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第一章
讃美歌
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翌朝、ユーゴは物音で目を覚ました。下階で誰かが動き回っている音がする。
何の音だろう? と考えながら起き上がり、昨夜レイに拾われたんだったと思い出し、それからくるりと周囲を見渡した。見慣れない部屋だ。がらんとした空間に、今ユーゴが寝ているベッドだけが置かれている。この家の二階にあるこの部屋は元々空き部屋だったらしい。そこに昨夜ユーゴとレイで書庫からベッドを運んだのだ。昨夜レイに拾われたユーゴが最初に寝かせられていたベッドだ。
レイの前にこの家を使っていた祭司は研究熱心な人だったらしく、書庫に仮眠用のベッドを置いていたのだという。レイが越してきてからもそのベッドはそのままそこに置かれていたけれど、前任の祭司と違ってレイには歴史や教典を朝まで書庫に籠もって研究するような趣味はなかったらしい。
ふたりでベッドを運びながら、これはじめて活躍した。とレイは楽しそうに話していた。
何が楽しいのかユーゴにはさっぱりわからなかった。
ベッドを運び終えると、次にレイはユーゴをバスルームに押しこんでピカピカになるまで洗った。その時もレイは終始上機嫌で楽しそうだった。
ただ、ユーゴが洗髪を嫌がった時だけはちょっとムッとした顔をしていた。仕方なく、昔人間に捕まって角を折られてしまったことと、今も角はなくその部分を触られると鳥肌が立つので触られたくないのだと伝えた。その後、レイは極力角があった場所は触らないように配慮してくれていたけれど、しばらくは眉間に深く深く皺を寄せて変な顔をしていた。
ああいう表情のレイは怖くて嫌だな。と思う。笑っている方が絶対にいい。
……まあ、人間なんてどんな顔をしていても、腹の中で何を考えているかわからないけれど。
そんなことを考えながらベッドを降りると、今度はパタパタと階段を駆け上がってくる音がした。
ユーゴがそうっとドアを開けて外の様子を窺うと、向かいの部屋のドアを開けようとしていたレイがパッとこちらを向いた。昨夜と同じ黒衣を着ている。
「あ。おはよう。ゆーちゃん」
「お、おはよう、ございます。あの……、昨日も言いましたけど、変な名前で呼ぶのやめてください」
「えーっ!! 何で? 可愛いのに」
「……可愛くなくて、いいです」
ユーゴがそう言うとレイはまた、えー! と不満そうな声をあげる。それから一、二歩距離を詰めると、ユーゴの顔をじっと見つめてくる。ユーゴは驚いて上体を引いた。
「ゆっくり眠れた?」
問われたことの意味が上手く咀嚼できなくて、ユーゴはパチパチと目を瞬かせた。
ユーゴは悪魔だ。睡眠なんて三日くらい取らなくても平気だし、そもそも決まった時間に寝る習慣もない。寝たか寝なかったかと聞かれれば、ちゃんと寝た。きっと眠れないと思いながらベッドに入ったのに、気が付いたらもう朝で驚いた。ふかふかの布団には何か仕掛けがあったのかと思ったほどだ。
でも、ユーゴが寝ようと寝まいとレイには関係がない。何故そんなことを訊くのか不思議だったけれど。
「…はい」
正解がわからないままそう答えると、よかったとレイが笑った。
「もう起きとるから寝れんかったんかと思った。……あ。おれがうるさくて起きた?」
「あ、いえ…」
「ごめんね。おれ、これから朝の礼拝なんやけど寝坊して……ヤバっ」
そう言うと、レイは慌てたようにドアを開けて部屋に入り、すぐに凝った装飾のついた本を抱えて出てきた。それからもう片方の手に持っていた黒い布をユーゴに押し付けてくる。
「ゆーちゃんが昨日着てた服、ボロボロだったから捨てちゃった。代わりにそれ、着てて」
「え……」
「おれと身長あんま変わらんし、着れるやろ」
それだけ言うとレイはパタパタと階段を降りていく。
「あ、あの……っ!!」
慌てて呼び止めると、レイは足を止めてユーゴを見上げた。
「好きにしててええよ。見たかったら礼拝見に来てもいいし、ゆーちゃんに任せる」
「ええー……」
どうしよう?
ユーゴの返事を待たずに、レイは視界から消えてしまう。押し付けられた服を抱えまま、ユーゴはしばらくその場から動けなかった。
教会は、家を出てすぐ隣にあった。
おっかなびっくりユーゴが教会に入ると、中には十数人ほどの人が長椅子に座っていて、朝の礼拝がはじまるのを待っているようだった。
なるべく気配を消すようにして、ユーゴはいちばん後ろの端にそっと座った。
レイがユーゴに渡してきた服はレイの祭司服だった。黒いスラックスと前立てに控えめなフリルのついた白いシャツ、その上から長い衣を羽織るようになっている。他に着るものもないので、仕方なくパジャマから渡された服に着替えてきたけれど、裾が長くて着慣れないし、なんだか落ち着かない。
そもそも着方はこれで合っているんだろうか? なんて考えているうちに、レイが壇上に上がり「おはようございます」と話をはじめる。意味もなく、ユーゴは緊張した。
「では今日は、詩篇十四章の二節を」
レイが先ほどの凝った装飾の本を捲った。
あれが聖典か。と思っていると、すうとレイが息を吸い込む音がする。
レイの声は、教会の中に良く響いた。
高くなく低くもない、聞き取りやすくて心地のいい声。あの、気の抜けるような訛りも、詩篇を朗読している間は出てこない。
ユーゴはパチパチと瞬きをした。
あれは誰だろう? さっき会った人と本当に同じ人だろうか? とぼんやりその姿を眺めていると、詩篇の朗読が終わりレイがパタンと本を閉じる。それから。
─────あ……っ。
レイが再度すうっと大きく息を吸い込み、神を賛美する歌を歌いはじめると、空気が震えた。
旋律がキラキラと輝いているような錯覚がして、ユーゴはあわてて目を擦った。それでも視界に映る景色は変わらない。
背後のステンドグラスから射す日に照らされてレイのプラチナブロンドが虹色に輝き、その周囲の空気も輝いて見える。
甘く透き通っていて、何処か温かみを感じさせる声。耳から入ってきた音で脳がじんと痺れるような気がして、ユーゴはそっと目を伏せた。
誰かの話し声で、ユーゴはハッと我に返った。気が付けば礼拝は終わっていて、帰宅する人の列が出口に向かって出来ている。開け放たれた教会のドアの脇にはレイが立っていた。
「今日も仕事がんばって」
「あんまり張り切りすぎてもアカンよ」
「痛めた足、早く良くなるとええね」
そうやってひとりひとりに声をかけてその手を取り、甲にキスをしていく。後で聞いたら「今日いちにち無事に過ごせますように」というおまじないらしいのだが、レイの祝福を受けた人々は皆、幸せそうな顔をしていた。
「ゆーちゃん?」
何となく動く気になれなくて長椅子に座ったままじっとしていると、最後のひとりを見送ったレイが近寄ってきた。
「もしかして気分悪い?」
心配そうに下から顔を覗き込まれて、ユーゴはあわてて首を横にふる。
「大丈夫です」
そう? とまだ心配そうに聞いて、大丈夫なら良かったとふにゃりと笑う。
さっきまでの神々しさは何処に行ってしまったのか、すっかり今朝の彼に戻っていた。
「……歌、上手なんですね」
「そう? まあ仕事やからね。でも褒めてもらえるんは嬉しいなぁ」
「別に褒めてません」
「えーっ!! 褒めてよ!」
教会の入り口を閉めながら、レイが頬を膨らませる。ユーゴが彼を待たずに歩きだすと、小走りにその後を追ってきた。
「本当は褒めたんよね?」
「褒めてません」
「ゆーちゃんの意地悪っ!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐレイを無視してすぐそこに見える家を目指す。何故だか勝手に頬が緩んでくるのが不思議だった。
何の音だろう? と考えながら起き上がり、昨夜レイに拾われたんだったと思い出し、それからくるりと周囲を見渡した。見慣れない部屋だ。がらんとした空間に、今ユーゴが寝ているベッドだけが置かれている。この家の二階にあるこの部屋は元々空き部屋だったらしい。そこに昨夜ユーゴとレイで書庫からベッドを運んだのだ。昨夜レイに拾われたユーゴが最初に寝かせられていたベッドだ。
レイの前にこの家を使っていた祭司は研究熱心な人だったらしく、書庫に仮眠用のベッドを置いていたのだという。レイが越してきてからもそのベッドはそのままそこに置かれていたけれど、前任の祭司と違ってレイには歴史や教典を朝まで書庫に籠もって研究するような趣味はなかったらしい。
ふたりでベッドを運びながら、これはじめて活躍した。とレイは楽しそうに話していた。
何が楽しいのかユーゴにはさっぱりわからなかった。
ベッドを運び終えると、次にレイはユーゴをバスルームに押しこんでピカピカになるまで洗った。その時もレイは終始上機嫌で楽しそうだった。
ただ、ユーゴが洗髪を嫌がった時だけはちょっとムッとした顔をしていた。仕方なく、昔人間に捕まって角を折られてしまったことと、今も角はなくその部分を触られると鳥肌が立つので触られたくないのだと伝えた。その後、レイは極力角があった場所は触らないように配慮してくれていたけれど、しばらくは眉間に深く深く皺を寄せて変な顔をしていた。
ああいう表情のレイは怖くて嫌だな。と思う。笑っている方が絶対にいい。
……まあ、人間なんてどんな顔をしていても、腹の中で何を考えているかわからないけれど。
そんなことを考えながらベッドを降りると、今度はパタパタと階段を駆け上がってくる音がした。
ユーゴがそうっとドアを開けて外の様子を窺うと、向かいの部屋のドアを開けようとしていたレイがパッとこちらを向いた。昨夜と同じ黒衣を着ている。
「あ。おはよう。ゆーちゃん」
「お、おはよう、ございます。あの……、昨日も言いましたけど、変な名前で呼ぶのやめてください」
「えーっ!! 何で? 可愛いのに」
「……可愛くなくて、いいです」
ユーゴがそう言うとレイはまた、えー! と不満そうな声をあげる。それから一、二歩距離を詰めると、ユーゴの顔をじっと見つめてくる。ユーゴは驚いて上体を引いた。
「ゆっくり眠れた?」
問われたことの意味が上手く咀嚼できなくて、ユーゴはパチパチと目を瞬かせた。
ユーゴは悪魔だ。睡眠なんて三日くらい取らなくても平気だし、そもそも決まった時間に寝る習慣もない。寝たか寝なかったかと聞かれれば、ちゃんと寝た。きっと眠れないと思いながらベッドに入ったのに、気が付いたらもう朝で驚いた。ふかふかの布団には何か仕掛けがあったのかと思ったほどだ。
でも、ユーゴが寝ようと寝まいとレイには関係がない。何故そんなことを訊くのか不思議だったけれど。
「…はい」
正解がわからないままそう答えると、よかったとレイが笑った。
「もう起きとるから寝れんかったんかと思った。……あ。おれがうるさくて起きた?」
「あ、いえ…」
「ごめんね。おれ、これから朝の礼拝なんやけど寝坊して……ヤバっ」
そう言うと、レイは慌てたようにドアを開けて部屋に入り、すぐに凝った装飾のついた本を抱えて出てきた。それからもう片方の手に持っていた黒い布をユーゴに押し付けてくる。
「ゆーちゃんが昨日着てた服、ボロボロだったから捨てちゃった。代わりにそれ、着てて」
「え……」
「おれと身長あんま変わらんし、着れるやろ」
それだけ言うとレイはパタパタと階段を降りていく。
「あ、あの……っ!!」
慌てて呼び止めると、レイは足を止めてユーゴを見上げた。
「好きにしててええよ。見たかったら礼拝見に来てもいいし、ゆーちゃんに任せる」
「ええー……」
どうしよう?
ユーゴの返事を待たずに、レイは視界から消えてしまう。押し付けられた服を抱えまま、ユーゴはしばらくその場から動けなかった。
教会は、家を出てすぐ隣にあった。
おっかなびっくりユーゴが教会に入ると、中には十数人ほどの人が長椅子に座っていて、朝の礼拝がはじまるのを待っているようだった。
なるべく気配を消すようにして、ユーゴはいちばん後ろの端にそっと座った。
レイがユーゴに渡してきた服はレイの祭司服だった。黒いスラックスと前立てに控えめなフリルのついた白いシャツ、その上から長い衣を羽織るようになっている。他に着るものもないので、仕方なくパジャマから渡された服に着替えてきたけれど、裾が長くて着慣れないし、なんだか落ち着かない。
そもそも着方はこれで合っているんだろうか? なんて考えているうちに、レイが壇上に上がり「おはようございます」と話をはじめる。意味もなく、ユーゴは緊張した。
「では今日は、詩篇十四章の二節を」
レイが先ほどの凝った装飾の本を捲った。
あれが聖典か。と思っていると、すうとレイが息を吸い込む音がする。
レイの声は、教会の中に良く響いた。
高くなく低くもない、聞き取りやすくて心地のいい声。あの、気の抜けるような訛りも、詩篇を朗読している間は出てこない。
ユーゴはパチパチと瞬きをした。
あれは誰だろう? さっき会った人と本当に同じ人だろうか? とぼんやりその姿を眺めていると、詩篇の朗読が終わりレイがパタンと本を閉じる。それから。
─────あ……っ。
レイが再度すうっと大きく息を吸い込み、神を賛美する歌を歌いはじめると、空気が震えた。
旋律がキラキラと輝いているような錯覚がして、ユーゴはあわてて目を擦った。それでも視界に映る景色は変わらない。
背後のステンドグラスから射す日に照らされてレイのプラチナブロンドが虹色に輝き、その周囲の空気も輝いて見える。
甘く透き通っていて、何処か温かみを感じさせる声。耳から入ってきた音で脳がじんと痺れるような気がして、ユーゴはそっと目を伏せた。
誰かの話し声で、ユーゴはハッと我に返った。気が付けば礼拝は終わっていて、帰宅する人の列が出口に向かって出来ている。開け放たれた教会のドアの脇にはレイが立っていた。
「今日も仕事がんばって」
「あんまり張り切りすぎてもアカンよ」
「痛めた足、早く良くなるとええね」
そうやってひとりひとりに声をかけてその手を取り、甲にキスをしていく。後で聞いたら「今日いちにち無事に過ごせますように」というおまじないらしいのだが、レイの祝福を受けた人々は皆、幸せそうな顔をしていた。
「ゆーちゃん?」
何となく動く気になれなくて長椅子に座ったままじっとしていると、最後のひとりを見送ったレイが近寄ってきた。
「もしかして気分悪い?」
心配そうに下から顔を覗き込まれて、ユーゴはあわてて首を横にふる。
「大丈夫です」
そう? とまだ心配そうに聞いて、大丈夫なら良かったとふにゃりと笑う。
さっきまでの神々しさは何処に行ってしまったのか、すっかり今朝の彼に戻っていた。
「……歌、上手なんですね」
「そう? まあ仕事やからね。でも褒めてもらえるんは嬉しいなぁ」
「別に褒めてません」
「えーっ!! 褒めてよ!」
教会の入り口を閉めながら、レイが頬を膨らませる。ユーゴが彼を待たずに歩きだすと、小走りにその後を追ってきた。
「本当は褒めたんよね?」
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