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第26話 酒場での戦慄
しおりを挟む結論から言うと淑音とその男の会話は長く続かなかった。なぜなら酔っ払った男達が、乱闘騒ぎを起こしたからだ。
高級宿とはいえ、お酒の席ではこういうことが起こるケースはゼロではない。
「てめえ! 前々から言おうと思っていたんだがな! 酔う度に昔の自慢話を聞くのはいい加減うんざりなんだよ!」
「なんだと! 酒の席くらい好きなことを話たって別に良いじゃねえか!」
争いは当人達以外には、全くもってどうでもいいことで巻き起こっていた。
とはいえ大の男ふたりが本気で暴れだせば、笑い事では済まないくらいの被害が及ぶものだ。
正気を失った男達が絡み合いながら、隣りのテーブルごと派手に転がった。ガシャンと、隣の席の皿やら酒やらが飛び散って床に撒き散らされる。
緩慢な動きながら、男たちは掴み合いの喧嘩をはじめた。
周りの席を巻き込みながら、拳を振るい、足を上げる。
一番近くにいたミリィが、危うく巻き込まれそうになっているのに気づいて、淑音は床を蹴ってそちらに身を向けた。
瞬間、ミリィの身体を庇うように淑音が抱きつき、その勢いのまま男たちの乱闘の場所から距離をとる。
間一髪で男たちと接触するのを避けられて、淑音とミリィは安堵で息を吐いた。
「ミリィ。大丈夫?」
「あたしは大丈夫だよ」
男たちはもう自分たちでも収拾がつかなくなっているようで、無軌道な動きで掴みあったり、投げ飛ばしたりを続けている。
周りの客達は迷惑そうにしながらも為す術なく、その様子を見守っていた。
そんな中動いた人物は、三人いた。
ひとりは淑音で、双方を無力化しようと駆け出していた。もうひとりはチサトであり、ロウドの身を守るためにやむなくと言う感じで同じように走り出していた。
もうひとりは意外なことに、淑音とさっきまで話していた優男だ。そして、三人の中で一番速かった。
腰に付けた剣を鞘を抜かないまま構えて、目にも止まらない速度で男たちの向こう脛に一撃ずつ加えたのが、淑音にはぎりぎり目で追えた。
早過ぎてこの場にいる他の客──淑音とチサト以外には何が起こったか分からなかっただろう。
突然、足に激しい痛みを覚えた酔っ払いたちは、転がるようにうずくまった。
「痛てぇ!」
「なんだ!?」
一様に痛みを訴えていて、こうなればもう喧嘩どころではないだろう。事態は呆気なく収集する。
優男はそのまま涼しい顔をして、混乱のせいで誰のかもはや分からなくなった酒の器を拝借して、一気に煽っていた。
「だめですよ。お酒は楽しく飲まなくちゃあ」
と、緊張感もなく鼻歌混じりに言っている。
勿論、誰もその男が何かしたとは、気づいていないはずだ。
素早く淑音の脇に寄ってきたチサトが、淑音だけに聞こえるよう声を潜めて言う。
「何者です!?」
「わ、分からない……」
チサトの声には緊張が浮かんでいた。剣をかじったものなら分かる異常さを、その男は持っていたからだ。勿論淑音も同様だ。
男の動きには前兆がなく、瞬間も殺意や敵意すら感じさせなかった。あたかも風のようにいつの間にかそこに居て、いつの間にか居なくなる。
実際淑音にも、男の実力は図りかねた。大した腕はないと感じていたからだ。
もし、敵だったとしたら淑音やチサトは攻撃を察知する前に首をかき切られていたかもしれない。そう考えると、背筋に怖気が走った。
「とにかく念の為、わたしはロウド様の傍についています」
「分かった」
チサトと目配せし合って、淑音は再び男を見る。自分の意思で見ていると言うより、本能が発する警告が男から目を逸らすなと叫んでいたからだ。
大袈裟ではなく、コロシアムで獣と対峙した時と同じように、生きた心地がしなかった。
「お、お姉ちゃん。もう少し、お話しようや」
男は、何も無いように淑音を手招きしている。
淑音は、店内の喧騒が聞こえていなかった。ただ男が発するいかなるサインも、決して見逃すまいと全神経を集中させる。
恐る恐る再び席に座り、男と対峙する。
「どうした? 怖い顔して」
言われて初めて淑音は、自分の顔が強ばっているのに気がついた。
「い、いえ」
「酔っ払いの騒ぎを見りゃあ、無理もないか」
「はい。そうですね……」
淑音は自分の動揺を悟られまいと、懸命に自分をなだめた。
──大丈夫だ。男が何かしようとしたら、すぐ剣の届かないところまで距離をとって……それから──
ふいに、淑音の思考を妨げるように
「もしかして……、見えていたのか?」
と、男が言った。
ぞく、と淑音は背中越しに恐怖の音を聞いた。
それから男がゆっくりと、淑音の首の方から順に、顎、鼻、目と目線を上げていく。
ぞくりと全身の毛が逆立って止まらない。
思わず淑音は椅子ごと身を引いて、男と距離をとる。もはや耐えきれなかった。
男の目が見開かれた。
「驚いた。あれが見えるってことは、お前……」
店内は酔っ払い達を追い出して、倒れてしまったテーブルや椅子を並べ直し、徐々にいつもの賑やかさを取り戻しつつあった。
ただここだけ。男と淑音の周りだけが、凍り付くような緊張に襲われている。
いや、男の方は涼しげで顔色を失っているのは淑音だけだ。
一体、どれくらいの沈黙が続いていたのだろう。
一分、いや数十秒であったかもしれない。
そんな沈黙は意外なところから、打ち破られる。
「ごめんなさいね。そろそろ忙しくなってきたから、お客さんの相手はまた今度ね!」
いつの間にか戻ってきた宿娘が、元気な声で割り込んできた。有無を言わせない感じで、淑音の手を引き厨房の方へと向かいだす。
「ちょっ、ちょっと待て。少しその娘と話をさせてくれ」
と、男が慌てたような声を出す。
「お客さん。また明日来な。明日なら、もう少し暇かもしれない。そうしたらこの子にまた相手をさせるからさ」
ユラハの方は無責任な約束だけして、足を止めることはなかった。
一瞬、淑音はユラハが異常を察知して助け舟を出してくれたのかと思ったが、厨房の慌ただしさからすると本当にただ忙しいだけのようだ。
それでも、淑音は心から助かったと思った。ユラハの背中を追いかけて、逃げるように厨房に入る。
そして、あの男は一体何者なのだろうと疑問を抱く。
「この料理運んどくれ!」
ユラハの怒声が響き、淑音には思考する余裕は与えられなかった。
それからの時間は、目の回るような忙しさで、店内とあちらこちら行き巡っているうちに気づけば、あの男の姿は消えていた。
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