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逃亡編
できる限り引き止めて
しおりを挟む「ばあちゃんにも挨拶していってくれるか? 」
診療所を出るとトムソンが変な顔して言った。
「そのつもりです。その顔は怒ってる顔ですか? 」
「ちげーよ。なんか複雑な顔だ」
「少なからず怒っている」
「かもしれない」
「すいません。偽名使って。色々嘘ついて」
「謝られても変な感じだからそんなに怒ってないみたいだ」
トムソンは笑った。
「ありがとう」
「礼も変だな」
トムソンは何も聞いてこずただ笑って終わらせた。そしてシズは言っておこうと思った。
「おっさん」
「なんだ? 」
「この前一緒に昼飯食べていた時隣の客が遊び人の悪口言っただろう」
トムソンは少し黙って、
「それが? 」
と言った。
「それでおっさんグラス割っただろう」
「ああ」
トムソンは顔を苦くして、地面を見つめた。
「私はあれが小さい事だとは思えない」
「え? 」
トムソンはなぜか半笑いで顔を上げた。
「大きい事でもないけど」
「上げて落とすな、ルー。じゃなくて、なんだっけ? 」
「カンダ。シズ・カンダ。けどルーでいいよ」
「じゃあルー」
「大きい事じゃない。けどおっさんがグラスを割ったからあの客たちは遊び人を悪く言うのをやめた」
「話が逸れただけだ。またどっかで言うさ」
「うん。そう思う。けどあの場では止めた。おっさんはどっちの気持ちも分かるんだよ。だから曖昧なんだ。けど止めようとした。コップを割って止めた。真正面から闘う奴もこの世に必要だけど、そんな奴らばっかじゃうまくいかない。その場しのぎでも引き止める人間は人のためになる」
「……なんで今そんな話したんだ」
「オードは私にとって割れたグラスだった」
「え? 」
「ここに来て、立ち止まれて振り返れた。あのままだったら絶望に己惚れて突き進むだけだった。ここマシントに来ておっさんに会って、アンさんとドクターとも出会って話して、私は考える時間を貰った。そして自分を引き止められた。だから引き返せそうだ」
「……アベンチュレに戻るんじゃなかったって思うかもしれないぞ」
「そう思ったら何かいい言い訳を考えないとな」
シズがそう微笑めば、トムソンもただ微笑んだ。
二〇一号室に行き、シズはアンに話した。アンは「あらまあ」と少しだけ驚いた。そして大変だったわねぇと穏やかに零した。シズは謝った。そしたらアンは言った。
「あなたは抗ったのよ。生きるということは抗っているってことだから。あなたは心の奥で生きようとしていたのよ。抗おうとする強い力をあなたは持っている。何かに負けそうになったら、食べて、眠って、ただ生きなさい。生きていけば抗える力は持てるから」
アンはシズの頬を両手で包み込んだ。
「いくら力があっても先の事が不安よね。心配な事が沢山あるわよね。私も心配ばかりして生きてきた。でも見てのとおり長生きできた。いっぱい心配して大丈夫だからね。いっぱい心配して、されて、生きていきなさい」
そしてアンは何かのまじないのようにおでこをくっつけた。その行為に母性を感じまた寂しくなって、シズは泣きそうになった。けど、もう涙は出なかった。
「けど寂しくなるわね。せっかく仲良くなれたのに」
「そう言って貰えて嬉しい」
「本当に思っているのよ。あなたは遠くへ行くのね。私はもう行けない所ね」
アンは悲しそうに言って窓の外を見た。私シズ言葉を探した。
「ばあちゃん、どっか行きたい所があるか? 」
するとトムソンが尋ねた。アンは窓から視線を外すと、立っているトムソンの顔を見上げた。
「ばあちゃん、パズートに来てからここから遠くに行った事ないだろう? 人生終わってしまうのに心残りは減らした方がいいだろう? 今なら俺どうやってでもばあちゃんの行きたい所連れていくよ」
必死なトムソンにアンは少し驚き、微笑んだ。そして首を振った。
「ここがいいよ。ここにいたい」
トムソンが唇を噛む。そしてベッドの傍まで来ると膝を付いた。今度はトムソンがアンを見上げた。
「食べたい物は? 」
「あんたの作るもんはウマいからね。私が作るものを食べてくれたら嬉しいね」
「欲しいものは? 」
「そうだね。花がいい。窓辺に飾る花が欲しい」
シズがあげた花はまだ窓辺の花瓶にささっていた。
「なんかもっと、なんかもっとないのかよ」
トムソンの声は情けなかったが、それは懇願だった。トムソンにとってアンは生きてこられた理由だった。遊び人であるがゆえに得た理不尽の埋め合わせをしたいのだ。埋まるなんて思っていない。思っていないがしたいのだ。与えたいのだ。
「そうだね、じゃあトムソン。私が死ぬまでここで一緒に住んでおくれ」
「そのつもりだ」
「そしたら私がいよいよ死ぬとなった時、傍にいて私の手を握り死ぬなと言ってくれ。あんたが私をできる限りこの世に、引き止めておくれ」
引き止める。その一言にトムソンは息を小さく吸った。
「そしたらそんなあんたを最後まで心配しながら死んでいけるからさ」
トムソンは泣いた。いいおっさんなのに子どものように泣いた。そんな孫の頭にアンは包み込むように手を置いた。トムソンはとても嬉しくてとても寂しくなったのだ。
シズは私もまたいつか泣くだろうと思った。過去が懐かしくて、寂しくて泣くだろう。泣く行為は抗いなのかもしれない。寂しさやどうしようもないものに抗う為に涙を流す。そう考えるとあの日から馬鹿みたいに泣いた私は必死に抗っていたのか。これもまた言い訳なのかもしれない。
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