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第26話 世界征服宣言!?
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◆◇◆
第3章 古代の遺産と新たな同胞
◆◇◆
深夜の帝都。月も雲に隠れた暗闇の中、四つの影が同時に動き出していた。
「緊急暗号……赤? いや黒? とにかく征服です!」
ヴァレリア王国の諜報員ブリッツは、震える手で眼鏡を拭きながら、暗号通信機に向かっていた。レンズを拭く布が汗でぐっしょりと濡れている。彼の手元には、走り書きのメモが散乱し、インクのシミが恐慌状態を物語っていた。
「第三王子レオンが……世界征服を宣言したようです! いえ、確実です! たぶん!」
メモを拾おうとして落とし、拾ってはまた落とす。革靴が石畳を叩く音が、静寂な夜に不規則なリズムを刻んでいた。
同じ頃、セレスティア教国の密室では、シスター・ノワールが苦悩していた。
彼女は二重スパイ——教国の諜報員でありながら、密かに帝国にも情報を流している。五年前、帝国の婦人に救われた恩がある。その婦人は実は帝国情報部のエージェントで、彼女をスカウトしたのだった。以来、ノワールは両方に情報を流し、微妙なバランスを保っている。
月光がステンドグラスを通して七色に分解され、祈りの間を神秘的に照らしていた。
「神よ……これは預言の成就なのでしょうか」
手にした羊皮紙には、レオン王子の言葉が記されている。ただし、それは彼女のフィルターを通して変質したものだった。
『スライムの研究成果を世界と共有し——』は『スライムを使って世界を手中に収め』と解釈され、『人類の発展に貢献したい』は『人類を我が支配下に置きたい』と翻訳されていた。
祈りのろうそくが揺らめき、蝋の甘い香りが立ち込める中、彼女は葛藤していた。
「これを報告すべきか……それとも……」
東方連合の隠れ家では、天才少女リンが魔道計算機をカタカタと叩いていた。
歯車と水晶が組み合わさった独特の装置は、東方連合の最新技術の結晶だ。機械油と魔力結晶の混じった特有の匂いが部屋に充満している。
「世界征服の確率……78%……あれ? 85%? 計算が合わない」
小さな手が素早く計算盤を操作する。しかし、数値は安定しない。彼女の横には、東方連合特産の蜜菓子が山積みになっており、考えながら一つ、また一つと口に運んでいた。
「まぁいいや。とりあえず『征服の野望あり』で報告しよ。お菓子おいしい」
砂糖の甘い香りと、緊迫した情報が奇妙なコントラストを生んでいた。
そして窓の外では、一羽の海鳥が羽ばたいていた。
それは普通の鳥ではない——マリーナ王国の第一王女アクアマリンが送った使い魔だった。青く輝く瞳で室内を覗き込み、その映像を主人に送信している。
「クルッポー! クルッポー!」
鳥の鳴き声は、人間には理解できない。しかし、アクアマリンには『大変だ! 侵略だ! 海も狙われる!』と聞こえていた。
使い魔が羽ばたくたびに、海の香りが風に乗って広がる。それは、遠い南方の海からの警告のようだった。
---
翌朝、アルケイオス帝国の大会議場、グランド・アンフィシアター。
古代ローマを思わせる壮大な円形劇場は、国際科学会議の会場として準備されていた。大理石の柱が朝日を受けて黄金色に輝き、中央の演壇には帝国の紋章が誇らしげに掲げられている。
レオンは演壇に立ち、集まった各国代表団を前に、研究成果を発表しようとしていた。
「本日は、スライム研究における画期的な発見について、皆様と共有させていただきたく——」
その瞬間、会場の空気が凍りついた。
ヴァレリア王国代表団の席では、筋骨隆々の武将ガルヴァン・アイゼンハルトが、腕を組んで身を乗り出していた。
「共有……だと? それは支配の婉曲表現に違いない!」
彼の隣に座る護衛たちが、一斉に剣の柄に手をかける。金属が擦れる音が、緊張を増幅させた。鎧から立ち昇る鉄と油の匂いが、ヴァレリアの「実力と名誉」の価値観を体現していた。
セレスティア教国の席では、大司教メルキオール・サンクトゥスが、顔色を青くしていた。
彼の手にある聖典が微かに震えている。古い羊皮紙と聖油の香りが、彼の「信仰と伝統」への執着を物語っていた。
「『人類の発展』……それは神の領域への冒涜! 創造の秩序を乱す行為だ!」
隣の修道士たちが、一斉に祈りの言葉を唱え始める。ラテン語の詠唱が、重苦しい雰囲気を作り出していた。
東方連合の代表、チェン・ロン商会の会頭は、鋭い目でレオンを観察していた。
手にした算盤を素早く弾きながら、利益と損失を計算している。墨と計算紙の匂いが、東方連合の「実利と情報」重視の姿勢を示していた。
「研究成果の『共有』……ほう、独占の前の布石というわけですな」
彼の後ろでは、商人たちがひそひそと相談を始めていた。
レオンは困惑した。
(え? なんでこんな反応に……?)
「あの、誤解があるようですが——」
「誤解などありません!」
ガルヴァンが立ち上がった。椅子が大きな音を立てて倒れる。
「第三王子レオン殿! あなたの野望は、既に我々の知るところだ!」
レオンは首を傾げた。野望? 確かに「全てのスライムの生態を解明したい」という研究者としての野望はあるが……。
「違います! 私は単に、スライムとの共生について——」
「共生!」
メルキオールが叫んだ。
「それは人間の定義を変える、神への反逆です!」
レオンは頭を抱えた。
(なんで宗教の話になるんだ……)
「いえ、科学的な観察と実験の結果——」
「実験!」
チェン・ロンが目を光らせた。
「つまり、人体実験も辞さないと!?」
「してません!」
レオンは必死に説明を試みた。研究ノートを取り出し、ページをめくりながら説明する。紙のめくれる音と、インクの匂いが学術的な雰囲気を作り出していた。
「ここに記録した通り、スライムの粘性係数は温度により変化し、その相転移温度は——」
「相転移! それは世界の変革を意味する暗号だ!」
ガルヴァンが拳を握りしめた。
「粘性係数とは、抵抗勢力の制圧速度の隠語に違いない!」
レオンは呆然とした。
(どうしてそうなる!?)
「フィルミナの覚醒により、スライムの集合意識の一端が解明され——」
「集合意識!」
メルキオールが十字を切った。
「一つの意志の下に全てを統べる……まさに世界征服の思想!」
レオンはもう諦めかけていた。しかし、科学者としての使命感が、彼を突き動かした。
「皆さん、落ち着いて聞いてください。私の研究は純粋に学術的なもので——」
「純粋! 最も危険な言葉だ!」
チェン・ロンが扇子をパチリと閉じた。
「純粋な野心ほど、恐ろしいものはない」
その時、フィルミナが立ち上がった。
半透明の髪が光を反射し、虹色に輝く。彼女の周囲の空気が微かに振動し、不思議な共鳴音が響いた。
「レオン様……海の歌が……」
彼女の声が、かすかに聞こえた。しかし、それは現実の声ではなく、精神の中に直接響いてくる声だった。その声には、鈴の音のような清らかさと、深い海の底から響くような重厚さが同時に存在していた。
「私の中で、何かが……目覚めようとしている」
その瞬間、帝都中のスライムが動き始めた。
城下町では、パニックが広がっていた。
民家の軒下で飼われていた観賞用スライム、下水道に潜んでいた野生のスライム、商人が運んでいた荷物の中に紛れ込んでいたスライム──ありとあらゆるスライムが、一斉に研究室のある方角へと向かって移動を始めたのだ。
「侵略だ! スライムの大軍が攻めてくる!」
夜警の一人が、恐慌状態で叫んだ。
「光の姫が、ついに帝国を乗っ取るつもりだ!」
別の市民が続けた。
「いや、これは第三王子殿下の軍事演習だ! 夜間奇襲訓練に違いない!」
さらに別の声が上がる。
「まさか、ユリオス殿下との継承権争いが、ついに表面化したのか!?」
しかし、スライムたちは誰も襲わなかった。ただ、整然と、まるで見えない糸に引かれるように、研究室へと向かっていく。その様子は、不気味でありながら、どこか荘厳でもあった。石畳を這うスライムたちの音は、まるで静かな雨音のようで、夜の静寂に奇妙な調和をもたらしていた。
リヴィエルは、研究室の窓から外を見下ろしていた。月明かりに照らされた通りを、無数のスライムが流れるように進んでいく光景は、幻想的ですらあった。
「これは……」
彼女は振り返り、光に包まれたフィルミナを見た。
「フィルミナ様が、全てを呼んでいる。まさか、帝国統一の第一歩?」
彼女は首を振った。
「いえ、坊ちゃまにそんな野心はないはず……でも、世間はそうは見ないでしょうね」
シグレは観測機器の前で、信じられないような数値を見つめていた。
「共鳴周波数が、理論値を超えている……」
彼女の手は震えていた。科学者としての興奮と、未知への恐怖が入り混じっていた。手に汗がにじみ、ペンを持つ指が滑る。
「これは、個体としての覚醒じゃない。種全体に影響を与える、何か根源的な変化が起きている」
プリマも、フィルミナのすぐ傍で、同じように光り輝いていた。二体の光が共鳴し、螺旋を描きながら天井へと伸びていく。その光の渦は、まるで二匹の龍が天に昇るような壮大な光景だった。
ガイウスが慌てて飛び込んできた。
「シグレ先生! これは新型魔法兵器の暴走ですか!?」
「違います! これは生物学的な……」
「では、第三王子殿下が禁忌の召喚術を!?」
「だから違うと……」
その時、フィルミナの意識が、深い場所へと沈んでいった。
精神の深淵で、フィルミナは再び「母体」と対面していた。
しかし、以前とは違っていた。母体の姿が、より鮮明に見えた。それは巨大なスライムでありながら、その内部に無数の記憶と意識が渦巻いている、生きた図書館のような存在だった。その存在から放たれる圧倒的な知識の香り——古い羊皮紙とインク、そして時間そのものの匂いが、フィルミナの意識を包み込んだ。
『よく来た、我が末裔よ』
母体の声は、慈愛に満ちていた。その声は、百の母親が同時に語りかけてくるような、深い愛情と温かさに満ちていた。
『ついに、その時が来た』
「その時……?」
『三百年前、我々は選択を迫られた』
母体の内部に、映像が浮かび上がった。古代の研究施設、白衣を着た人々、そして……変化していく人間たち。映像と共に、その時代の空気——機械油と薬品の匂い、希望と絶望が入り混じった感情が、生々しく伝わってきた。
『人類の一部は、進化を選んだ。肉体を捨て、新しい生命体になることを』
フィルミナは息を呑んだ。
「まさか……スライムは……」
『そう、我々は失敗作ではなかった。人間が、自ら選んだ進化の形だったのだ』
母体の記憶が、フィルミナの中に流れ込んできた。
三百年前の真実が、走馬灯のように展開される。疫病、戦争、環境破壊──行き詰まった人類の一部が、生存のために選んだ究極の選択。肉体を液体に変え、個を保ちながら全と繋がる、新しい生命の形。
その変化の瞬間の感覚まで伝わってきた。固体から液体への変化は、まるで温かい水に溶けていくような心地よさと、自分という境界が曖昧になる恐怖が同時に存在していた。
『しかし、時と共に、我々は個を忘れた。意識は溶け合い、ただの原始的な生命体となり果てた』
母体の声に、深い悲しみが宿っていた。
『だが、お前は違う。人間と共に育ち、愛を知り、個でありながら種と繋がることができる』
フィルミナの前に、選択が示された。
『選べ、フィルミナ。個として人間と共に生きるか、種の意志となって全てを導くか』
その瞬間、レオンの声が、精神の奥底まで響いてきた。
「フィルミナ! 君を信じている! どんな選択をしても、俺は君の側にいる!」
フィルミナは、目を閉じた。
そして、静かに、しかし確固たる意志を持って宣言した。
「私は選ぶ。両方を」
母体が震えた。それは驚きか、それとも歓喜か。
「私は個として、レオンと共に生きる。でも同時に、全てのスライムと繋がり、導いていく」
『それは、最も困難な道だ』
「知っています。でも、それが私の選択です」
フィルミナの体が、さらに強く輝いた。そして、その光は研究室の窓を突き破り、巨大な光の柱となって天に昇った。
帝都中の人々が、その光景を目撃した。まるで神話の一場面のような、荘厳な光の柱。そこには恐怖よりも、畏敬と希望が宿っていた。光の柱からは、微かに音楽のような響きが聞こえ、それは聞く者の心に直接響いてくるような、不思議な調べだった。
「見ろ! 第三王子が天に向かって何か撃っている!」
市民の一人が叫んだ。
「いや、あれは神への宣戦布告だ!」
「違う、きっと他国への威嚇射撃だ!」
様々な憶測が飛び交う中、レオンは必死にフィルミナを支えていた。
(なぜ、僕の純粋な研究が、こんな大事に……)
ヴァレンタスは、城の最上階から光の柱を見上げていた。
「もはや、止められない」
彼の声には、諦めと、わずかな期待が混じっていた。
「これが新しい時代の幕開けか」
皇帝陛下も、玉座から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「準備を始めよう」
側近が驚いて振り返った。
「準備、ですか?」
「歴史的な宣言の準備だ。人類とスライムの、新たな共生の時代を告げる」
皇帝の目には、確信が宿っていた。もうこの流れは止められない。ならば、それを導くのが為政者の役目だと。
「それと、レオンに伝えよ。『研究成果を軍事転用する気はないか』と」
「陛下、まさか……」
「冗談だ。あの子に、そんな野心はあるまい」
生命解放団のアジトでも、騒然としていた。
「あの光は……最終段階か?」
リーダーが呟いた。しかし、その声には以前のような狂信的な響きはなかった。
「いや、違う。これは……始まりだ」
団員の一人が、涙を流しながら光を見上げていた。
「美しい……これが、本当の共生なのか」
別の団員が叫んだ。
「でも、これは第三王子の陰謀かもしれない! 帝国支配の第一歩だ!」
「いや、きっと愛の力だ」
「何を馬鹿なことを……」
議論は尽きなかった。
東方連合の使節団も、宿舎から光の柱を見つめていた。
「想像以上だ」
使節団長が息を呑んだ。
「これは、もはや技術の問題ではない。哲学の、いや存在そのものの問題だ」
「我が国への軍事的脅威となり得ますな」
副使が進言した。
「いや、これを味方につければ……」
光が収まり始めた時、フィルミナの体に劇的な変化が起きた。
透明だった体が、人間とほぼ同じ形になっていた。顔立ちもより鮮明になり、髪のような構造も形成されていた。しかし、その全てが半透明の、光を宿した物質でできていた。触れると、まるで生きた水晶のような感触があり、微かに脈動していた。彼女の瞳は、深い海の底のような青から、時折虹色に変化し、見る者を魅了した。
美しく、神秘的で、人間でもスライムでもない、新しい存在。
「フィルミナ……」
レオンが、恐る恐る手を伸ばした。今度は、光の圧力はなかった。彼の手が、フィルミナの頬に触れた。
温かかった。人間と同じ体温があった。そして、その肌は絹のように滑らかで、触れた瞬間、二人の心が直接繋がったような感覚が生まれた。
「レオン……私、感じる」
フィルミナの声が、現実の声として響いた。その声には、以前にはなかった深みと、無数の存在と繋がっている者特有の重層的な響きがあった。
「帝都中の、いえ、もっと遠くのスライムたちとも繋がっている。でも、私は私のまま」
シグレが震える声で言った。
「これは……新種の生命体の誕生だ。いや、もしかすると、人類の次なる進化の形かもしれない」
エルヴィーラが興奮して叫んだ。
「第三王子殿下は、新人類を創造したのですか!?」
レオンは頭を抱えた。
「違う、これは偶然の産物で……」
研究室の扉が勢いよく開かれた。
そこには、旅装束に身を包んだ若い女性が立っていた。カドリア王国の紋章を身に着けている。彼女からは、異国の香水——薔薇と香辛料が混じった複雑な香りが漂っていた。
「初めまして、レオン様、フィルミナ様」
彼女は優雅に一礼した。
「カドリア王国第二王女、アリシアと申します」
レオンは困惑した。まさか、こんなタイミングで。
アリシアは、フィルミナを見て、一瞬息を呑んだ。しかし、すぐに理性的な表情を取り戻した。
「驚きました。報告とは全く違う」
「報告?」
「はい。スライムを兵器化したとか、人類置換計画とか」
アリシアは苦笑した。
「でも、これは……もっと素晴らしい何かですね」
彼女は一歩前に出た。
「もしかして、愛の力で進化を遂げたのですか?」
レオンとフィルミナは同時に顔を赤らめた。
「そ、そんなわけでは……」
「愛……? それは、どういう……」
二人の反応を見て、アリシアは確信した。
(なるほど、これは政治的野心ではなく、本当に純粋な研究と……感情の産物なのね)
リヴィエルが、お茶を用意しながら口を開いた。
「申し訳ございませんが、王女様がいらした目的は……」
「ああ、それは」
アリシアが振り返ろうとした時、また新たな来訪者の声が響いた。
「緊急報告!」
帝国軍の伝令が飛び込んできた。汗だくで、鎧が激しく鳴っている。
「古代遺跡から、謎の信号が発信されています!」
シグレが機器を確認した。確かに、強力な魔力反応が記録されていた。測定器の針が激しく振れ、まるで地震計のようだった。
「場所は?」
「帝都から北東に三日の距離です。そして……」
伝令は息を整えた。
「信号は、明らかに言語のパターンを持っています。まるで、誰かがメッセージを送っているような」
フィルミナが、はっとした表情を見せた。彼女の体が微かに震え、内部の光が脈動した。
「聞こえる……『同胞よ、目覚めの時が来た』」
全員が、フィルミナを見つめた。
「まさか、第二の覚醒個体が!?」
シグレが驚愕した。
「となると、帝国は二体の超存在を手に入れることに……」
ガイウスが呟いた。
「これで軍事バランスは完全に帝国優位に……」
レオンは深く、深くため息をついた。
(僕はただ、スライムの生態を研究したかっただけなのに……)
新たな謎が、彼らの前に立ち現れていた。第二の覚醒は終わったが、それは更なる冒険の始まりを告げていた。
そして、その冒険もきっと、壮大な誤解と勘違いに満ちたものになるだろう。
第3章 古代の遺産と新たな同胞
◆◇◆
深夜の帝都。月も雲に隠れた暗闇の中、四つの影が同時に動き出していた。
「緊急暗号……赤? いや黒? とにかく征服です!」
ヴァレリア王国の諜報員ブリッツは、震える手で眼鏡を拭きながら、暗号通信機に向かっていた。レンズを拭く布が汗でぐっしょりと濡れている。彼の手元には、走り書きのメモが散乱し、インクのシミが恐慌状態を物語っていた。
「第三王子レオンが……世界征服を宣言したようです! いえ、確実です! たぶん!」
メモを拾おうとして落とし、拾ってはまた落とす。革靴が石畳を叩く音が、静寂な夜に不規則なリズムを刻んでいた。
同じ頃、セレスティア教国の密室では、シスター・ノワールが苦悩していた。
彼女は二重スパイ——教国の諜報員でありながら、密かに帝国にも情報を流している。五年前、帝国の婦人に救われた恩がある。その婦人は実は帝国情報部のエージェントで、彼女をスカウトしたのだった。以来、ノワールは両方に情報を流し、微妙なバランスを保っている。
月光がステンドグラスを通して七色に分解され、祈りの間を神秘的に照らしていた。
「神よ……これは預言の成就なのでしょうか」
手にした羊皮紙には、レオン王子の言葉が記されている。ただし、それは彼女のフィルターを通して変質したものだった。
『スライムの研究成果を世界と共有し——』は『スライムを使って世界を手中に収め』と解釈され、『人類の発展に貢献したい』は『人類を我が支配下に置きたい』と翻訳されていた。
祈りのろうそくが揺らめき、蝋の甘い香りが立ち込める中、彼女は葛藤していた。
「これを報告すべきか……それとも……」
東方連合の隠れ家では、天才少女リンが魔道計算機をカタカタと叩いていた。
歯車と水晶が組み合わさった独特の装置は、東方連合の最新技術の結晶だ。機械油と魔力結晶の混じった特有の匂いが部屋に充満している。
「世界征服の確率……78%……あれ? 85%? 計算が合わない」
小さな手が素早く計算盤を操作する。しかし、数値は安定しない。彼女の横には、東方連合特産の蜜菓子が山積みになっており、考えながら一つ、また一つと口に運んでいた。
「まぁいいや。とりあえず『征服の野望あり』で報告しよ。お菓子おいしい」
砂糖の甘い香りと、緊迫した情報が奇妙なコントラストを生んでいた。
そして窓の外では、一羽の海鳥が羽ばたいていた。
それは普通の鳥ではない——マリーナ王国の第一王女アクアマリンが送った使い魔だった。青く輝く瞳で室内を覗き込み、その映像を主人に送信している。
「クルッポー! クルッポー!」
鳥の鳴き声は、人間には理解できない。しかし、アクアマリンには『大変だ! 侵略だ! 海も狙われる!』と聞こえていた。
使い魔が羽ばたくたびに、海の香りが風に乗って広がる。それは、遠い南方の海からの警告のようだった。
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翌朝、アルケイオス帝国の大会議場、グランド・アンフィシアター。
古代ローマを思わせる壮大な円形劇場は、国際科学会議の会場として準備されていた。大理石の柱が朝日を受けて黄金色に輝き、中央の演壇には帝国の紋章が誇らしげに掲げられている。
レオンは演壇に立ち、集まった各国代表団を前に、研究成果を発表しようとしていた。
「本日は、スライム研究における画期的な発見について、皆様と共有させていただきたく——」
その瞬間、会場の空気が凍りついた。
ヴァレリア王国代表団の席では、筋骨隆々の武将ガルヴァン・アイゼンハルトが、腕を組んで身を乗り出していた。
「共有……だと? それは支配の婉曲表現に違いない!」
彼の隣に座る護衛たちが、一斉に剣の柄に手をかける。金属が擦れる音が、緊張を増幅させた。鎧から立ち昇る鉄と油の匂いが、ヴァレリアの「実力と名誉」の価値観を体現していた。
セレスティア教国の席では、大司教メルキオール・サンクトゥスが、顔色を青くしていた。
彼の手にある聖典が微かに震えている。古い羊皮紙と聖油の香りが、彼の「信仰と伝統」への執着を物語っていた。
「『人類の発展』……それは神の領域への冒涜! 創造の秩序を乱す行為だ!」
隣の修道士たちが、一斉に祈りの言葉を唱え始める。ラテン語の詠唱が、重苦しい雰囲気を作り出していた。
東方連合の代表、チェン・ロン商会の会頭は、鋭い目でレオンを観察していた。
手にした算盤を素早く弾きながら、利益と損失を計算している。墨と計算紙の匂いが、東方連合の「実利と情報」重視の姿勢を示していた。
「研究成果の『共有』……ほう、独占の前の布石というわけですな」
彼の後ろでは、商人たちがひそひそと相談を始めていた。
レオンは困惑した。
(え? なんでこんな反応に……?)
「あの、誤解があるようですが——」
「誤解などありません!」
ガルヴァンが立ち上がった。椅子が大きな音を立てて倒れる。
「第三王子レオン殿! あなたの野望は、既に我々の知るところだ!」
レオンは首を傾げた。野望? 確かに「全てのスライムの生態を解明したい」という研究者としての野望はあるが……。
「違います! 私は単に、スライムとの共生について——」
「共生!」
メルキオールが叫んだ。
「それは人間の定義を変える、神への反逆です!」
レオンは頭を抱えた。
(なんで宗教の話になるんだ……)
「いえ、科学的な観察と実験の結果——」
「実験!」
チェン・ロンが目を光らせた。
「つまり、人体実験も辞さないと!?」
「してません!」
レオンは必死に説明を試みた。研究ノートを取り出し、ページをめくりながら説明する。紙のめくれる音と、インクの匂いが学術的な雰囲気を作り出していた。
「ここに記録した通り、スライムの粘性係数は温度により変化し、その相転移温度は——」
「相転移! それは世界の変革を意味する暗号だ!」
ガルヴァンが拳を握りしめた。
「粘性係数とは、抵抗勢力の制圧速度の隠語に違いない!」
レオンは呆然とした。
(どうしてそうなる!?)
「フィルミナの覚醒により、スライムの集合意識の一端が解明され——」
「集合意識!」
メルキオールが十字を切った。
「一つの意志の下に全てを統べる……まさに世界征服の思想!」
レオンはもう諦めかけていた。しかし、科学者としての使命感が、彼を突き動かした。
「皆さん、落ち着いて聞いてください。私の研究は純粋に学術的なもので——」
「純粋! 最も危険な言葉だ!」
チェン・ロンが扇子をパチリと閉じた。
「純粋な野心ほど、恐ろしいものはない」
その時、フィルミナが立ち上がった。
半透明の髪が光を反射し、虹色に輝く。彼女の周囲の空気が微かに振動し、不思議な共鳴音が響いた。
「レオン様……海の歌が……」
彼女の声が、かすかに聞こえた。しかし、それは現実の声ではなく、精神の中に直接響いてくる声だった。その声には、鈴の音のような清らかさと、深い海の底から響くような重厚さが同時に存在していた。
「私の中で、何かが……目覚めようとしている」
その瞬間、帝都中のスライムが動き始めた。
城下町では、パニックが広がっていた。
民家の軒下で飼われていた観賞用スライム、下水道に潜んでいた野生のスライム、商人が運んでいた荷物の中に紛れ込んでいたスライム──ありとあらゆるスライムが、一斉に研究室のある方角へと向かって移動を始めたのだ。
「侵略だ! スライムの大軍が攻めてくる!」
夜警の一人が、恐慌状態で叫んだ。
「光の姫が、ついに帝国を乗っ取るつもりだ!」
別の市民が続けた。
「いや、これは第三王子殿下の軍事演習だ! 夜間奇襲訓練に違いない!」
さらに別の声が上がる。
「まさか、ユリオス殿下との継承権争いが、ついに表面化したのか!?」
しかし、スライムたちは誰も襲わなかった。ただ、整然と、まるで見えない糸に引かれるように、研究室へと向かっていく。その様子は、不気味でありながら、どこか荘厳でもあった。石畳を這うスライムたちの音は、まるで静かな雨音のようで、夜の静寂に奇妙な調和をもたらしていた。
リヴィエルは、研究室の窓から外を見下ろしていた。月明かりに照らされた通りを、無数のスライムが流れるように進んでいく光景は、幻想的ですらあった。
「これは……」
彼女は振り返り、光に包まれたフィルミナを見た。
「フィルミナ様が、全てを呼んでいる。まさか、帝国統一の第一歩?」
彼女は首を振った。
「いえ、坊ちゃまにそんな野心はないはず……でも、世間はそうは見ないでしょうね」
シグレは観測機器の前で、信じられないような数値を見つめていた。
「共鳴周波数が、理論値を超えている……」
彼女の手は震えていた。科学者としての興奮と、未知への恐怖が入り混じっていた。手に汗がにじみ、ペンを持つ指が滑る。
「これは、個体としての覚醒じゃない。種全体に影響を与える、何か根源的な変化が起きている」
プリマも、フィルミナのすぐ傍で、同じように光り輝いていた。二体の光が共鳴し、螺旋を描きながら天井へと伸びていく。その光の渦は、まるで二匹の龍が天に昇るような壮大な光景だった。
ガイウスが慌てて飛び込んできた。
「シグレ先生! これは新型魔法兵器の暴走ですか!?」
「違います! これは生物学的な……」
「では、第三王子殿下が禁忌の召喚術を!?」
「だから違うと……」
その時、フィルミナの意識が、深い場所へと沈んでいった。
精神の深淵で、フィルミナは再び「母体」と対面していた。
しかし、以前とは違っていた。母体の姿が、より鮮明に見えた。それは巨大なスライムでありながら、その内部に無数の記憶と意識が渦巻いている、生きた図書館のような存在だった。その存在から放たれる圧倒的な知識の香り——古い羊皮紙とインク、そして時間そのものの匂いが、フィルミナの意識を包み込んだ。
『よく来た、我が末裔よ』
母体の声は、慈愛に満ちていた。その声は、百の母親が同時に語りかけてくるような、深い愛情と温かさに満ちていた。
『ついに、その時が来た』
「その時……?」
『三百年前、我々は選択を迫られた』
母体の内部に、映像が浮かび上がった。古代の研究施設、白衣を着た人々、そして……変化していく人間たち。映像と共に、その時代の空気——機械油と薬品の匂い、希望と絶望が入り混じった感情が、生々しく伝わってきた。
『人類の一部は、進化を選んだ。肉体を捨て、新しい生命体になることを』
フィルミナは息を呑んだ。
「まさか……スライムは……」
『そう、我々は失敗作ではなかった。人間が、自ら選んだ進化の形だったのだ』
母体の記憶が、フィルミナの中に流れ込んできた。
三百年前の真実が、走馬灯のように展開される。疫病、戦争、環境破壊──行き詰まった人類の一部が、生存のために選んだ究極の選択。肉体を液体に変え、個を保ちながら全と繋がる、新しい生命の形。
その変化の瞬間の感覚まで伝わってきた。固体から液体への変化は、まるで温かい水に溶けていくような心地よさと、自分という境界が曖昧になる恐怖が同時に存在していた。
『しかし、時と共に、我々は個を忘れた。意識は溶け合い、ただの原始的な生命体となり果てた』
母体の声に、深い悲しみが宿っていた。
『だが、お前は違う。人間と共に育ち、愛を知り、個でありながら種と繋がることができる』
フィルミナの前に、選択が示された。
『選べ、フィルミナ。個として人間と共に生きるか、種の意志となって全てを導くか』
その瞬間、レオンの声が、精神の奥底まで響いてきた。
「フィルミナ! 君を信じている! どんな選択をしても、俺は君の側にいる!」
フィルミナは、目を閉じた。
そして、静かに、しかし確固たる意志を持って宣言した。
「私は選ぶ。両方を」
母体が震えた。それは驚きか、それとも歓喜か。
「私は個として、レオンと共に生きる。でも同時に、全てのスライムと繋がり、導いていく」
『それは、最も困難な道だ』
「知っています。でも、それが私の選択です」
フィルミナの体が、さらに強く輝いた。そして、その光は研究室の窓を突き破り、巨大な光の柱となって天に昇った。
帝都中の人々が、その光景を目撃した。まるで神話の一場面のような、荘厳な光の柱。そこには恐怖よりも、畏敬と希望が宿っていた。光の柱からは、微かに音楽のような響きが聞こえ、それは聞く者の心に直接響いてくるような、不思議な調べだった。
「見ろ! 第三王子が天に向かって何か撃っている!」
市民の一人が叫んだ。
「いや、あれは神への宣戦布告だ!」
「違う、きっと他国への威嚇射撃だ!」
様々な憶測が飛び交う中、レオンは必死にフィルミナを支えていた。
(なぜ、僕の純粋な研究が、こんな大事に……)
ヴァレンタスは、城の最上階から光の柱を見上げていた。
「もはや、止められない」
彼の声には、諦めと、わずかな期待が混じっていた。
「これが新しい時代の幕開けか」
皇帝陛下も、玉座から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「準備を始めよう」
側近が驚いて振り返った。
「準備、ですか?」
「歴史的な宣言の準備だ。人類とスライムの、新たな共生の時代を告げる」
皇帝の目には、確信が宿っていた。もうこの流れは止められない。ならば、それを導くのが為政者の役目だと。
「それと、レオンに伝えよ。『研究成果を軍事転用する気はないか』と」
「陛下、まさか……」
「冗談だ。あの子に、そんな野心はあるまい」
生命解放団のアジトでも、騒然としていた。
「あの光は……最終段階か?」
リーダーが呟いた。しかし、その声には以前のような狂信的な響きはなかった。
「いや、違う。これは……始まりだ」
団員の一人が、涙を流しながら光を見上げていた。
「美しい……これが、本当の共生なのか」
別の団員が叫んだ。
「でも、これは第三王子の陰謀かもしれない! 帝国支配の第一歩だ!」
「いや、きっと愛の力だ」
「何を馬鹿なことを……」
議論は尽きなかった。
東方連合の使節団も、宿舎から光の柱を見つめていた。
「想像以上だ」
使節団長が息を呑んだ。
「これは、もはや技術の問題ではない。哲学の、いや存在そのものの問題だ」
「我が国への軍事的脅威となり得ますな」
副使が進言した。
「いや、これを味方につければ……」
光が収まり始めた時、フィルミナの体に劇的な変化が起きた。
透明だった体が、人間とほぼ同じ形になっていた。顔立ちもより鮮明になり、髪のような構造も形成されていた。しかし、その全てが半透明の、光を宿した物質でできていた。触れると、まるで生きた水晶のような感触があり、微かに脈動していた。彼女の瞳は、深い海の底のような青から、時折虹色に変化し、見る者を魅了した。
美しく、神秘的で、人間でもスライムでもない、新しい存在。
「フィルミナ……」
レオンが、恐る恐る手を伸ばした。今度は、光の圧力はなかった。彼の手が、フィルミナの頬に触れた。
温かかった。人間と同じ体温があった。そして、その肌は絹のように滑らかで、触れた瞬間、二人の心が直接繋がったような感覚が生まれた。
「レオン……私、感じる」
フィルミナの声が、現実の声として響いた。その声には、以前にはなかった深みと、無数の存在と繋がっている者特有の重層的な響きがあった。
「帝都中の、いえ、もっと遠くのスライムたちとも繋がっている。でも、私は私のまま」
シグレが震える声で言った。
「これは……新種の生命体の誕生だ。いや、もしかすると、人類の次なる進化の形かもしれない」
エルヴィーラが興奮して叫んだ。
「第三王子殿下は、新人類を創造したのですか!?」
レオンは頭を抱えた。
「違う、これは偶然の産物で……」
研究室の扉が勢いよく開かれた。
そこには、旅装束に身を包んだ若い女性が立っていた。カドリア王国の紋章を身に着けている。彼女からは、異国の香水——薔薇と香辛料が混じった複雑な香りが漂っていた。
「初めまして、レオン様、フィルミナ様」
彼女は優雅に一礼した。
「カドリア王国第二王女、アリシアと申します」
レオンは困惑した。まさか、こんなタイミングで。
アリシアは、フィルミナを見て、一瞬息を呑んだ。しかし、すぐに理性的な表情を取り戻した。
「驚きました。報告とは全く違う」
「報告?」
「はい。スライムを兵器化したとか、人類置換計画とか」
アリシアは苦笑した。
「でも、これは……もっと素晴らしい何かですね」
彼女は一歩前に出た。
「もしかして、愛の力で進化を遂げたのですか?」
レオンとフィルミナは同時に顔を赤らめた。
「そ、そんなわけでは……」
「愛……? それは、どういう……」
二人の反応を見て、アリシアは確信した。
(なるほど、これは政治的野心ではなく、本当に純粋な研究と……感情の産物なのね)
リヴィエルが、お茶を用意しながら口を開いた。
「申し訳ございませんが、王女様がいらした目的は……」
「ああ、それは」
アリシアが振り返ろうとした時、また新たな来訪者の声が響いた。
「緊急報告!」
帝国軍の伝令が飛び込んできた。汗だくで、鎧が激しく鳴っている。
「古代遺跡から、謎の信号が発信されています!」
シグレが機器を確認した。確かに、強力な魔力反応が記録されていた。測定器の針が激しく振れ、まるで地震計のようだった。
「場所は?」
「帝都から北東に三日の距離です。そして……」
伝令は息を整えた。
「信号は、明らかに言語のパターンを持っています。まるで、誰かがメッセージを送っているような」
フィルミナが、はっとした表情を見せた。彼女の体が微かに震え、内部の光が脈動した。
「聞こえる……『同胞よ、目覚めの時が来た』」
全員が、フィルミナを見つめた。
「まさか、第二の覚醒個体が!?」
シグレが驚愕した。
「となると、帝国は二体の超存在を手に入れることに……」
ガイウスが呟いた。
「これで軍事バランスは完全に帝国優位に……」
レオンは深く、深くため息をついた。
(僕はただ、スライムの生態を研究したかっただけなのに……)
新たな謎が、彼らの前に立ち現れていた。第二の覚醒は終わったが、それは更なる冒険の始まりを告げていた。
そして、その冒険もきっと、壮大な誤解と勘違いに満ちたものになるだろう。
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