鏡の城の魔導士 ~魔法が効かない少女と時空の謎~

宵町あかり

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第4話 観測者の条件

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第4話 観測者の条件

 朝の光が鏡の城の廊下を複雑に反射していた。無数の鏡片が壁面を覆い、歩くたびに自分の姿が歪んで増殖する。どこか遠くで水が滴るような音が響いているが、この階に水場はないはずだった。アイリス・ノルヴェインは、ジークに案内された客室のベッドから身を起こし、窓の外を眺めた。

 昨夜、兄の死について少しだけ聞くことができた。研究中の事故。時空の歪みに巻き込まれたという。しかし、詳細はまだ教えてもらえなかった。

(兄さん、本当にただの事故だったの?)

 懐中時計を握りしめる。金属の冷たさが掌に伝わってくる。針は相変わらず止まったままだ。

 コンコン、と控えめなノックの音。扉越しにも、かすかに焦げた羊皮紙のような匂いが漂ってきた。

「アイリス、起きているか?」

 ジークの声だった。低く落ち着いた響きが、石壁に反響して奇妙な二重音を作る。

「はい、起きてます」

 扉を開けると、いつもの黒いローブ姿のジークがいた。その隣には、銀金混じりの巻き髪を揺らす少女が立っている。朝の光を受けて、髪がまるで生きているように煌めいていた。

「おはよう、アイリス。紹介しよう。レイナ・ミストリュウ。魔導学院の主席だ」

 レイナと呼ばれた少女は、ライラック色の瞳を輝かせてアイリスに近づいた。彼女が動くたび、ローブから甘い薬草の香りが漂う。

「わあ! 本当だ! 魔力が全然感じられない!」

 いきなり手を握られ、アイリスは戸惑った。レイナの手は、魔力を扱う者特有の微かな熱を帯びていた。

「えっと……」

「すごい、すごい! こんな体質、文献でしか読んだことなかったのに!」

 レイナは興奮した様子でアイリスの周りをぐるぐると回り始めた。足音が石床に規則的なリズムを刻む。

「ねえねえ、実験させて! どこまで魔法が効かないのか試してみたい!」

「実験……?」

 アイリスは不安そうにジークを見た。廊下の空気が、なぜか重く感じられる。まるで見えない何かに見つめられているような圧迫感があった。

 ジークは小さくため息をついた。

「レイナ、落ち着け。彼女を怖がらせるな」

「だって、ジーク! 完全無反応体質なんて、研究者として見逃せないじゃない!」

 レイナはくるりと振り返り、白銀の制服風ローブを翻した。

「魔導って最高にカッコいいでしょ? それが全く通じない存在がいるなんて、逆にすごくない?」

 その無邪気な笑顔に、アイリスは少し緊張が解けた。

(この人、悪い人じゃなさそう)

 不安は胸の奥で小さな渦を巻いていたが、レイナの純粋な好奇心が、その渦を少しだけ和らげてくれた。

「あの、少しくらいなら……」

「本当!? やった!」

 レイナは飛び跳ねるように喜んだ。しかし、すぐに真剣な表情になる。

「でも、その前に」

 レイナは杖を取り出し、複雑な印を結んだ。

「第五級探査術式——展開」

 青白い光の糸が部屋中に広がり、網のような模様を描いた。光が通る場所から、かすかに硫黄の匂いが立ち上る。その中心にアイリスが立つと——

 バチッ、と音を立てて光が弾けた。火花が散るような鋭い音が、耳の奥で響いた。

「やっぱり!」

 レイナの瞳が研究者の輝きを帯びた。

「術式に触れた瞬間、消滅してる。吸収じゃなくて、完全な無効化……」

「すみません、また何か壊しちゃいました?」

 アイリスが申し訳なさそうに肩を縮めると、レイナは首を激しく振った。

「壊したんじゃない! これは……もっとすごいことよ!」

 レイナは興奮のあまり、アイリスの両手を握った。

「あなた、魔法を『拒絶』してるんじゃなくて、魔法の方があなたを『認識できない』のよ!」

「認識……できない?」

「そう! まるで、この世界の魔法法則から除外されてるみたいに!」

 ジークが口を挟んだ。

「レイナ、あまり専門的な話は——」

「待って、ジーク!」

 レイナは振り返り、真剣な顔でジークを見つめた。

「この現象、リオさんの研究と関係があるんじゃない?」

 その名前に、ジークの表情が固まった。アイリスも息を飲む。口の中が、急に金属の味がした。

「兄の研究と?」

「ええ。リオさんは時空の『観測者』について研究してたって聞いたわ」

 レイナは考え込むように顎に手を当てた。

「もしかして、アイリスさんの体質も——」


   * * *


 その時、廊下から重い足音が響いてきた。金属の鎧が石床を叩く、規則的で威圧的な音。

「ここか!」

 扉が勢いよく開かれ、魔導防具に身を包んだ青年が飛び込んできた。焦げ茶の短髪に、赤銅色の鋭い瞳。槍型の魔具を構えている。防具から立ち上る魔力の波動が、空気を震わせた。

「貴様が、結界を無断突破した侵入者か!」

 槍の切っ先がアイリスに向けられた。研ぎ澄まされた刃が、朝の光を不吉に反射する。

「ひっ!」

 アイリスが怯えて後ずさる。ジークがすかさず前に出た。

「バルド、待て。彼女は——」

「ジーク様も騙されているのですか!」

 バルドと呼ばれた青年は、険しい表情でアイリスを睨みつけた。

「この女、昨日から城の秩序を乱している! 防御結界を全て無効化するなど、まともな人間のすることではない!」

「ちょっと!」

 レイナが割って入った。

「いきなり何よ、バルド! アイリスさんは何も悪いことしてないでしょ!」

「レイナ様まで……」

 バルドは苦虫を噛み潰したような顔をした。

「この女の存在自体が脅威なのです。魔法が効かない人間など、管理できない危険因子に他なりません」

「す、すみません……」

 アイリスは震え声で謝った。恐怖が、冷たい蛇のように背筋を這い上がってくる。

「私、本当にただ兄のことを知りたくて……」

「黙れ!」

 バルドは槍を振り上げた。

「命令違反は処分対象だ!」

 槍から魔力が迸る。赤い光が刃を包み込み、破壊の術式が展開される。空気が焼ける音と共に、オゾンのような刺激臭が鼻を突いた。

 ジークが止めようとしたが、間に合わない。

 赤い光がアイリスに向かって一直線に飛んだ——

 そして、彼女に触れた瞬間、まるで蜃気楼のように消えてしまった。

「……あれ?」

 アイリスはきょとんとした顔で立っていた。髪の毛一本乱れていない。

「風が強いですね」

 その呑気な感想に、バルドは愕然とした。

「な、なぜだ!? 破壊術式が……」

「だから言ったでしょ」

 レイナが呆れたように肩をすくめた。

「アイリスさんには魔法が効かないの。あなたがどんなに頑張っても無駄よ」

 バルドの顔が真っ赤になった。屈辱と困惑が入り混じった表情で、槍を握る手が震えている。

「こ、こんなはずは……」

「バルド」

 ジークの冷たい声が響いた。

「城の客人に対する無礼な振る舞い、上層部に報告させてもらう」

「し、しかし!」

「それとも、君は私の判断を疑うのか?」

 上級魔導士の威圧に、バルドは息を飲んだ。

「……失礼しました」

 歯ぎしりしながら頭を下げる。しかし、アイリスを見る目には警戒心が消えていない。

(この女……普通じゃない。必ず何か企んでいるはずだ)

 バルドは踵を返して部屋を出ていった。その背中を見送りながら、レイナが口笛を吹いた。口笛の音が、妙に響いて聞こえる。

「相変わらず堅物ね、あの人」

「彼は職務に忠実なだけだ」

 ジークがフォローするが、その声に力はない。

 アイリスは申し訳なさそうに俯いた。

「また、騒ぎを起こしちゃった……」

 罪悪感が、胸の奥で黒い花を咲かせていた。

「気にすることはない」

 ジークは優しく言った。その口調に、アイリスは兄の面影を感じて胸が締め付けられた。

「それより、レイナの言った通り、君の体質を詳しく調べた方がいい」

「賛成!」

 レイナが手を叩いた。

「私の研究室なら、もっと精密な検査ができるわ!」

 三人は廊下を歩き始めた。途中、すれ違う研究員たちが皆、アイリスを珍しそうに見ていく。彼らの視線に、好奇心と恐れが入り混じっているのが分かった。

(昨日のことが、もう噂になってるのかな)

 アイリスは肩身が狭い思いで、ジークの後ろを歩いた。

 螺旋階段を上るたび、石壁に刻まれた古代文字が微かに発光し、まるで息をするように明滅していた。階段の中心には何もないはずなのに、時折、羽ばたきのような音が聞こえてくる。

 レイナの研究室は、城の東塔の最上階にあった。重い樫の扉からは、複数の薬品が混じり合った独特の匂いが漏れていた。扉を開けると、壁一面に魔法陣が描かれ、その線は脈動するように光を放っている。机の上には水晶玉や奇妙な装置が所狭しと並び、それぞれが微かな振動音を発していた。

「散らかっててごめんね」

 レイナは悪びれもせずに笑った。

「でも、ここなら色んな実験ができるの」

 部屋の中央に、人が一人立てるほどの魔法陣があった。足元の床が、微かに温かい。レイナはそこにアイリスを立たせる。

「じゃあ、始めるわね」

 杖を掲げ、レイナは詠唱を始めた。


   * * *


「——第一解析、魔力感応度測定」

 魔法陣が青く光り、アイリスを包み込む。光が触れた肌が、微かにぴりぴりとした——ような気がしたが、すぐに光は霧散した。

「予想通り、ゼロね」

 レイナは手元の羊皮紙にメモを取る。羽根ペンが紙を擦る音が、静寂の中で大きく響いた。

「次、第二解析、術式親和性検査」

 今度は緑の光。これも同じように消えた。消える瞬間、かすかに草の匂いがした。

「これもゼロ……」

 次々と術式を試していくレイナ。その度に、魔法陣の光は虚しく消えていく。部屋の温度が、実験のたびに微妙に変化しているのをアイリスは感じていた。

 十五分後、レイナは興奮した顔で振り返った。

「すごい! 全ての数値がゼロ! 完璧な無反応!」

「それって、いいことなんですか?」

 アイリスが不安そうに尋ねると、レイナは目を輝かせた。

「いいも悪いも、前代未聞よ! 普通、どんな人間でも多少の魔力は持ってるの。でも、あなたは——」

 レイナは言葉を切り、真剣な表情になった。

「まるで、この世界の魔法法則の『外側』にいるみたい」

「外側……」

 その言葉を聞いた瞬間、アイリスの中で何かが共鳴した。まるで、ずっと忘れていた記憶が揺り起こされるような感覚。

 ジークが口を開いた。

「レイナ、それは古代文献の——」

「ええ、『観測者』の記述と一致するわ」

 レイナは本棚から分厚い本を取り出した。古い革装丁から、カビと時間の匂いが漂ってくる。

「『魔導を超越せし者、世界の外より現象を観測す。彼の者に術は届かず、理は及ばず』」

 アイリスは首を傾げた。

「観測者って、何ですか?」

「詳しくは分からないの」

 レイナは本を閉じた。埃が舞い上がり、光の筋の中で踊る。

「でも、リオさんはこれを研究してた。そして、あなたがその『観測者』かもしれない」

 静寂が研究室を包んだ。どこかで、時計の針が進む音だけが響いている——いや、それは幻聴だった。この部屋に時計はない。

 アイリスは、胸の懐中時計を握りしめた。兄は、自分のことを知っていたのだろうか。この体質の意味を。

「でも、私はただの村娘です」

 小さな声で呟く。

「特別な力なんて、何も……」

「それが違うのよ!」

 レイナが身を乗り出した。

「さっきバルドの攻撃を受けても無傷だったでしょ? あれ、普通なら大怪我じゃ済まない威力だったの」

「え……?」

「つまり、あなたは知らないうちに、とんでもない防御力を持ってるってこと!」

 レイナの説明に、アイリスは困惑した。自分ではただ風を感じただけなのに。

 その時、研究室の扉が静かに開いた。扉が開く前から、冬の朝のような冷気が忍び込んできていた。

「失礼します」

 白銀の髪を揺らしながら入ってきたのは、クラティア・ラルゼンだった。淡い青灰の瞳が、まっすぐにアイリスを見つめる。その視線には、時間を超越したような深みがあった。

「噂の『観測者』候補に会いに来ました」

 その神秘的な微笑みに、アイリスは何故か背筋が寒くなった。まるで、自分の全てを見透かされているような感覚。

「初めまして、アイリス・ノルヴェイン」

 クラティアは優雅に一礼した。彼女が動くたび、かすかに鈴のような音が響く——装身具の音ではない、もっと不思議な音だった。

「私はクラティア・ラルゼン。この城の管理者です」

「管理者……」

 ジークが前に出た。

「クラティア、彼女はまだ——」

「分かっています、ジーク」

 クラティアは手を挙げて制した。

「ただ、確認したいことがあって」

 そう言うと、クラティアは懐から小さな鏡を取り出した。手のひらに収まるほどの、銀の縁取りがされた古い鏡。表面は曇っているのに、なぜか深い奥行きを感じさせる。

「アイリスさん、これを持ってみてください」

 差し出された鏡を、アイリスは恐る恐る受け取った。

 瞬間——

 鏡の表面が激しく波打った。まるで水面のように揺れ、映る景色が歪んでいく。鏡は氷のように冷たく、持った瞬間から指先が痺れ始めた。

「これは……!」

 クラティアの瞳に、確信の光が宿った。

「やはり、あなたは『観測者』の資質を持っている」

「ど、どういうことですか?」

 慌てて鏡を返そうとするアイリスを、クラティアは優しく制した。

「その鏡は、持ち主の『観測力』に反応します。普通の人が持っても、ただの鏡。でも、あなたが持つと——」

 鏡の中に、奇妙な光景が映り始めた。

 城の廊下。しかし、どこか違う。壁の模様が逆になっていたり、存在しないはずの扉があったり。空気の密度さえ、違って見える。

「これは、別の可能性の城の姿」

 クラティアが静かに説明する。

「観測者は、一つの現実だけでなく、複数の可能性を同時に認識できる」

 アイリスは鏡から目が離せなかった。映像の中で、見知らぬ人影が歩いている。いや、よく見ると——

「兄さん!?」

 思わず叫んでしまった。確かに、一瞬だけリオの姿が見えた気がした。

 しかし、すぐに映像は霧のように消えてしまった。

「今のは……」

「可能性の残滓かもしれません」

 クラティアは曖昧に微笑んだ。

「観測は、記録とは限らない。時に、あり得たかもしれない未来や、失われた過去を映すこともある」

 その抽象的な説明に、レイナが眉をひそめた。

「クラティアさん、もっと分かりやすく——」

 突然、城全体が揺れた。

 ゴゴゴ、という地鳴りのような音が響く。石壁から細かい砂が落ち、空気中で不自然な渦を巻いた。

「な、何!?」

 レイナが杖を構える。ジークも臨戦態勢を取った。

 しかし、クラティアだけは落ち着いていた。

「来たようですね」

「来た?」

 アイリスが尋ねた瞬間、研究室の壁が歪み始めた。


 空間そのものが捻じれ、裂け目が生じる。その向こうから、禍々しい気配が漏れ出してきた。腐敗と時間の匂いが、裂け目から流れ込んでくる。

「時空の歪み……!」

 ジークが青ざめた。

「まさか、また——」

 裂け目から、何かが這い出してきた。

 それは、人の形をしていたが、人ではなかった。体の半分が透けていて、もう半分は黒い影のようになっている。顔があるべき場所には、ただ虚ろな穴が開いていた。這い出す音は、濡れた布を引きずるような不快な響きだった。

「時空の迷い子」

 クラティアが呟いた。

「城の歪みに囚われた、哀れな存在」

 化け物はゆらゆらと動き、アイリスに向かって手を伸ばしてきた。その動きは、まるで溺れる者が助けを求めるかのようで、見ていて胸が痛くなる。

「アイリス、下がれ!」

 ジークが魔法陣を展開する。青い光の槍が化け物に向かって放たれた。

 しかし、槍は化け物の体をすり抜けてしまった。

「物理攻撃が効かない!?」

「私に任せて!」

 レイナが前に出た。

「精密魔導制御——位相固定術式!」

 複雑な魔法陣が化け物の周りに展開される。一瞬、化け物の動きが止まった。

 だが、次の瞬間には術式を破って再び動き出した。

「嘘でしょ!?」

 化け物の手が、アイリスに届こうとしていた。

 その時だった。

 アイリスの体が、ほのかに光を放った。

 化け物が彼女に触れた瞬間——

 ジュッ、という音と共に、化け物の手が消滅した。焼けた肉のような匂いが一瞬漂い、すぐに消えた。

「え……?」

 アイリスは自分の体を見下ろした。特に何も感じない。ただ、心の奥で何かが優しく脈打っているような感覚があった。

 しかし、化け物は苦しむように身をよじり、やがて完全に消えてしまった。最後に、安堵のようなため息が聞こえた気がした。

 静寂が戻った研究室で、クラティアが満足そうに頷いた。

「やはり、観測者の力ですね」

「今のは……」

「時空の歪みに囚われた存在は、正しい『観測』によって浄化される」

 クラティアはアイリスに近づいた。

「あなたは無意識に、その存在を『あるべき姿』に戻したのです」

 アイリスは混乱していた。自分は何もしていない。ただ、そこに立っていただけなのに。

 混乱は、渦巻く霧のように頭の中を満たしていた。

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 クラティアは優しく微笑んだ。

「観測者の力は、意識して使うものではない。ただ『在る』ことで、世界に影響を与える」

 ジークが口を開いた。

「クラティア、なぜ今、時空の歪みが?」

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「誰かが、城の奥で『実験』をしているからでしょう」

「実験?」

「ええ。リオ氏がしていたような、危険な実験を」

 その言葉に、アイリスの心臓が跳ねた。

「兄のような実験を、誰かが?」

「恐らく。そして、その人物は——」

 クラティアは言葉を切った。視線を廊下に向ける。

 コツ、コツ、と足音が近づいてきた。その足音は、なぜか二つの音が微妙にずれて聞こえる。まるで、過去と現在の足音が重なっているかのように。

 やがて、扉が開き、見知らぬ男が入ってきた。

 白髪のポニーテール。片方が銀、もう片方が黒い、不思議な瞳。多層構造の魔導装具に身を包んでいる。彼が纏う空気は、時間の流れから少しだけずれているように感じられた。

「おや、皆さんお揃いで」

 男は優雅に一礼した。声には、複数の音程が混じっているような奇妙な響きがあった。

「初めまして、アイリス・ノルヴェイン嬢。私はフォルクス・ノーグラム」

 その名前を聞いた瞬間、ジークの顔が青ざめた。

「フォルクス……!」

「久しぶりだね、ジーク君」

 フォルクスは微笑んだ。その笑顔には、底知れない何かが潜んでいる。

「君も成長したようで、何よりだ」

「なぜ、ここに……」

「なぜ? それは簡単だよ」

 フォルクスの視線が、アイリスに向けられた。

「『観測者』に会いに来たのさ」

 銀と黒の瞳が、交互に輝いた。見つめられていると、時間感覚が歪んでくるような錯覚に陥る。

「君が現れたことで、全ての計画が動き出す。リオ君が残した、最後のピースとしてね」

 アイリスは息を飲んだ。喉の奥が、砂を飲み込んだように乾いている。

「兄を知ってるんですか?」

「ああ、よく知っているとも」

 フォルクスは懐から何かを取り出した。

 それは、アイリスの持つものとよく似た懐中時計だった。ただし、こちらは針が動いている。

「彼とは、同じ夢を見ていた仲でね」

 カチリ、と時計の音が響く。その音は、なぜか心臓の鼓動と同期しているように聞こえた。

「未来とは、過去が反射した夢さ。そして君は、その夢を現実にする鍵」

 アイリスには、その言葉の意味が分からなかった。しかし、胸の奥で何かが警鐘を鳴らしている。

(この人は、危険だ)

 本能的にそう感じた。恐怖が、氷の蝶となって背中を這い回る。

 ジークが前に立ちはだかった。

「フォルクス、彼女に何をするつもりだ」

「何を? いやいや、私は何もしないよ」

 フォルクスは肩をすくめた。

「ただ、観察させてもらうだけさ。観測者が、どのように世界を変えていくのかをね」

 そう言うと、フォルクスは踵を返した。

「今日はご挨拶まで。いずれ、ゆっくりと話をしよう」

 扉に手をかけ、振り返る。

「ああ、そうそう。アイリス嬢」

 銀と黒の瞳が、妖しく光った。

「君の兄は、最期まで君のことを案じていたよ。『妹を巻き込みたくない』とね」

 その言葉を残し、フォルクスは去っていった。彼が去った後も、時間がずれたような違和感が、しばらく部屋に残っていた。

 重い沈黙が研究室を包んだ。

 アイリスは、震える手で懐中時計を握りしめていた。

(兄さん……)

 真実は、まだ遠い。しかし、一つだけ分かったことがある。

 自分は、ただの村娘ではない。

 観測者——世界の理の外側に立つ存在。

 その運命を背負って、アイリスは立っていた。


   * * *



 夕暮れ時、アイリスは城の中庭にいた。

 一人で考え事をしたくて、ジークたちには部屋で休むと伝えて抜け出してきた。

 石畳の隙間から生える苔が、夕日を受けて金色に輝いている。どこか遠くで、存在しないはずの波の音が聞こえていた——この城に海はない。

 中庭には、不思議な花が咲いていた。花弁が鏡のように光を反射し、見る角度によって色が変わる。近づくと、かすかに金属的な香りがした。

「綺麗……」

 思わず手を伸ばした時、背後から声がかかった。

「それは『鏡花』といいます」

 振り返ると、クラティアが立っていた。夕日を受けて、白銀の髪が赤く染まっている。まるで、炎と氷が同時に存在しているかのような美しさだった。

「この城にしか咲かない、特別な花です」

「特別……」

 アイリスは花を見つめた。花弁に触れると、絹のような滑らかさと、微かな温もりを感じた。

「私も、特別なんでしょうか」

「さあ、どうでしょう」

 クラティアは曖昧に微笑んだ。

「特別であることが、必ずしも幸せとは限りません」

 その言葉に、アイリスは俯いた。

「私、怖いんです」

 小さな声で打ち明ける。

「観測者なんて、そんな大それたもの、私には……」

 不安は、胸の奥で黒い渦を巻いていた。その渦は、自分を飲み込んでしまいそうなほど大きく感じられる。

「恐れることはありません」

 クラティアは優しく言った。

「あなたは、ただあなたでいればいい。それが一番大切なことです」

 風が吹いて、鏡花の花弁がきらきらと舞った。花弁が触れた頬は、一瞬だけ温かくなり、すぐに冷たくなった。まるで、誰かの手が優しく触れたかのように。

 その美しさに、アイリスは少しだけ心が軽くなった。

「クラティアさん」

「はい?」

「兄は、何を求めていたんでしょうか」

 クラティアは空を見上げた。

「恐らく、愛する人を守る方法を」

「守る……?」

「ええ。彼は知っていたのです。この世界に迫る、大きな歪みを」

 クラティアの瞳に、憂いの色が浮かんだ。

「そして、それを止められるのは『観測者』だけだと」

 アイリスは懐中時計を見つめた。

 止まった針が、夕日を受けて赤く光っている。まるで、血のように。

(兄さん、私に何を託したの?)

 答えはまだ出ない。しかし、一つだけ決めたことがある。

 逃げない。

 たとえ怖くても、辛くても、兄が命を懸けて守ろうとしたものを、自分も守り抜く。

 決意は、小さな炎のように心の中で揺れていた。風が吹けば消えてしまいそうなほど頼りないが、それでも確かに燃えている。

「……私に効かないなら、それでいい」

 呟いた言葉は、兄の口癖だった。

 今なら、少しだけその意味が分かる気がした。

 効かないことは、弱さじゃない。

 それは、きっと——

「行きましょう」

 クラティアが手を差し伸べた。その手は、見た目よりもずっと温かかった。

「皆が心配しています」

 アイリスは頷き、その手を取った。

 二人が中庭を後にした時、鏡花が一斉に光を放った。その光は、祝福のようでもあり、警告のようでもあった。

 まるで、新たな観測者の誕生を祝福するかのように。

 そして、城の奥深く。

 窓のない部屋で、フォルクスが一人、暗い部屋で時計を見つめていた。部屋の空気は淀み、時間さえも腐敗しているかのような匂いが漂っている。

「さあ、始まるよ、リオ君」

 カチリ、と針が進む。その音は、運命の歯車が動き出す音のようだった。

「君の妹は、素晴らしい『観測者』になりそうだ」

 銀と黒の瞳に、狂気の光が宿っていた。

 鏡の城に、新たな嵐が近づいていた。

 城の至る所で、鏡がかすかに震え始めている。まるで、来るべき変化を予感しているかのように。
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