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明かりを消して待っていて

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 毎週金曜日の夜、彼は明かりを消してあの部屋で待っている。
 彼の部屋は夜になると物の輪郭が僅かに見えるくらいぼんやりとした明るさしかなくなってしまう。
 俺は渡された合鍵を使ってそっと中に入る。
 そして夜の闇に紛れてベッドで待つ彼を抱くのだ。
 抑えきれない情動、狂おしいまでの劣情。
 俺は彼の事が好きだ。愛している。
 だけど彼は――。

 三年前両親が事故で亡くなり、両親がやっていたパン屋を兄が引き継いだ。
 元々兄は両親の手伝いをしたりパン作りを両親に習っていたし、元来器用な兄の事だからさして問題はないように思えた。
 だけど現実はそんなに甘くはなく、パートさんはそのまま働いてくれたもののただパンを作っていればいいというわけにもいかず、経営者としての仕事も加わり体力的にも精神的にも段々と疲労が溜まっていっているように見えた。
 そんな兄を見て、俺は高校卒業と同時に兄を助けるべくパン屋で働く事に決めた。
 兄は最後まで進学を勧めたが俺にだってできることはあるはずで、兄ひとりに苦労を押し付けるつもりはなかった。

 あれから俺も段々仕事にも慣れてパン作りの手伝いと商品管理、販売と色々な事が任されるようになっていた。



*****

 あの日は閉店時間を一時間程過ぎた頃だったか。
 店のドアを叩く音が聞こえた。
 もう遅い時間だから店には俺の他に誰もいない。
 兄は朝一の仕込みを担当しており早く上がるので片づけや戸締りは俺の仕事だった。

 営業時間はとっくに過ぎているのだからこのまま無視してもよかったが、ドアを叩く男が常連のあの男だったから。
 そのまま無視する事は出来なかった。
 いつも会計の時に笑顔で「ありがとう」って言ってくれて、俺はその『ありがとう』がとても好きだった。

 必死に頑張ってきた三年間。俺の顔はいつも強張っていた。
 だけど、男の『ありがとう』の一言で自然と笑顔でいられるようになったんだ。
 それから男が来店するとこっそりと見つめるようになった。

 ドアを開けると男は右に左に揺れていた。
 かなりの量のお酒を飲んだようだ。こんな男を見るのは初めての事だった。

「ジャムパンと、アンパンをくらさい……ひっく」

 そう告げると前に倒れ込むように身体が傾いた。
 俺は咄嗟に抱きとめたが男は身体が大きくて支えるのがやっとだった。

「……いい匂いがしゅるぅー……」

 男は俺の首筋付近で鼻をひくつかせた。
 パンやバター、ジャム等の匂いがしみついているのだろう。
 男を抱きしめているという事実にどきどきと心臓が騒ぐ。

 そして男はペロリと俺の首筋を舐めた。

「ちょっ……やめっ」

「ふふ。おいしぃー……」

 といつもの笑顔ではなく、それはとても淫猥でとても…とても…。

 ごくりと唾を飲み込む。

 ――――ダメだ。違う。勘違いするな。

 この男がパンを買いに来ては兄と楽しそうに話をして、うっすらと頬を染めるのを知っている。

 この男が好きなのは俺じゃない。
 僅かに残った理性が俺にブレーキをかける。

男はそんな俺の心の内なんか気づくはずもなく、抱き着いたまま寝てしまった。幸せそうな男の顔が今日この時ばかりは憎らしく思えた。

 俺は戸締りを終わらせて男を引き摺るようにして男の家に連れて行った。
 何かの時にどこに住んでいるのか兄と話しているのを聞いたことがあったのだ。
 意外と近く歩いて10分程の所だったと記憶している。
 近いと言っても自分より大きな正体を無くした成人男性を引き摺っての移動は骨が折れた。
 やっとの思いでアパートに着くと、勝手に鞄をさぐり鍵を出して開けた。

「ほら、しっかりしてください。家に着きましたよ」

「ん――――? んふふ。ぼくのいえにきみがいりゅなんて、ゆめぇ?」

 嬉しそうに笑う男を見て、人の気も知らないで、と少し怒りを覚える。

 俺は無言で男の靴を脱がせベッドへと運んだ。
 ネクタイを緩め、適当なコップに水をついで飲ませようとした。

「お水です。飲んでください」

 上手に飲むことができず口の端から次々と零れた。

「んぅ……」

 溢れた水がワイシャツを濡らし男の胸の飾りを薄っすらと浮かび上がらせた。
 その様がとても淫猥で、俺はごくりと喉を鳴らした。

 薄っすらと男の目が開いた。そしてふにゃりといつもの笑顔を見せたのだ。
 ダメだ。やめろ。と分かっているのに俺はとうとう理性を手放してしまった。
 強引にその唇を貪り、舌をねじ入れ、蹂躙した。

「あ……、はぁ……、あ……、あ」

 ただでさえ酔っぱらって息が上がっている男は苦しそうに喘いだ。

 夢中で男の身体を暴き、貪りつくした。

 我に返ったのは、何度目かの精を男の中に出した後で。
 窓の外が僅かに明るくなり始めた頃だった。
 横たわる男の姿はひどい有様だった。
 あちこちに赤い花を散らし、自分なのか男なのかそれともどちらとものものなのか白濁に塗れていた。
 その姿に俺の背筋にぞくぞくと走るものを感じた。
 下腹部に再び熱が集まるのを感じながらも早くこの場をさらねば、と思った。

 俺は急いで身支度をして、帰ろうとベッドから出ようとした。
 その時、男が俺の腕を掴んだ。
 寝ていると思っていたのでかなりびっくりした。

「……!」

 俺は振り向く事ができなかった。
 顔を見られたくなかったから。
 顔を見て兄じゃないと、抱いたのがなぜお前なのだと責められたくなかったから。

「――――帰るの?」

「……」

 俺は背中を向けたままこくりと頷いた。

「俺たち……これで終り、じゃない、よね?」

 男の声は震えていた。
 すぐには答えられなかった。
 男が好きなのは俺ではないのに、俺はこの男の甘いあまい果実を知ってしまった。
 できるならもっと味わいたかった。
 ひどい事だと分かっている。
だけど……。

「――――金曜の夜、部屋を暗くして……待ってて……」

 できるだけ兄に声を話し方を真似て言った。

「――暗く……?」

「顔を……見られるのは、恥ずかしい……。それ、と、店では……今まで通りに」

「――――分かった……」

 俺は振り返る事なく男の家をあとにした。


*****

 あれから男は俺が言った通り店に来ても今まで通りの態度だった。
 いや、少し変わった、か。
 俺の方を時々ちらちらと見ている気がする。

 男の視線を感じる度に背中を嫌な汗が流れた。
 今までは俺の顔を会計の時ぐらいしか見たことがなかったのに、なぜ…?
 毎週金曜日の夜、自分を抱いているのが俺だと気づいたんだろうか?
 だけど、男の俺を見る瞳には侮蔑の色も嫌悪の色も宿してはいなかった。
 ただ何かが……ゆらゆらと揺れているような……?
 俺は何が何だか分からなかった。
 俺の眉間に僅かに皺が寄った。
 兄からは最近また笑顔が消えた、と言われ心配された。

「こんなはずじゃなかったのに……」

 ぽそりと呟いた。


*****

 その週の金曜日、こんなことは止めなくてはと思いつつもあの果実の味が忘れられず男の元を訪れた。
 鍵を開けて入ってみても冷たいベッドがあるだけで、男の姿はなかった。
 闇の中でしばらく待ってみても男が戻る事はなかった。
 次の金曜日も、その次の金曜日も……。
 店には相変わらず毎日のようにやって来ていた。
 そして意味ありげな視線だけをよこす。
 だけど金曜日の夜、男は部屋にいない。
 俺との関係を終わらせたいのだろうか。では、なぜ店には来るのか。
 いくら考えても答えは出なかった。

 その日はあれから何度目かの金曜日だった。

 今日はもう行くのは止めようと思っていた。

 あの日と同じく店には俺だけが残り後片付けをしていた。
 そうしてあの日と同じくドアを叩く音がした。
 あの男だった。
 俺は躊躇いながらもドアを開けた。
 今日も酒を飲んでいるようだったが酔っ払っているようには見えなかった。

「俺……俺……キミに訊きたい事があって……」

 男は俯き震える声で言った。

「――――はい」

 いよいよだ、と思った。
 やはり自分を抱いていたのが兄ではなく俺だと気づいてしまったのだろう。

「キミは――俺の事、性欲のはけ口にしてる、の? ただそれだけなの?」

 ひゅっと喉が鳴った。

「俺はキミに抱いてもらえて嬉しかった、よ? でもキミは暗闇でないと俺の事抱いてくれないよね。それは、俺の身体がみっともない……から? 男は……ダメ? それとも……誰かの代わり、だから?」

「――――――え?」

 何かが違う。
 この男を抱いているのが兄ではなく俺だという事は分かっているがその事については問題にしていないようだ。
 ただ俺がこの男の事を好きでもなんでもなく性欲のはけ口にしているだけだと思っている?

 男の瞳が切なげに揺れている。

 男の事を好きなのに。愛しているのに……。
 とそこまで考えて、はっとした。
 俺がこの男にしてきたことはクズもいいところだった。
 愛しているのに愛も囁かず、ただその身をいいように蹂躙するのみ。
 毎日顔をあわせているのに他人のふりをする。

「すみません! 俺は……あなたが兄の事を好きだって事は知っていました。だけど、あなたが、あなたの事が好きなんですっ。だからっ、いけないと分かっていたのにあなたを抱くことを止められなかった……。本当にすみません!」

「――――え? 俺の事が好き……?」

「はいっどうしようもないくらい――。気が狂いそうなくらい……っ」

 男の瞳からぽろぽろと涙が零れた。

「――――嬉しい……」

 小さな声だった。
 それでもはっきりと聞こえたんだ。
 俺は思わず男を抱きしめていた。
 男も抱きしめ返してくれたがまだ不安に思う事があるようで、少しだけ躊躇っていたがいくつか質問された。

「暗闇でしか抱いてくれなかったのはどうして……?」

「兄じゃなくて俺だとバレたくなかったから……」

「じゃあ、お店で知らない顔をするのは……?」

「あなたが兄と接触してほしくなかった、から」

「――――――なぁんだ…。俺たち両想いだったんじゃないか」

 そう言って笑った男に俺も不安に思っていたことをぶつけてみた。

「あなたはいつも兄と楽しそうに話してたのは? 頬を赤くさせてた」

「お兄さんキミに少し似てるよね。キミと面と向かって話すのは恥ずかしくて、お兄さんにキミの面影を見つけながら話してたんだ。ずっと、キミが好きだった。好きだよ。あの日は自分の気持ちがどうしても抑えられなくてお酒の力を借りてここへ、キミに会いに来てしまったんだ。キミがひとり残って後片付けをする事をお兄さんに聞いて知っていたからね」

 なんて遠回りをしていたんだ。
 お互いに好き合っていたのに兄を好きだと勘違いして、いっぱい傷つけて、悲しませてしまった。

 俺は一旦男から離れて右手を差し出し頭を下げた。

「最初からやり直させて下さい。――――好きです。こんな俺でよかったら付き合ってください。ふたりで色々な所へ行きましょう。沢山たくさん光の下であなたを抱きしめさせて?」

 男、小柳 誠二こやなぎ せいじは俺の差し出した右手を両手でぎゅっと包んで言った。

「――――はい」

 顔を上げ誠二を見つめる。

 溢れる愛情。零れる涙。
 今なら分かる。

 あなたが好き。
 キミが好き。

 どちらからともなく唇が重なった。
 それは優しいやさしいキスだった。



-終-
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