おじさんと呼ばれて

ハリネズミ

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 自分から逃げたくせに追って来る気配のしない事に傷つき、涙が止まらない。
 涙で滲んで良く見えなくて、誰かとぶつかってしまった。

「すみませ……」

 泣き顔を見られたくなくて顔を伏せたまま、それだけをなんとか口にして立ち去ろうとした。
 だけどなぜか抱きしめられて、驚き顔を上げると僕を抱きしめていたのは中村だった。

「中……村……?」

「どうしたんすか?? 小津さんどっか痛いんすか? 何でこんな……」

 慌てる中村に何て説明しようもなくて、「何でもない……」って答えるのが精一杯だった。そんな誤魔化しが通用するわけないけど空気を読んでそっとしておいて欲しかったのに、中村はいつまでも僕の事をその腕から解放してはくれなくて。

「何なんすか? もしかして例の彼氏ですか? ひどい事されたんすか?」

 中村には望月くんと付き合い始めた事を報告していた。わざわざ言うのもどうかとも思ったけど、中村とはこれからもいい先輩後輩でいたかったから報告だけはしておこうと思ったのだ。

「ち……ちが……」

 違うとはっきりと言う事ができなくて、大粒の涙がぽろぽろと零れていく。

「そんなんなら……俺が貰う。小津さんを俺に下さい。いいっすよね?」

 中村の真剣な表情にときめきではなく、胸の痛みだけを感じていた。
 ただただ痛かった。
 平気なフリをする中村に僅かばかりの未練が見えたから望月くんとの事を報告したのに、またこんな風に中村の事を振り回してる。
 そんな価値なんて僕にはないのに――。

「ごめん……ごめん中村。僕は、それでも僕は――っ」

 言い終わる前に誰かに中村の腕の中から奪われた。
 もしかして? と期待に胸がドキドキと煩いけれど、誰だか確かめるのが怖い。

「小津さん……」

 僕を抱き寄せたのはやっぱり望月くんで、いつもよりずっと低い声で僕の名前を呼ぶ。
 ――どうして? あの子はどうしたの?
 追いかけて来てくれた事が嬉しいのに、不安で不安でしょうがない。

 僕が何も言えないでいると望月くんは全身を使って中村から僕の事を隠そうと深く抱き込んだ。

「あんた誰?」

 望月くんの声は今まで一度も聞いた事のないような尖った声だった。

「お前こそ誰だよ。もしお前が小津さんを泣かせたヤツだっていうなら俺も黙っていない」

「俺はの恋人だ。今は誤解があっただけで、俺は美咲を悲しませるような事は絶対にしていないし、これから先もするつもりはない」

 『美咲』……付き合いだして初めて呼ばれた。
 こんな時なのに望月くんの独占欲のような名前呼びが嬉しくて心が震えた。
 思わず望月くんの腕の中でスリスリと頬を寄せてしまった。

「こら……今はそんな可愛い事しないで?」

 そう言いながら頭のてっぺんにキスされて、いつもの優しい望月くんの声に安心して涙もどこかへいってしまった。ただひたすら頬が熱い。

「はぁ……。そうっすか。まぁ小津さんが幸せならいいんすよ。じゃあ、また会社でよろしくっすよ、せーんぱい。恋人さんと仲良くっすー」

 それだけ言い残して中村は帰って行った。先輩だなんて殆ど呼んだ事なんてないのに、中村に気を遣わせてしまった。
 本当ごめんっ。今度ちょっと豪華なランチ奢るから許して欲しい。
 僕はどうあっても中村のお姫さまにはなれないけど、中村にも中村だけのお姫さまが早く現れる事を祈ってる。
 後輩として大切に思っているよ。
 僕の精一杯として離れていく中村の後ろ姿に頭を下げた。


*****

 実はあの女の子は道を尋ねられただけで、目的の場所はあの場所の近所ではあるけど分かりにくい場所だったから連れて行こうとしただけだった。待ち合わせ時間にもまだ余裕があったからすぐに戻れば大丈夫だと思ったらしい。
 あの時僕の涙を見て誤解させてしまったと分かったけど、彼女をそのままにして僕を追いかける事はできなくて、道案内を済ませた後必死になって追いかけてくれたって事だった。だけどいざ見つけてみたら他の男の腕の中にいて頭が真っ白になってとにかく奪い返さなきゃって思ったらしい。

 全ては僕の誤解だった。
 僕の方が先にあの場所にいて、道を訊かれたなら同じ事をしていた。
 少し考えればその可能性にも気づけただろうに、自分の考えのなさに恥ずかしくなる。

 誤解は解けたものの涙でぐちゃぐちゃのままではデートどころではないと、望月くんに自分のアパートに来ないかと誘われた。

 望月くんのアパート……。それってそういう事だよね。
 今日は最初からそのつもりでは来ていた。だから何の問題もないんだけど……。
 それにさっきみたいに誤解しちゃうのは身体を繋げていないからだと思うし――。

 僕はこくりと頷いて望月くんのアパートに行く事を了承した。
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