神の薬依存になっているであろうアレスの看病。
もうひとつは離縁回避のための性交渉だ。
リオノーラはこの五日間、ずっと考えていた。どうすればアレスと性交できるのかと。
このまま何もないと、父に強制離縁させられてしまう。
当初は、アレスによる無理やりとも言える結婚だった。
しかし今、リオノーラは離縁するのは嫌だと思っている。なぜ嫌なのかは上手く説明できない。とにかくこのままアレスと縁が切れてしまうのは辛いのだ。五日間という短い期間でも一緒に暮らし、情が生まれているのかもしれない。
自分から「性的なことがしたい」と言えればどれだけ楽だろうかと、リオノーラは布団を被って唸る。しかし、もしもアレスにその気がない場合を考えると、言えなかった。
頭から布団を被ったまま、自分の胸や腰まわりに手を這わせる。仰向けになった胸にはあまり膨らみを感じないのに、いつもドレスに隠れている下半身はむっちりしていた。この残酷な事実に気が重くなる。
買い物の帰り、たまにアレスの勤め先である王立騎士団の詰所の前を通るが、そこを出入りする南方人らしい女性騎士は、大層な美人だった。
すらりと伸びた長い手足、女性らしい曲線を描く肢体、艶やかで癖のない長い黒髪にリオノーラは嫉妬した。アレスはあんな南方美女を毎日のように目にしていたのだ。自分の相手なんかするはずもないと、卑屈になる。
リオノーラは甘いものが好きだが、実家では節制させられていた。淑女のドレスを着るには細い腰まわりが必須で、痩せていることが貴族のつとめだったからだ。
しかし、どれだけ頑張ってコルセットに入る痩せた身体を維持したところで、手足の短さはどうにもならない。下半身も、骨盤が大きいのか、尻が張り出している。医者は安産型だと褒めたが、そもそも自分に出産する機会がやってくるのだろうかと疑問に思う。
アレスが自分に性的な欲求なぞ覚えることがあるのだろうか。
休日のたびに彼はティンエルジュの屋敷までわざわざ来てくれていたが、あれは真面目な彼が婿としての義務を果たしていただけで、惚れた腫れたは関係なかったのではないか。
もぞもぞと寝返りを打つ。
このままではいけない。でも、自分から誘う勇気も湧かない。
明日はレイラが来てくれる予定になっている。彼女に相談しようと、リオノーラはぎゅっと瞼を閉じた。
「はあ? まだ婿殿と寝ていないのか?」
翌日の昼、レイラはトランクに書類を山ほど詰め込んでやってきた。
アレスは留守にしている。王城でどうしても外せない用事があると言い、早朝から騎士服を着て出掛けていったのだ。
「あれから何日経ったと思っている」
「う……」
「五歳の子どもでも口づけぐらいはしているぞ?」
その五歳の時にリオノーラはアレスと出会ったが、その時ももちろん口づけはしていない。手を繋いだことぐらいはあったかもしれないが。
「だいたいなんで別々の部屋で寝ているんだ? お前らやる気ないだろ」
「う、うるさいわね! 色々あるのよ!」
この六日間、一緒に買い物をしたり家事をした。そもそもこんな長い時間、二人で一緒にいたことはなかった。特に結婚してからは鉄格子越しにしか会っていない。両者とも、一緒にいられるだけでいっぱいいっぱい。二人にとって、今が嬉し恥ずかし新婚期間なのである。
「こういうのは時間が経てば経つほど、しにくくなるぞ?」
「ううっ……」
「お互いの存在に慣れれば慣れるほど、興奮しなくなる」
「だって、だって」
「我が家特製の媚薬をやっただろ? 今夜にでも飲んで婿殿の身体に跨りに行け」
「でも……! アレス様が私に興奮しなかったら……!」
リオノーラから見て、アレスに性欲があるとは思えないのだ。アレスはその辺の女性よりずっと綺麗な顔をしていて、あまり男性的なものを感じないのもあるかもしれない。
すらりと背は高いが、他の騎士みたいに筋骨隆々というわけでもなく、細身の体躯。髪も肌も、騎士とは思えないほど綺麗だ。
自分よりも遥かに見目麗しい存在に、リオノーラは尻込みしていた。
「……あまりもたもたしている時間はないぞ、リオ。お館様は、遅くとも三ヶ月後にはティンエルジュへ戻れと言っていた」
レイラが胸の前で腕を組み、ふーっと息を吐き出す。
「さ、三ヶ月……!?」
短すぎると、リオノーラは驚いた。
「この三ヶ月で絶対に身籠もるぐらいの勢いでヤらないと、まぁ離縁だろうな」
ほら、とレイラが小瓶と錠剤をリオノーラへ差し出す。どちらもレイラの実家の薬畑でとれる薬草をもとに作られた、まぐわうための道具だ。彼女はしぶしぶ、それらを受け取った。本当は道具なんて使いたくないが、できなかったら困るのでそっと懐に入れた。
下手に先走ってアレスに嫌われたらどうしようと、リオノーラは泣きたい気持ちでいっぱいになる。でも、性交できなければ二人はお別れだ。それだけは絶対に避けたい。
「ちゃんとトランクの決裁書類も見ておくんだぞ? 週明けに回収に来る」
「うん……」
「リオ、性交渉ぐらい誰でもやっている。特別なものだと思うな」
レイラにとって、アレスは父親違いとはいえ弟だ。それなのによくこんなにあけすけに言えるなあとリオノーラは思ったが、宗国人と南方人とではまた肉親に対する感覚が違うのかもしれない。
「……はぁ」
できればまだ、今の淡くて幸せな関係に浸っていたい。無理に一線を越えてしまったら、何かが駄目になってしまいそうな気がする。
リオノーラは答える代わりに、鼻をスンッと鳴らした。
「すごい量の書類ですね……」
朝から王城へ行っていたアレスは、夕刻に帰ってきた。書類の山に埋もれているリオノーラを見て、ぱちぱちと瞬きする。
その書類の山の中で、リオノーラは半べそをかいていた。
「これ、来週までに全部決裁しなくちゃいけなくて」
「大変ですね、何かお手伝いできることがあったら仰ってください」
そう言いながら、アレスが倒れそうになっていた書類の山の形を慣れた様子でぽんぽんと整える。リオノーラは瞬時に思った、この人は書類整理に長けた人だろうと。
「アレス様、助けてください……!」
「ああ、泣かなくても大丈夫ですよ。手伝います」
相変わらずアレスは淡々としている。表情は乏しいし口数も少ないが、書類の内容を即座に理解し、的確に仕分けている。言い方は悪いが、これは使えるとリオノーラは思った。
「あ、ここ、数字が違いますね」
「ええっ、どこですか? あ、本当……」
「他のものも間違っているといけないので、算盤を弾いて確認します」
「ありがとうございます!」
アレスは数字に強かった。山のように積まれた書類をすごい勢いで確認していく。聞けば、王立商工会議所簿記検定資格一級を持っているらしい。難関と言われる国家資格のひとつである。
「騎士なのに、簿記なんて必要なんですか?」
「特務師団では必要ですね。よその師団や部隊のように書類仕事をする事務官がいないので……」
特務師団には書類仕事をする事務官がいない。どのような組織でも会計報告は必要なはずで、その専任者がいないという事実だけでもリオノーラは震えあがった。
簿記資格を持つアレスが、有給休暇中でもまめに詰所へ顔を出しにいくはずである。
「それに……」
「それに?」
「簿記資格があれば、あなたの仕事を手伝えるかと思いまして」
いつもと同じ抑揚のない口調で、アレスはなんでもないことのように言う。
一方で、リオノーラは彼の健気さに悶絶していた。闇雲に「君を守る」と言われるよりも、現在進行形で困っていることを助けられたほうが遥かに胸に刺さる。
「あ、ありがとう、ございます」
かき消えてしまいそうな声量でリオノーラはもう一度お礼を言った。
言いながら焦る。こんなに意識していては、とてもではないがアレスの身体に跨れないと。
ふと顔を上げると、向かいに座る彼の真剣な面差しが目に入る。少し伸びた真っ直ぐな前髪を耳にかけ、算盤を弾いている。近くで見ると睫毛が長いことが分かる。せめて彼がこんなに素敵な外見をしていなければ、もう少し気軽に攻めることができたのにと、リオノーラは心の中でぐぬぬと唸った。
夜。シャワーを浴びたリオノーラは、薄紫色をした小瓶を握りしめていた。レイラから貰った媚薬である。鋼鉄のような不感症でもアラ不思議、息を吹きかけられただけで身悶えてしまうような、すごい薬らしい。
アレスの前で痴態を晒したくないが、背に腹は代えられない。リオノーラは今年で二十一歳になるが、自慰すらほとんどしたことないような生粋の処女だった。
ためらいながらも脚を開き、錠剤型のローションを脚の間の隙間に押し込んでから、彼女はきゅぽんと音を立てて瓶のフタを開け、中身をぐっと飲み干した。
薄紫色の液体はややとろみがあり、不自然な甘みと、苦味をむりやり誤魔化したような嫌な後味がする。それをなんとか喉の奥へと流し込んだ。
「……美味しくない」
はあと息をつくと同時に、今までしていたシャワーの水音がぴたりとやむ。リオノーラは丸めていた背をピンと真っ直ぐ伸ばした。
王立騎士団が寮として提供しているこの二階建て住宅には給湯設備がある。個人宅でも湯が出るシャワーが使えた。今、アレスはそのシャワーを浴びていた。彼がシャワー室から出てきたところを、一階の自分のベッドへ引きずり込もうという算段だ。
(い、いよいよだわ……!)
リオノーラの胸が早鐘を打つ。
レイラから渡された前合わせの白い夜着の下には何も身につけていない。この白い夜着は初夜の日に着る特別なものらしい。脚の間に挿れた錠剤型ローションが体温で蕩け始めていて、太腿が少し濡れている。
がちゃりと音を立て、シャワー室に続く扉が開く。
アレスは乾いた布で濡れた髪を拭いながら出てきた。あたりに石鹸の清潔そうな匂いが漂う。彼は上下揃いのゆったりとした綿のシャツとズボンを身に着けていた。
「リオノーラ、そんな薄着をしていたら風邪をひきますよ?」
頭上から降る、至って落ち着いた正論。
リオノーラはアレスの淡々とした物言いに怖気づきそうになったが、拳をぎゅっと握りしめ、なんとか耐えた。頭の奥が痛いぐらい熱くなる。
「アレス様……」
「はい?」
「お願いが、あります!」
(なんだか身体がぽかぽかする……)
リオノーラは身体の奥底から湧き出てくるような熱を感じていた。媚薬の効果だろうか。熱を感じるだけでなく、口の中や脚の間など、粘膜が異様にむずむずする。
リオノーラは背後に隠していた小瓶を掲げて見せた。
「私はこれを飲みました」
「これ? ……ああ、媚薬ですか。確か解毒剤があったはずなので、少し待ってもらえますか?」
いやに落ち着きすぎているアレスの言葉に、リオノーラはバッと顔を上げる。どこの世界に、媚薬を飲んだと自己申告した女に解毒剤を処方する男がいるのだ。
信じられない。
ここは媚薬の熱が治まるまでまぐわうのが世界の常識だろうとリオノーラは歯噛みする。
すでに媚薬の効果が脳にまで回ってしまったリオノーラの思考は、普通ではなくなっていた。
「い、嫌です! 解毒剤なんか飲みません! 私はアレス様とまぐわいたくて媚薬を飲みました!」
がしりとアレスの腕を掴む。身体の火照りを意識すると一層粘膜の疼きが増した。早くこの疼きをなんとかしてほしくて、彼女は恥をかなぐり捨てて目の前の男に縋った。
直接的すぎるリオノーラの言葉に、普段は人一倍冷静なアレスの瞳が揺れる。
「いやでも、これをひと瓶飲んだのですよね? だとすると、解毒剤でないと難しいかと……」
「嫌です……っ! 解毒剤じゃなくて、アレス様になんとかしてもらいたいんです!」
「しかし……」
「ううっ、先っぽだけでもいいのでお願いします……!」
しつこいナンパ男のように、リオノーラは食い下がる。
こんなことになるなら、もっと早くアレスと一緒に暮らすなり、関係を深める努力をするなりしておけば良かった。
しかしもう、二人に残された期間は三ヶ月を切っている。最低でも身体の関係ぐらいは持っておかないと離縁待ったなしだ。
「リオノーラ、落ち着いてください。……まぁ、まずはベッドへ行きましょうか」
「性交してくれるんですか!?」
「い……ええ、まあ」
リオノーラの真っ直ぐすぎる物言いに、アレスが頬を引き攣らせる。ムードはゼロどころかマイナスだが、とりあえず性交する流れにはなったらしい。
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