鏡の城の魔導士 ~魔法が効かない少女と時空の謎~

宵町あかり

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第5話 記録の果ての真実

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夜が深まった鏡の城で、アイリス・ノルヴェインは眠ることができずにいた。客室のベッドに腰を下ろし、兄から受け継いだ懐中時計を握りしめている。金属の冷たさが掌に染み込んでくるが、心の奥で燃える不安の炎は一向に収まらない。

(フォルクスさんの言葉、何だったんだろう)

 あの男の銀と黒の瞳が、まだ網膜に焼き付いている。「君の兄は、最期まで君のことを案じていた」——その言葉の裏に隠された真意が、胸の奥で疼いていた。

 窓の外では、城の庭園が月明かりに照らされている。鏡花の花弁が風に揺れ、星屑のような光を散らしている様子が見えた。その美しさも、今は心を癒してくれない。

 懐中時計を開く。針は相変わらず止まったままだ。兄が最後に触れた時刻で、永遠に固まっている。

(兄さん、私は何も知らない)

 指で文字盤を撫でる。するとその瞬間——

 カチッ。

 微かな音がして、長針が一目盛りだけ動いた。

「え……?」

 アイリスは目を見開いた。確かに針が動いた。幻覚ではない。時計の金属が、急に温かくなったような気がした。

 そして、部屋の鏡に目をやると——

 そこに映っていたのは、自分の姿ではなかった。

 栗色の髪、優しい緑の瞳。兄のリオが、鏡の向こうから微笑んでいた。唇が動いているが、声は聞こえない。しかし、その口の動きは確かにこう言っていた。

『アイリス、真実を……』

 次の瞬間、映像は消えた。鏡には再び、困惑した自分の顔が映っている。

 心臓が早鐘を打っていた。これは夢なのか、それとも——

(観測者の力?)

 レイナの言葉が蘇る。観測者は、一つの現実だけでなく、複数の可能性を認識できる。もしかすると、今見たのは——

 翌朝、アイリスは一睡もできないまま朝を迎えた。瞼は重く、頭の中に霞がかかったような感覚があったが、気持ちだけは妙にはっきりしていた。

 朝食の席で、ジークとレイナに昨夜の出来事を話すと、二人の表情が険しくなった。

「時計が動いた?」

 レイナが驚きの声を上げる。朝の光を受けて、銀金の髪が小さな虹を作っていた。

「それに、鏡に兄さんの姿が……」

「間違いなく、観測者の力が覚醒している」

 ジークが低い声で呟く。黒いローブの袖からのぞく手が、テーブルを軽く叩く音が響いた。

「リオの残留思念を感知した可能性が高い」

「残留思念……?」

「魂や記憶の痕跡のようなものです」

 レイナが興奮した様子で身を乗り出す。

「強い感情を持った人が亡くなると、その場所に『記録』として残ることがあるの。そして観測者は、その記録を視ることができる」

 アイリスは胸が熱くなった。兄の思いが、まだこの世界に残っているということなのか。

「兄さんの『記録』を、もっとはっきり見ることはできませんか?」

「危険だ」

 ジークが即座に首を振る。

「観測者の力は諸刃の剣。制御を誤れば、君自身が時空の歪みに飲み込まれかねない」

「でも!」

 アイリスが立ち上がると、椅子が床に響く音を立てた。

「兄さんが私に何を伝えようとしているのか知りたいんです!」

 その真剣な眼差しに、ジークは何かを決意したような表情を見せた。

「……分かった。ただし、条件がある」

「条件?」

「私たちが立ち会う。何か異常があれば、すぐに中断する」

 レイナも頷いた。

「それに、場所も選ばないと。観測者の力を安全に使える場所は限られているの」

 ジークが腰を上げる。

「リオの研究室に行こう。彼の『記録』が最も濃く残っているはずだ」


   * * *


 城の地下深くにある研究室への道のりは、アイリスが思っていたよりも険しかった。螺旋階段を延々と下り、途中で何度も曲がりくねった通路を通る。壁に刻まれた魔法陣が、彼らの足音に反応して淡く発光する様子が、まるで生き物の血管のように見えた。

 空気は次第に冷たくなり、古い羊皮紙と薬品の匂いが混じり合った独特の香りが漂ってくる。足音は石壁に反響し、まるで誰かが後ろからついてきているような錯覚を覚えた。

「この先です」

 ジークが重い扉の前で立ち止まった。扉には複雑な魔法陣が刻まれ、鍵穴の代わりに水晶がはめ込まれている。

 ジークが水晶に手を触れると、魔法陣が青く光り、重い音と共に扉が開いた。中から立ち上る空気は、時間が止まったかのように澱んでいる。

「リオの研究室だ」

 中に入ると、アイリスは息を飲んだ。

 部屋は予想以上に広く、壁一面に本棚が並んでいる。しかし、その多くが倒れ、本が床に散乱していた。実験台は横倒しになり、ガラス製の器具が砕け散っている。まるで嵐が通り過ぎた後のような有様だった。

「荒らされてる……」

「事故の影響だろう」

 ジークが慎重に足を進める。砕けたガラスが靴底で軋む音が、静寂の中で大きく響いた。

「でも、何か残っているかもしれない」

 レイナが倒れた本棚の陰を覗き込む。

「あった!」

 彼女が引っ張り出したのは、厚い革表紙の研究ノートだった。表紙に「R.N. - OBSERVATIONS DIARY」と金文字で書かれている。

「兄さんの文字……」

 アイリスが駆け寄る。確かに、兄の几帳面な筆跡だった。しかし、ページを開いてみると——

「これ、暗号?」

 文字らしきものは見えるが、まるで意味が分からない。数字と記号、そして奇妙な図形が複雑に組み合わさっている。

「魔導研究者は、重要な記録を暗号化することが多いの」

 レイナがノートを受け取り、真剣な表情で解読を始める。

 その間、アイリスは部屋の奥を探索した。倒れた実験台の下から、小さな箱を見つける。木製の箱で、表面に小さな鍵穴があいていた。

「これ、鍵がかかってますね」

「私に任せて」

 レイナが振り返り、杖で箱を指す。

「簡易開錠術式——」

 小さな光が鍵穴に入り込み、カチッという音と共に蓋が開いた。

 中には、数枚の書類と、もう一通の手紙が入っていた。書類の一つを手に取ると、見覚えのある名前が目に飛び込んできた。

「フォルクス・ノーグラム博士との共同研究計画書」

 アイリスの声が震える。

「やっぱり、あの人と兄さんは一緒に研究してたんですね」

 ジークの表情が暗くなる。

「フォルクスは、確かに優秀な研究者だった。しかし……」

「しかし?」

「手段を選ばない男だ。危険な実験でも、結果のためなら平気で実行する」

 レイナが興奮した声を上げた。

「解読できた!」

 彼女はノートを広げ、指で行を追いながら読み上げる。

「『最大出力時空観測実験 対象:アイリス・ノルヴェイン 目的:観測者能力の測定と記録』」

 アイリスの顔が青ざめた。

「私が……実験の対象?」

「続きがあるわ」

 レイナの声が重くなる。

「『注意:実験は絶対に本人の同意なしに実行してはならない。妹の安全が最優先。F博士の提案は断固拒否』」

 ジークが深いため息をつく。

「やはり、リオは君を守ろうとしていたんだ」

 しかし、アイリスの心は複雑だった。兄が自分のことを研究対象として見ていたという事実に、裏切られたような気持ちが芽生えていた。胸の奥で、信頼と疑念が渦を巻いている。

「でも、なぜ私を?」

 その時、箱の底に残っていた手紙に気づく。封筒には「アイリスへ」と書かれているが、中身は途中で途切れていた。

『愛しい妹へ。
もしもこの手紙を君が読んでいるとしたら、私は——』

 そこで文字が途切れている。最後の文字は、まるで何かに急に中断されたかのように乱れていた。

「未完成の手紙……」

「恐らく、事故の直前に書いていたのでしょう」

 ジークが静かに言う。

「彼は最期まで、君のことを想っていた」

 アイリスは手紙を胸に抱いた。紙の向こうから、兄の温もりが伝わってくるような気がした。

「兄さんの最期を……見ることはできませんか?」

「アイリス……」

「お願いします」

 彼女は二人を見つめた。

「私、真実を知りたいんです。兄さんに何が起こったのか、なぜ私が観測者なのか、全部」

 レイナとジークが視線を交わす。長い沈黙の後、ジークが重い口を開いた。

「……城の中央時計塔に行こう」

「時計塔?」

「そこは城で最も時空の流れが安定している場所だ。観測者の力を使うには最適だろう」

 レイナが心配そうに眉をひそめる。

「でも、本当に大丈夫? 観測者の力の暴走は——」

「私がいる」

 ジークの声に、確固たる意志が込められていた。

「必ず、彼女を守る」

 三人は研究室を後にし、時計塔への道を急いだ。アイリスの胸の奥で、真実への渇望と不安が激しくせめぎ合っていた。


   * * *


 城の中央時計塔は、アイリスが想像していたよりもはるかに荘厳だった。螺旋階段を上がるたび、巨大な歯車と振り子の音が体の芯まで響いてくる。壁には無数の時計が埋め込まれ、それぞれが異なる時刻を指している。中には逆回りしているものや、針が止まっているものもあった。

「この時計たちは何を?」

「それぞれ異なる時空の流れを示している」

 レイナが振り返って説明する。銀金の髪が、時計の明かりを受けて神秘的に輝いていた。

「鏡の城は、複数の時空が交差する地点に建っているの。だから、時間の流れが不安定になることがある」

 最上階に到着すると、そこには巨大な時計の文字盤があった。直径は十メートルはあろうかという大きさで、針は黄金と銀で作られている。その下に、円形の魔法陣が床に刻まれていた。

「ここで観測を行う」

 ジークがアイリスを魔法陣の中央に導く。

「ただし、何か異常を感じたらすぐに教えてほしい」

 アイリスは頷き、魔法陣の中央に立った。床の石が、微かに温かいのを感じる。

「どうすればいいんですか?」

「力を抜いて、兄さんのことを想って」

 レイナが優しく言う。

「観測者の力は、強い感情に反応するの。特に、愛情や悲しみといった深い想いに」

 アイリスは目を閉じ、兄のことを想った。

 優しい笑顔。村で一緒に過ごした日々。最後に会った時の、少し寂しそうな表情。

 すると、胸の奥で何かが温かくなり始めた。懐中時計が脈打つように震えているのを感じる。

 そして——

 世界が変わった。

 アイリスの周りに、無数の光の糸が現れた。それらは空中で複雑に絡み合い、まるで巨大な蜘蛛の巣のような模様を描いている。光の糸一本一本が、異なる時空の『記録』を表していることが、なぜか直感で分かった。

「見えてる……」

 呟くと、レイナが興奮した声を上げる。

「すごい! 時空観測が成功してる!」

 光の糸の中から、一本の太い糸が浮かび上がってきた。それは暖かいオレンジ色に光っていて、なぜか懐かしい感じがする。

(これが、兄さんの記録……)

 アイリスがその糸に触れようとした瞬間——

 視界が一変した。

 目の前に、見慣れた研究室が広がっている。しかし、今見てきた荒れ果てた部屋ではない。整然と整理され、実験器具が丁寧に並べられた、生きている研究室だった。

 そして、机の向こうに座っているのは——

「兄さん!」

 思わず叫んでしまった。確かに兄のリオがいる。少し疲れた表情をしているが、真剣に何かの書類に目を通している。

 これは過去の記録。兄が生きていた時の光景なのだ。

 研究室の扉が開き、フォルクス・ノーグラムが入ってきた。銀と黒の瞳は今と変わらないが、表情はもう少し穏やかだった。

「リオ君、調子はどうだい?」

「フォルクス博士……」

 リオが書類から顔を上げる。その表情には、明らかに警戒心が浮かんでいた。

「妹のデータ、もう一度見せてもらえるかな?」

「それは……」

 リオが躊躇する。

「彼女の観測者能力は、我々の研究にとって重要な鍵となる。詳細な分析が必要だ」

「アイリスを実験台にするつもりですか?」

 リオの声に、怒りが込められていた。

「実験台だなんて、人聞きの悪い」

 フォルクスが苦笑する。

「科学の発展のためだよ。君の妹の力があれば、時空の謎を解明できる。そうすれば、多くの人を救えるかもしれない」

「代償が妹の命なら、お断りします」

 リオがきっぱりと言い切る。

「彼女はただの少女です。村で平穏に暮らすのが一番だ」

 フォルクスの表情が変わった。優しい微笑みが消え、冷たい光が瞳に宿る。

「残念だ、リオ君。君がそう言うなら——」

 フォルクスが懐から何かを取り出そうとした瞬間、光景が途切れた。

「あ……」

 アイリスは現実に引き戻された。しかし、観測はまだ続いている。今度は別の場面が見え始めた。

 同じ研究室だが、時間が進んでいる。リオが一人で実験装置を操作していた。表情は緊張と恐怖に歪んでいる。

「急がなければ……アイリスに危険が迫る前に……」

 彼は何かの装置を起動させようとしている。それは複雑な魔法陣と機械が組み合わさった、見たことのない代物だった。

 突然、装置が異常な光を放ち始めた。

「何……? 制御系統が……」

 リオが慌てて操作盤を叩く。しかし、装置の暴走は止まらない。

 その時、研究室の扉が開き、フォルクスが入ってきた。

「おや、まだ実験を続けていたのかい?」

 その声には、明らかに嘲笑が込められていた。

「フォルクス! 装置を止めてください! このままでは時空の歪みが——」

「止める? なぜ?」

 フォルクスが冷たく微笑む。

「これこそが我々の求めていた現象ではないか」

「まさか……あなたが装置を……」

 リオの顔が絶望に染まった。

「君が協力しないなら、強制的にでも実験を進めさせてもらう」

 装置の光が更に激しくなる。空間に亀裂が生じ始めた。

「アイリスを……巻き込まないで……」

 リオが装置に向かって走った。時空の歪みに手を突っ込み、何かを操作しようとする。

「やめるんだ、リオ君! その歪みに触れれば——」

 しかし、リオは構わず作業を続けた。

「妹だけは……守らなければ……」

 その瞬間、時空の歪みがリオを飲み込んだ。

「兄さん!」

 アイリスの叫び声が時計塔に響いた。しかし、それは過去の記録。もう手の届かない時間の向こう側の出来事だった。

 リオの最期の言葉が、歪みの中から聞こえてきた。

『アイリス……君らしく……生きて……』

 そして、全てが光に包まれた。

 観測が終わり、アイリスは膝をついて倒れそうになった。ジークが慌てて支える。

「アイリス!」

「大丈夫……です……」

 涙で頬が濡れていた。しかし、それは悲しみだけの涙ではない。真実を知ることができた安堵と、兄の愛情を改めて感じることができた喜びも混じっていた。

「見えました……兄さんの最期が……」

 レイナが心配そうに近づく。

「何が見えたの?」

「フォルクスが……兄さんを……」

 アイリスは震え声で、見た光景を話した。聞いているうちに、ジークの表情がどんどん険しくなっていく。

「やはり、事故ではなかった……」

「兄さんは、私を守るために……」

 その時、時計塔に別の声が響いた。

「素晴らしい観測だったね、アイリス嬢」

 振り返ると、フォルクス・ノーグラムが階段を上がってきた。銀と黒の瞳が、アイリスを見つめている。

「君の観測者能力は、想像以上だ」

「フォルクス……!」

 ジークが前に出る。しかし、フォルクスは手を挙げて制した。

「落ち着きたまえ、ジーク君。私は何もしない」

 アイリスが立ち上がった。先ほどまでの混乱は消え、心の中に冷たい怒りが宿っていた。

「あなたが……兄さんを殺したんですね」

「殺した? そんな物騒な」

 フォルクスが肩をすくめる。

「私はただ、科学の発展のために必要な実験をしただけだ」

「兄さんの命を奪っておいて!」

「彼は自分で歪みに飛び込んだ。私が強制したわけではない」

 その冷酷な言葉に、アイリスの怒りが頂点に達した。

「あなたは……」

 しかし、言葉を続けようとした時、フォルクスが懐中時計を取り出した。

「ところで、君の観測で一つ見落としがある」

「見落とし?」

「リオ君の死は、実は序章に過ぎない」

 フォルクスの時計が不気味に光る。

「真の実験は、今始まったばかりなのだよ」

 突然、時計塔全体が震え始めた。巨大な文字盤の針が、ゆっくりと逆回りを始める。

「な、何が……」

 レイナが杖を構える。

「時空の大規模操作……まさか、この城全体を実験場にするつもり!?」

「君たちも気づいているだろう? この城の時空の歪みが激しくなっていることに」

 フォルクスが不気味に微笑む。

「それは全て、この日のための準備だった。『真の観測者』が覚醒するその瞬間を待っていたのだ」

 アイリスの胸の懐中時計が、激しく震え始めた。

「私の力を……利用するつもりですか?」

「利用? いやいや、君には自由意志がある」

 フォルクスが一歩近づく。

「ただし、選択肢は二つだ。私に協力して世界を変えるか——」

 時計塔の窓から、城の外の景色が見えた。しかし、それは先ほどまで見ていた風景ではない。空が歪み、地平線が波打っている。

「この世界が時空の歪みに飲み込まれるのを見ているかだ」

 レイナが青ざめた。

「城の外まで時空操作が……そんなことができるなんて……」

「観測者の力があれば、可能だ」

 フォルクスがアイリスを見つめる。

「君の兄の研究を完成させれば、時空を自在に操ることができる。過去を変え、未来を創造し、世界そのものを理想の形にできるのだ」

「兄さんは、そんなことは望んでいませんでした」

 アイリスがきっぱりと言う。

「彼は私を守りたかっただけです」

「そうだろうとも。だが、君はどうだ?」

 フォルクスの声に、甘い毒が込められていた。

「君の力があれば、兄を生き返らせることもできる。過去を変えて、彼の死を無かったことにできるのだ」

 その言葉に、アイリスの心が揺れた。兄を救えるなら——

「アイリス、だめ!」

 ジークが叫ぶ。

「過去を変えれば、今の全てが失われる。君が出会った人々、築いた絆、全てがなくなってしまう」

「でも、兄さんが……」

「リオは君に『君らしく生きてほしい』と言ったはずだ」

 レイナも必死に説得する。

「過去にしがみつくのではなく、今を、未来を大切にしてほしいって」

 アイリスは迷った。胸の奥で、兄への愛情と、今の仲間への思いがせめぎ合っている。

 その時、懐中時計から温かい感覚が伝わってきた。まるで、兄が手を握ってくれているかのような温もり。

(兄さん……)

 心の中で兄の声が聞こえたような気がした。

『君らしく生きて、アイリス』

 それは観測で見た最期の言葉だった。そして今、その真意が分かった。

 過去に囚われず、今の自分を大切にして生きてほしい。それが兄の願いだったのだ。

「……お断りします」

 アイリスが顔を上げて、フォルクスを見つめた。

「兄さんを生き返らせても、それは本当の兄さんじゃない。私は、兄さんの想いを受け継いで、今を生きていきます」

 フォルクスの表情が険しくなった。

「残念だ。では、力ずくで協力してもらうとしよう」

 彼が時計を掲げると、時計塔全体に異常な波動が走った。

「時空強制同調——展開」

 空間が歪み始める。しかし、その歪みがアイリスに触れた瞬間——

 歪みが霧散した。

「何……?」

 フォルクスが驚愕する。

「君の力は、私の術式を無効化した?」

「私は観測者です」

 アイリスが立ち上がる。胸の懐中時計が、柔らかな光を放っていた。

「世界の理の外側にいる存在。あなたの術式は、私には届きません」

 ジークとレイナが、希望の光を見た表情でアイリスを見つめる。

「さすが、観測者……」

 しかし、フォルクスは諦めていなかった。

「ならば、君以外の全てを歪ませてやろう」

 時計塔の外で、激しい轟音が響いた。城全体が時空の歪みに飲み込まれ始めている。

「城の人々が……」

 レイナが窓の外を見て青ざめる。

「このままでは、みんな時空の歪みに……」

 アイリスは決意を固めた。自分の力で、みんなを守らなければならない。

「分かりました」

 魔法陣の中央に立つ。

「私の観測者の力で、この歪みを正します」

「アイリス、危険すぎる!」

 ジークが止めようとするが、アイリスは微笑んだ。

「大丈夫です。私には兄さんの想いがついています」

 胸の懐中時計を握りしめ、目を閉じる。今度は兄のためではなく、今大切な人たちのために力を使うのだ。

 観測者の力が発動し、時計塔から優しい光が溢れ出した。その光は城全体を包み込み、時空の歪みを少しずつ修正していく。

 フォルクスの術式が解除され、城は再び安定を取り戻した。

「……今回は退いてやろう」

 フォルクスが歯ぎしりしながら言う。

「だが、これで終わったと思うなよ。君の力は、いずれ私のものにする」

 そう言うと、彼は時空の裂け目に消えていった。

 時計塔に平穏が戻り、アイリスは仲間たちに支えられながら座り込んだ。

「やったね、アイリス」

 レイナが嬉しそうに言う。

「君は本当の観測者になった」

 ジークも満足そうに頷く。

「リオも誇らしく思っているだろう」

 アイリスは懐中時計を見下ろした。針は相変わらず止まっているが、もうそれが悲しくはなかった。

 止まった時間は、兄との永遠の絆の象徴。そして動き続ける今は、自分が生きている証。

 両方とも、かけがえのないものなのだ。

「これからは、私たちで力を合わせて、フォルクスを止めましょう」

 夕暮れの光が時計塔に差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。新たな戦いの始まりを予感させながらも、希望に満ちた光だった。

 アイリス・ノルヴェインは、ついに真の観測者として歩み始めた。兄の想いを胸に、仲間と共に未来を切り開いていく決意を抱いて。

 止まった時計と動き続ける心を胸に、彼女の新たな物語が始まろうとしていた。
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