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41. 夜道
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そんな風に悩みながら迎えた翌週のことだった。
ノエル先生のはからいで、ずっと朝から夕方までのシフトにしてもらっていたけれど、その日は夕方近くになって突然運び込まれた重傷患者の対応に追われ、院内は緊迫した空気が漂った。帰り支度を始めていた私は、顔面蒼白で飛び込んできた男性と、別の二人の男性に抱えられて入ってきた意識のない女性を見てすぐさまノエル先生の元に走った。
「う、うちの看板女優なんです……! 公演中に舞台装置が倒れてしまい……!」
どうやら近くの劇場で起こった事故らしい。出血が止まらない女性の周りでオロオロと慌てふためく男性をなだめながら、私も自分にできる限りのお手伝いをする。
かなり出血していたし、内臓にも大きな損傷がみられた女性だったけれど、幸いにもその命を繋ぐことができた。全回復するまでに数日間は院内で経過観察をする必要があり、女性はそのまま入院となった。私は他の従業員たちと共に部屋とベッドを準備し、手続きなどを行った。
「遅くなってしまいましたね。大丈夫ですか? レイニーさん。この際ですから、もうしばらく院内で待っていてくれませんか。私が保育園と寮までお送りしましょう」
一通り終わって今度こそ帰ろうと上着を羽織っていると、ノエル先生が気遣わしげにそう声をかけてきてくださった。私は笑みを浮かべて先生に答える。
「いえっ、大丈夫です! 今日は保育園に遅くなる連絡を入れていないので、このまま走ってお迎えに行きます! ありがとうございます、ノエル先生」
私の言葉を聞いた先生は、ほんの少し眉尻を下げると、念を押すように言った。
「……くれぐれも、気を付けてくださいね。何かあったらすぐに大きな声を出して、大通りまで戻ってください。保育園の周りはこの時間あまり人気がないので、心配です」
「ふふ。ありがとうございます。ちゃんと気を付けますので平気です。園も寮も、徒歩数分ですしね。ダッシュで帰りますから」
私はそう言うと、「お疲れ様でした!」と元気よく挨拶をして、治療院を後にした。
宣言通り猛ダッシュで保育園へ向かい教室に飛び込むと、一目散にユーリのところへ行き、思いっきり抱きしめた。今日は子持ちの女性陣は夕方までのシフトばかりだったため、もう他の子どもは誰一人残っていない。さすがのユーリも抱き上げた私の首にムギュッと抱きつき、瞳を潤ませた。
「ごめんねぇユーリ! 本当にごめん! まさかこんなに遅くなっちゃうとは……! 先生もすみません。遅くまでありがとうございました!」
ユーリと遊んでくれていた若い保育士の女性はニコニコしながら私たちのことを見ている。
「ふふ。いえいえ。お仕事お疲れ様です。ユーリくん、ずっといい子にしていましたよ。でもやっぱり皆帰っちゃうと寂しかったみたいで、何度も入り口のドアを見つめていました。……よかったね、ユーリくん。やっとママに抱っこしてもらえたね」
「…………まま」
小さく漏らしたユーリの顔を覗き込むと、真ん丸のおめめをウルウルさせながら小刻みに震え、唇をギュッと噛みしめていた。いじらしさに胸が締め付けられる。保育士さんが気遣わしげに微笑んだ。
「今日は大好きなコレット先生もお休みでいなかったから、余計に寂しかったみたいで……」
「そうなんですね。……よしよし。帰ろうねユーリ。一緒にご飯食べて、お風呂に入って、ねんねしようね。ママねぇ、明日はお休みをもらえたんだよ。ふふ、珍しいでしょ? 平日のお休み。滅多にないよー。何しよっか。あ! そうだ。一緒にララちゃんにお手紙書く? こないだもらったお手紙のお返事書こうか、ユーリ」
抱っこしたままそんな風に話しかけながらドアの方に歩いていると、ユーリはパッと顔を上げ、私に向かってニパッと笑った。
「まま、おやしゅみ? うんっ! ゆーり、ららしゃんに、おてがみ、かくっ! ままといっしょに、かくっ!」
「ふふ。じゃあそうしよう。……では、失礼します。ありがとうございました」
最後に振り返って先生に挨拶すると、ユーリも私の腕に抱かれたまま先生に手を振った。
「しぇんしぇい、ばいばーい」
「はぁい。また明後日ね、ユーリくん。おやすみなさーい」
若い保育士さんは最後まで優しく見送ってくれた。
「まま、ごはん、なぁに? ばんごはん」
「えっとねー、今夜は昨日の残りのスープとー……、何にしようか。遅くなっちゃったから、パンを焼くだけでもいい? チーズたっぷり乗っけてあげるから」
「わぁい! ちーすぱん! ちーすぱんたべたーい!」
「ふふふ。明日はもっとご馳走作るからね~」
すでに真っ暗になった夜道を歩きながら、目の前に見えている従業員寮の建物へと私は真っ直ぐに歩いていた。ユーリは私に抱っこされたまま、私の頬にチュッチュとキスを繰り返している。あぁ、幸せ……。一日の最高のご褒美だわ……。
なんて思いながら、ユーリと前だけを見ていた私は、たしかに油断していたのだ。
寮の玄関口まで、あとほんの少しだった。
突然背後から大きな手で、口を塞がれた。
驚いて固まった瞬間、腕の中のユーリが消えた。
ノエル先生のはからいで、ずっと朝から夕方までのシフトにしてもらっていたけれど、その日は夕方近くになって突然運び込まれた重傷患者の対応に追われ、院内は緊迫した空気が漂った。帰り支度を始めていた私は、顔面蒼白で飛び込んできた男性と、別の二人の男性に抱えられて入ってきた意識のない女性を見てすぐさまノエル先生の元に走った。
「う、うちの看板女優なんです……! 公演中に舞台装置が倒れてしまい……!」
どうやら近くの劇場で起こった事故らしい。出血が止まらない女性の周りでオロオロと慌てふためく男性をなだめながら、私も自分にできる限りのお手伝いをする。
かなり出血していたし、内臓にも大きな損傷がみられた女性だったけれど、幸いにもその命を繋ぐことができた。全回復するまでに数日間は院内で経過観察をする必要があり、女性はそのまま入院となった。私は他の従業員たちと共に部屋とベッドを準備し、手続きなどを行った。
「遅くなってしまいましたね。大丈夫ですか? レイニーさん。この際ですから、もうしばらく院内で待っていてくれませんか。私が保育園と寮までお送りしましょう」
一通り終わって今度こそ帰ろうと上着を羽織っていると、ノエル先生が気遣わしげにそう声をかけてきてくださった。私は笑みを浮かべて先生に答える。
「いえっ、大丈夫です! 今日は保育園に遅くなる連絡を入れていないので、このまま走ってお迎えに行きます! ありがとうございます、ノエル先生」
私の言葉を聞いた先生は、ほんの少し眉尻を下げると、念を押すように言った。
「……くれぐれも、気を付けてくださいね。何かあったらすぐに大きな声を出して、大通りまで戻ってください。保育園の周りはこの時間あまり人気がないので、心配です」
「ふふ。ありがとうございます。ちゃんと気を付けますので平気です。園も寮も、徒歩数分ですしね。ダッシュで帰りますから」
私はそう言うと、「お疲れ様でした!」と元気よく挨拶をして、治療院を後にした。
宣言通り猛ダッシュで保育園へ向かい教室に飛び込むと、一目散にユーリのところへ行き、思いっきり抱きしめた。今日は子持ちの女性陣は夕方までのシフトばかりだったため、もう他の子どもは誰一人残っていない。さすがのユーリも抱き上げた私の首にムギュッと抱きつき、瞳を潤ませた。
「ごめんねぇユーリ! 本当にごめん! まさかこんなに遅くなっちゃうとは……! 先生もすみません。遅くまでありがとうございました!」
ユーリと遊んでくれていた若い保育士の女性はニコニコしながら私たちのことを見ている。
「ふふ。いえいえ。お仕事お疲れ様です。ユーリくん、ずっといい子にしていましたよ。でもやっぱり皆帰っちゃうと寂しかったみたいで、何度も入り口のドアを見つめていました。……よかったね、ユーリくん。やっとママに抱っこしてもらえたね」
「…………まま」
小さく漏らしたユーリの顔を覗き込むと、真ん丸のおめめをウルウルさせながら小刻みに震え、唇をギュッと噛みしめていた。いじらしさに胸が締め付けられる。保育士さんが気遣わしげに微笑んだ。
「今日は大好きなコレット先生もお休みでいなかったから、余計に寂しかったみたいで……」
「そうなんですね。……よしよし。帰ろうねユーリ。一緒にご飯食べて、お風呂に入って、ねんねしようね。ママねぇ、明日はお休みをもらえたんだよ。ふふ、珍しいでしょ? 平日のお休み。滅多にないよー。何しよっか。あ! そうだ。一緒にララちゃんにお手紙書く? こないだもらったお手紙のお返事書こうか、ユーリ」
抱っこしたままそんな風に話しかけながらドアの方に歩いていると、ユーリはパッと顔を上げ、私に向かってニパッと笑った。
「まま、おやしゅみ? うんっ! ゆーり、ららしゃんに、おてがみ、かくっ! ままといっしょに、かくっ!」
「ふふ。じゃあそうしよう。……では、失礼します。ありがとうございました」
最後に振り返って先生に挨拶すると、ユーリも私の腕に抱かれたまま先生に手を振った。
「しぇんしぇい、ばいばーい」
「はぁい。また明後日ね、ユーリくん。おやすみなさーい」
若い保育士さんは最後まで優しく見送ってくれた。
「まま、ごはん、なぁに? ばんごはん」
「えっとねー、今夜は昨日の残りのスープとー……、何にしようか。遅くなっちゃったから、パンを焼くだけでもいい? チーズたっぷり乗っけてあげるから」
「わぁい! ちーすぱん! ちーすぱんたべたーい!」
「ふふふ。明日はもっとご馳走作るからね~」
すでに真っ暗になった夜道を歩きながら、目の前に見えている従業員寮の建物へと私は真っ直ぐに歩いていた。ユーリは私に抱っこされたまま、私の頬にチュッチュとキスを繰り返している。あぁ、幸せ……。一日の最高のご褒美だわ……。
なんて思いながら、ユーリと前だけを見ていた私は、たしかに油断していたのだ。
寮の玄関口まで、あとほんの少しだった。
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驚いて固まった瞬間、腕の中のユーリが消えた。
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