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第14話 激闘2
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「何人・・・・・・。何人残ってる?」
「あと8人だ。淑音!」
背後にいたレオが淑音を揺さぶった。そのおかげで淑音は我に返る。
もうすでに12人も殺されてしまった。
背後を振り返ると、ミリィも震えながら、じっと淑音の瞳を見つめている。
「決してここから離れないで! 一人になった瞬間狙われる!」
淑音は獣の動きを見据えながら、背後に呼びかけた。
同意する気配が伝わってくる。
何があってもこの二人を守ると決めたではないか、と淑音は唇を噛みしめた。
そして武器を構えなおしながら、自分の折れかかった心を鼓舞する。
全てを尽くす。それだけを考え、恐怖を締め出す。
祖父の教えを思い出した。
どんな時でも心を落ち着かせろ。動揺は思わぬ命取りになる。
そんな諳んじることが出来るほど聞かされた言葉を実践するのが、今日ほど難しいと感じたことはなかった。
空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。
こんなことで気持ちが落ち着くわけはなかったが、やらないよりは幾らかましだ。
ミツキ、ライジュウ、クロウもまだ奮戦していた。
ミツキは身軽さを生かしつつ、着かず離れずの絶妙な距離で絶え間なく刀を振っているし、ライジュウも体格を生かして高い位置から顔面を薙いで休息を与えない。
クロウは獣の死角から何度も突き出した刃が、有効打ではないものの注意を逸らすのに一役買っている。
熊は猛攻に少し疲れたのか、鈍重になっているように思えた。
「獣を囲む! 疲れているいまこそチャンスよ!」
淑音の指示にまだ気力を残している奴隷たちが応じた。
再び巨獣を囲むように距離を詰め、誰もが死に物狂いで獣に刃を突き立てる。
なんと、そのうちのライジュウの刃が真っ直ぐ熊の瞳を切り裂いた。
視覚をひとつ潰された熊が威嚇するように咆哮をあげ、がむしゃらに両腕を振り上げる。
手負いの獣ほど強い。先ほどとは打って変わって、素早くなった。
その動きに対応できなかった奴隷が皮膚をえぐられる。
致命傷ではなかったが腕の腱を切られたらしく、片腕がだらんと垂れ下がった。
「い、痛てえ・・・・・・!!」
「後ろに下がって!」
淑音はその奴隷の肩を掴んで強引に後ろに下がらせた。
と同時に獣の傷を負った部分に槍を振り下ろして打撃を加える。
やつが弱い場所を狙って攻めるなら、こちらもそれに倣おう。
淑音は容赦ない追撃を加えた。
振り上げた槍をはじき返されないように、向きを変え、方向を変えて、熊の顔面に連撃を加え続けた。
流石の森の王者も痛みを堪えきれなかったらしく、牙や爪を狂ったように振り回し、無理やりに距離をとる。
そして威圧するように二本足で立ち上がり再びの咆哮。
立ち上がった巨体は、誰もが見上げなければならないほど高い。奴隷たちは驚きで一瞬呼吸が止まる。
これほどの巨大な獣に立ち向かうことが、そもそもおかしい。自然の摂理に背いている。
誰もが動きを止めた時、一人だけ動きを止めなかった者がいた。淑音だ。
淑音はありったけの力を振り絞って地面を蹴った。
弾丸のように飛び出した淑音は、ようやく見えた熊の腹に向けて槍を突き上げる。
狙いはたった一つ。
脳の損傷が難しいなら、肺に穴を空ける。もし額より腹が柔らかければ、肺まで突きとおす。
だが、これは賭けだった。もし熊が抵抗したら、淑音にはそれをかわす手段がない。
それほどの覚悟で全力で懐に飛び込んでいったのは、もう後がないからだ。
奴隷たちは疲弊していたし、淑音自身これ以上戦いが長引いたら、善戦できる自信はなかった。
──届け!!
祈るような気持ちで、力をこめる。
全身の筋肉が悲鳴をあげて、淑音の無茶な挙動に抗議の声をあげる。
勿論、その声に耳を傾けるつもりはない。
仮に腕がもげたとしても、全身の骨が砕けたとしても──それ程の犠牲を払わなければ、この森の王者を屈服させることができないのだ。
幸運なことに槍の刃は、ずぶりと音をたてて獣の腹に突き刺さった。
淑音は興奮に目を見開いたが、その刃は肺まで到達しているかはわからない。
獣が問題なく呼吸しているところを見ると、まだ浅い、つまり肺まで到達していないようだった。
──もっと押し込まないと!!
槍を突き立てたまま腕に激しい痺れを感じる。びくびくと痙攣している筋肉は、長い間はこの体勢を維持できないことを示していた。
ところが獣の筋肉が刃をしっかり捕まえて引き抜くことも、さらに突き刺すことも許していない。
残念ながらこれでは刃は肺まで到達しない。
獣は身を震わせ始めたので、淑音は槍を握ったまま振り回されたが、手は決して離さない。
離すわけにはいかなかった。淑音はほとんど気力だけで、槍を強く握りしめる。
本当にこれが最後の勝利のチャンスだ。逃したら次はない。
「手を貸して!!」
淑音は絶叫する。奴隷たちは弾かれたように淑音のまわりに集まって、慌てて淑音の槍を掴んで淑音を支える。
協力して熊の内部に刃を沈めていく。
誰もが抵抗する熊の力に、体中の筋肉が悲鳴をあげ、骨がへし折れそうにさえ感じる。
それでも、刃は数ミリずつではあるが「ずぶり、ずぶり」とその皮膚に突き刺さっていく。
痛みに耐えきれなくなったのか、獣が猛烈な抵抗をみせた。
身体をよじり、自分に刃を突き立てるものを引きはがそうと両腕を伸ばしてくる。
淑音の前髪が熊の爪先が撫ぜられ、ふり乱れる。
眼球のほんの数ミリのところまで肉を切り裂く爪先が伸びてきていた。
体勢を保とうと槍を淑音を含めた数人が握りしめ、背後の数人が体を寄せて支えあう。
熊の勢いを殺しきれずに奴隷たち全身が右に左に振り寄せられる。
さながら、海の波に揉まれるように揺さぶられていた。
この手を離したらきっと死ぬ、誰もがその思いで必死にしがみ付いている。
体全体が揺さぶられるせいで、視界が上下左右に強引に向けられる。
空を。地面を。そして観客が観戦している会場が映った。
観客は熱狂している。
誰の死を今度は望んでいるのか、前のめりに状況を見守っている。
淑音は視界の端に、自分達を売った奴隷商カーミラが叫んでいるのを見た。
他の観客に負けず劣らず、大声を張り上げて試合を楽しんでいる。
「殺せ! あの女を引き裂いてしまえ!」
かえって、この場面を見つけられたのは幸運だった。
生きる力は時に敵対者の高笑いを見た時にこそ燃え上る。
──あんたの思い通りにさせるものか。
淑音は自身に残る最後の力を腕に込めた。
血管が破裂するかもしれないが、それでもよかった。
目の前のこの獣を葬ることが出来さえすれば。
しかし願いとは裏腹に、運命はまったくもって残酷だった。
運命はこう語っているようだった。
人間と熊で力比べなど、火を見るより明らかだ。この野生の王に力で挑むのがおこがましかったのだ。
次の瞬間──。
ひと固まりになった奴隷たちは熊の動きに、引きずられるように崩れるように倒れこんだ。
手は。槍を掴んでいたいくつもの手は引きはがされた。
バランス崩して倒れ伏す奴隷たちは、獣にとって無力な赤子に等しい。
「あっ!!」
倒れこんだ集団にこの凶悪な獣は、容赦なく太い腕を振り下ろしていた。
当然かわす猶予などない。
観客も、淑音たちも、コロシアムの誰もが終わりを予感した。
──駄目だった・・・・・・
息をのんだ刹那。
傍らのライジュウが、身を淑音や他の奴隷たちの前に滑らせた。
その様子がやけに鮮明に、スローモーションで淑音の瞳に映し出された。
理解が追い付かなくて、淑音は何が起こったのか一瞬わからなかった。
「メキッ……グシャ……」という骨が砕けるような、肉が切り裂かれたような生々しい音に、淑音は思わず目を閉じる。
──何が……。何が起きたの?
ゆっくりと薄目を開けると、ライジュウが身を呈して仲間たちをかばって絶命していた。
無残に骨を砕かれ、その身を切り裂かれて、それでも真っ直ぐに見開かれていた瞳は、最期の瞬間まであきらめなかった男の生きざまを示す。
お陰でほんの少し熊の腕は勢いを殺され、淑音や奴隷たちの命を摘み取り損ねていた。
「そんな・・・・・・ああ!!」
時間が緩慢に流れる時間の中で淑音は思った。
ライジュウは無意識だったのか、意図して身をねじりこんできたのか、分からない。
吹きだした血で淑音の視界は赤一色に覆われ、思わず慟哭する。
淑音はこれまで懸命に保ってきた理性が紙切れを破くように千切れ、子供のような絶叫を抑えきれなかった。
涙が溢れ、視界が歪む。涙だけではなく体中からあらゆる水分が噴き出している。
脳は理解していた。時間に余裕はない。
すぐにでも動かなければ、ライジュウが繋いでくれた命は眼前の獣にあっけなく食い散らかされる。
それなのに、身体がもはや動かない自分に激しい怒りを感じた。
──動いて! 動いてよ!
「淑音見ろ!」
淑音を正気に呼び戻したのはレオの声。
レオは必死に観客のほうを指さしてなにやら言っている。
「俺が昨日言っていた神々しいものはあれだった!」
淑音はすがるように視線をそちらに向ける。
そこに見えたのはとても信じられない存在だった。
極度の緊張が引き起こした幻影なのか、はたまた別の何かか、理由はわからないがそれは。
その人はそこにいた。
「スイレンちゃん!?」
淑音の心の拠り所であるスイレンちゃんが、そこにいた。
死の直前に見る幻影だろうか。
しかし、レオにも見えているということは幻影ではないのかもしれない。集団催眠のようなものなのか。
死を目前にして、ありえないものを目にするとしてもおかしくはないし、それほど精神的な限界を迎えていた。
それでもスイレンちゃんの姿は、オーバーヒート寸前の淑音の頭を冷静さへと引き戻してくれた。
視線を目の前の敵に向けなおし、身体が動くことを確認した淑音は今一度、奴隷の集団から飛び出していた。
──諦めない! まだだ、まだ!! ライジュウが残してくれた命を、スイレンちゃんも、全部無駄になんてしない。
槍からの痛みがいくらか緩まったせいか、熊は気を緩ませるように息を吐いていた。
以前二足歩行のままの殺戮の獣に向けて、淑音は地面を滑るように転がり、一点に向けて蹴りを放った。
槍の石突、つまり熊から突き出たままの槍の先端に全体重をのせて蹴り込んだ。
カンという甲高い音。
ずぶぶと槍はさらに熊の内部まで刃を進め、固い筋肉を切り裂き、肺の袋まで届いた。
肺を鋭い刃が傷つけて、熊は絶叫した。
──今度こそ届いた!
直感がそう告げていた。
そのまま間髪入れず、両手で槍を掴み槍を左右に激しく揺さぶったが、こうすることで両刃の槍は内部の肺を酷く損傷させることができる。
きっと今頃熊は呼吸困難を覚え始めていることだろう。
熊はよろめくように淑音とは逆の方向にバランスを崩していたが、しばらくすると、よろよろと自分が出てきた巣穴のほうに戻ろうとして──
「ゴフ……ゴフ……」
と、苦しそうに呻き、なにやら最後の頼りなげな咆哮をあげようとして……地面に伸びるように突っ伏して事切れた。
場内は静まり返り、沈黙が続いている。
そんなコロシアムの中央で肩で息をしながら、淑音は空を仰ぎ見た。
眩しいくらいにどこまでも澄み渡る空。足元には凄惨な状況が広がっているというのにもかかわらず、身勝手な空。
コロシアム上では奴隷たちの死体が転がっていて、身体が繋がっているものだけでなく、誰が誰の手足なのかも分からないものもあった。
淑音はふと身体に温もりを感じたが、それはミリィが抱き着いてきたからだ。
ふたりとも汗や涙やらでどろどろだったが、互いが生きてることを肌の温もりを通して感じる。
放心したように淑音は呟いていた。
「生き残った……」
「淑音のお陰よ」
ミリィが返答する。
レオも笑った。
結局ミツキ、クロウを含む7人がこの地獄を生き残った。
観客はようやく事態を理解し始めたらしく、このコロシアムの新たなヒーローに歓声をあげさえし始めたが、それは淑音にとって酷く不快なものだった。
結局、ここの観客は人の生き死にを楽しんで安全圏からそれを眺めている臆病者で卑怯者の集団だ。
そんな人々から与えられる賛辞をどうして嬉しいと思えるだろうか。
淑音は観衆に軽蔑の目を向けた。そして視線を下に向け、戦いの犠牲になった者たちの躯を見つめた。
「ライジュウ・・・・・・。仲間を、わたしを庇って・・・・・・」
ライジュウがどうしてそんなことが出来たかは分からない。
何もかもを諦めているような男だった。
もしかして意図せずに身体が動いたのかもしれない。
でもこのコロシアムでこの男ほど勇敢な戦士はいなかった。
それから横たわっている熊の死骸にも目を向けた。
こんな場所で殺されるための生き物ではなかった。
本来人間と戦うような生き物ではないのだ。
誰かが人の味を覚えさせ、娯楽のために鍛え上げたのだ。
舌をはみ出させながら転がっている獣の死体は、もはや脅威はなく人間に弄ばれた哀れさだけがあった。
「あと8人だ。淑音!」
背後にいたレオが淑音を揺さぶった。そのおかげで淑音は我に返る。
もうすでに12人も殺されてしまった。
背後を振り返ると、ミリィも震えながら、じっと淑音の瞳を見つめている。
「決してここから離れないで! 一人になった瞬間狙われる!」
淑音は獣の動きを見据えながら、背後に呼びかけた。
同意する気配が伝わってくる。
何があってもこの二人を守ると決めたではないか、と淑音は唇を噛みしめた。
そして武器を構えなおしながら、自分の折れかかった心を鼓舞する。
全てを尽くす。それだけを考え、恐怖を締め出す。
祖父の教えを思い出した。
どんな時でも心を落ち着かせろ。動揺は思わぬ命取りになる。
そんな諳んじることが出来るほど聞かされた言葉を実践するのが、今日ほど難しいと感じたことはなかった。
空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出していく。
こんなことで気持ちが落ち着くわけはなかったが、やらないよりは幾らかましだ。
ミツキ、ライジュウ、クロウもまだ奮戦していた。
ミツキは身軽さを生かしつつ、着かず離れずの絶妙な距離で絶え間なく刀を振っているし、ライジュウも体格を生かして高い位置から顔面を薙いで休息を与えない。
クロウは獣の死角から何度も突き出した刃が、有効打ではないものの注意を逸らすのに一役買っている。
熊は猛攻に少し疲れたのか、鈍重になっているように思えた。
「獣を囲む! 疲れているいまこそチャンスよ!」
淑音の指示にまだ気力を残している奴隷たちが応じた。
再び巨獣を囲むように距離を詰め、誰もが死に物狂いで獣に刃を突き立てる。
なんと、そのうちのライジュウの刃が真っ直ぐ熊の瞳を切り裂いた。
視覚をひとつ潰された熊が威嚇するように咆哮をあげ、がむしゃらに両腕を振り上げる。
手負いの獣ほど強い。先ほどとは打って変わって、素早くなった。
その動きに対応できなかった奴隷が皮膚をえぐられる。
致命傷ではなかったが腕の腱を切られたらしく、片腕がだらんと垂れ下がった。
「い、痛てえ・・・・・・!!」
「後ろに下がって!」
淑音はその奴隷の肩を掴んで強引に後ろに下がらせた。
と同時に獣の傷を負った部分に槍を振り下ろして打撃を加える。
やつが弱い場所を狙って攻めるなら、こちらもそれに倣おう。
淑音は容赦ない追撃を加えた。
振り上げた槍をはじき返されないように、向きを変え、方向を変えて、熊の顔面に連撃を加え続けた。
流石の森の王者も痛みを堪えきれなかったらしく、牙や爪を狂ったように振り回し、無理やりに距離をとる。
そして威圧するように二本足で立ち上がり再びの咆哮。
立ち上がった巨体は、誰もが見上げなければならないほど高い。奴隷たちは驚きで一瞬呼吸が止まる。
これほどの巨大な獣に立ち向かうことが、そもそもおかしい。自然の摂理に背いている。
誰もが動きを止めた時、一人だけ動きを止めなかった者がいた。淑音だ。
淑音はありったけの力を振り絞って地面を蹴った。
弾丸のように飛び出した淑音は、ようやく見えた熊の腹に向けて槍を突き上げる。
狙いはたった一つ。
脳の損傷が難しいなら、肺に穴を空ける。もし額より腹が柔らかければ、肺まで突きとおす。
だが、これは賭けだった。もし熊が抵抗したら、淑音にはそれをかわす手段がない。
それほどの覚悟で全力で懐に飛び込んでいったのは、もう後がないからだ。
奴隷たちは疲弊していたし、淑音自身これ以上戦いが長引いたら、善戦できる自信はなかった。
──届け!!
祈るような気持ちで、力をこめる。
全身の筋肉が悲鳴をあげて、淑音の無茶な挙動に抗議の声をあげる。
勿論、その声に耳を傾けるつもりはない。
仮に腕がもげたとしても、全身の骨が砕けたとしても──それ程の犠牲を払わなければ、この森の王者を屈服させることができないのだ。
幸運なことに槍の刃は、ずぶりと音をたてて獣の腹に突き刺さった。
淑音は興奮に目を見開いたが、その刃は肺まで到達しているかはわからない。
獣が問題なく呼吸しているところを見ると、まだ浅い、つまり肺まで到達していないようだった。
──もっと押し込まないと!!
槍を突き立てたまま腕に激しい痺れを感じる。びくびくと痙攣している筋肉は、長い間はこの体勢を維持できないことを示していた。
ところが獣の筋肉が刃をしっかり捕まえて引き抜くことも、さらに突き刺すことも許していない。
残念ながらこれでは刃は肺まで到達しない。
獣は身を震わせ始めたので、淑音は槍を握ったまま振り回されたが、手は決して離さない。
離すわけにはいかなかった。淑音はほとんど気力だけで、槍を強く握りしめる。
本当にこれが最後の勝利のチャンスだ。逃したら次はない。
「手を貸して!!」
淑音は絶叫する。奴隷たちは弾かれたように淑音のまわりに集まって、慌てて淑音の槍を掴んで淑音を支える。
協力して熊の内部に刃を沈めていく。
誰もが抵抗する熊の力に、体中の筋肉が悲鳴をあげ、骨がへし折れそうにさえ感じる。
それでも、刃は数ミリずつではあるが「ずぶり、ずぶり」とその皮膚に突き刺さっていく。
痛みに耐えきれなくなったのか、獣が猛烈な抵抗をみせた。
身体をよじり、自分に刃を突き立てるものを引きはがそうと両腕を伸ばしてくる。
淑音の前髪が熊の爪先が撫ぜられ、ふり乱れる。
眼球のほんの数ミリのところまで肉を切り裂く爪先が伸びてきていた。
体勢を保とうと槍を淑音を含めた数人が握りしめ、背後の数人が体を寄せて支えあう。
熊の勢いを殺しきれずに奴隷たち全身が右に左に振り寄せられる。
さながら、海の波に揉まれるように揺さぶられていた。
この手を離したらきっと死ぬ、誰もがその思いで必死にしがみ付いている。
体全体が揺さぶられるせいで、視界が上下左右に強引に向けられる。
空を。地面を。そして観客が観戦している会場が映った。
観客は熱狂している。
誰の死を今度は望んでいるのか、前のめりに状況を見守っている。
淑音は視界の端に、自分達を売った奴隷商カーミラが叫んでいるのを見た。
他の観客に負けず劣らず、大声を張り上げて試合を楽しんでいる。
「殺せ! あの女を引き裂いてしまえ!」
かえって、この場面を見つけられたのは幸運だった。
生きる力は時に敵対者の高笑いを見た時にこそ燃え上る。
──あんたの思い通りにさせるものか。
淑音は自身に残る最後の力を腕に込めた。
血管が破裂するかもしれないが、それでもよかった。
目の前のこの獣を葬ることが出来さえすれば。
しかし願いとは裏腹に、運命はまったくもって残酷だった。
運命はこう語っているようだった。
人間と熊で力比べなど、火を見るより明らかだ。この野生の王に力で挑むのがおこがましかったのだ。
次の瞬間──。
ひと固まりになった奴隷たちは熊の動きに、引きずられるように崩れるように倒れこんだ。
手は。槍を掴んでいたいくつもの手は引きはがされた。
バランス崩して倒れ伏す奴隷たちは、獣にとって無力な赤子に等しい。
「あっ!!」
倒れこんだ集団にこの凶悪な獣は、容赦なく太い腕を振り下ろしていた。
当然かわす猶予などない。
観客も、淑音たちも、コロシアムの誰もが終わりを予感した。
──駄目だった・・・・・・
息をのんだ刹那。
傍らのライジュウが、身を淑音や他の奴隷たちの前に滑らせた。
その様子がやけに鮮明に、スローモーションで淑音の瞳に映し出された。
理解が追い付かなくて、淑音は何が起こったのか一瞬わからなかった。
「メキッ……グシャ……」という骨が砕けるような、肉が切り裂かれたような生々しい音に、淑音は思わず目を閉じる。
──何が……。何が起きたの?
ゆっくりと薄目を開けると、ライジュウが身を呈して仲間たちをかばって絶命していた。
無残に骨を砕かれ、その身を切り裂かれて、それでも真っ直ぐに見開かれていた瞳は、最期の瞬間まであきらめなかった男の生きざまを示す。
お陰でほんの少し熊の腕は勢いを殺され、淑音や奴隷たちの命を摘み取り損ねていた。
「そんな・・・・・・ああ!!」
時間が緩慢に流れる時間の中で淑音は思った。
ライジュウは無意識だったのか、意図して身をねじりこんできたのか、分からない。
吹きだした血で淑音の視界は赤一色に覆われ、思わず慟哭する。
淑音はこれまで懸命に保ってきた理性が紙切れを破くように千切れ、子供のような絶叫を抑えきれなかった。
涙が溢れ、視界が歪む。涙だけではなく体中からあらゆる水分が噴き出している。
脳は理解していた。時間に余裕はない。
すぐにでも動かなければ、ライジュウが繋いでくれた命は眼前の獣にあっけなく食い散らかされる。
それなのに、身体がもはや動かない自分に激しい怒りを感じた。
──動いて! 動いてよ!
「淑音見ろ!」
淑音を正気に呼び戻したのはレオの声。
レオは必死に観客のほうを指さしてなにやら言っている。
「俺が昨日言っていた神々しいものはあれだった!」
淑音はすがるように視線をそちらに向ける。
そこに見えたのはとても信じられない存在だった。
極度の緊張が引き起こした幻影なのか、はたまた別の何かか、理由はわからないがそれは。
その人はそこにいた。
「スイレンちゃん!?」
淑音の心の拠り所であるスイレンちゃんが、そこにいた。
死の直前に見る幻影だろうか。
しかし、レオにも見えているということは幻影ではないのかもしれない。集団催眠のようなものなのか。
死を目前にして、ありえないものを目にするとしてもおかしくはないし、それほど精神的な限界を迎えていた。
それでもスイレンちゃんの姿は、オーバーヒート寸前の淑音の頭を冷静さへと引き戻してくれた。
視線を目の前の敵に向けなおし、身体が動くことを確認した淑音は今一度、奴隷の集団から飛び出していた。
──諦めない! まだだ、まだ!! ライジュウが残してくれた命を、スイレンちゃんも、全部無駄になんてしない。
槍からの痛みがいくらか緩まったせいか、熊は気を緩ませるように息を吐いていた。
以前二足歩行のままの殺戮の獣に向けて、淑音は地面を滑るように転がり、一点に向けて蹴りを放った。
槍の石突、つまり熊から突き出たままの槍の先端に全体重をのせて蹴り込んだ。
カンという甲高い音。
ずぶぶと槍はさらに熊の内部まで刃を進め、固い筋肉を切り裂き、肺の袋まで届いた。
肺を鋭い刃が傷つけて、熊は絶叫した。
──今度こそ届いた!
直感がそう告げていた。
そのまま間髪入れず、両手で槍を掴み槍を左右に激しく揺さぶったが、こうすることで両刃の槍は内部の肺を酷く損傷させることができる。
きっと今頃熊は呼吸困難を覚え始めていることだろう。
熊はよろめくように淑音とは逆の方向にバランスを崩していたが、しばらくすると、よろよろと自分が出てきた巣穴のほうに戻ろうとして──
「ゴフ……ゴフ……」
と、苦しそうに呻き、なにやら最後の頼りなげな咆哮をあげようとして……地面に伸びるように突っ伏して事切れた。
場内は静まり返り、沈黙が続いている。
そんなコロシアムの中央で肩で息をしながら、淑音は空を仰ぎ見た。
眩しいくらいにどこまでも澄み渡る空。足元には凄惨な状況が広がっているというのにもかかわらず、身勝手な空。
コロシアム上では奴隷たちの死体が転がっていて、身体が繋がっているものだけでなく、誰が誰の手足なのかも分からないものもあった。
淑音はふと身体に温もりを感じたが、それはミリィが抱き着いてきたからだ。
ふたりとも汗や涙やらでどろどろだったが、互いが生きてることを肌の温もりを通して感じる。
放心したように淑音は呟いていた。
「生き残った……」
「淑音のお陰よ」
ミリィが返答する。
レオも笑った。
結局ミツキ、クロウを含む7人がこの地獄を生き残った。
観客はようやく事態を理解し始めたらしく、このコロシアムの新たなヒーローに歓声をあげさえし始めたが、それは淑音にとって酷く不快なものだった。
結局、ここの観客は人の生き死にを楽しんで安全圏からそれを眺めている臆病者で卑怯者の集団だ。
そんな人々から与えられる賛辞をどうして嬉しいと思えるだろうか。
淑音は観衆に軽蔑の目を向けた。そして視線を下に向け、戦いの犠牲になった者たちの躯を見つめた。
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ライジュウがどうしてそんなことが出来たかは分からない。
何もかもを諦めているような男だった。
もしかして意図せずに身体が動いたのかもしれない。
でもこのコロシアムでこの男ほど勇敢な戦士はいなかった。
それから横たわっている熊の死骸にも目を向けた。
こんな場所で殺されるための生き物ではなかった。
本来人間と戦うような生き物ではないのだ。
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