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熊野は同じ会社の経理課で働く有名人だ。
自称情報通の同僚によると、たしか年齢はオレよりも六つほど上の──『熊』である。
と言っても本当の熊というわけではなく、その大きな体躯と『熊野』という苗字から『熊』と恐れられているらしい。加えて鋭い目つきとあまり変化のない表情や低音ボイスも怖さを助長しているようだけれど、オレは熊野のことを怖いと思ったことは一度もなかった。
オレと熊野は部署も違うし階も五階と十階とで離れている為、経費の申請手続きをするくらいしか熊野と会う機会はない。それもそう多くはないので、オレたちはほとんど会うことがなかった。
だからオレは暴言暴力その他、熊野から危害を与えられていない、というわけではない。熊だと恐れている人たちも、申請書の提出期限が守れなかったり、書類の不備があればそれを注意される程度なのだ。
実際に何度か熊野が注意をしているところを見たことがあるけれど、注意の仕方も人格を否定するような理不尽ものではないし、仕事なのだから適当なことをすれば注意をされるのは当たり前だと思う。
それをイメージだけで『獰猛熊』や『人喰い熊』だなどと騒ぐ方がおかしいし、もはやそれはただの子どもっぽい悪口というレベルだ。
確かに愛想があるとはお世辞にも言えないけれど、ヘラヘラ笑って仕事ができないヤツよりはよっぽどいいし、立場や好き嫌いで態度を変えないところは好感が持てた。
それはそれとして、こんな場面を見られる方も気まずいだろうけれど、見てしまったオレも相当気まずい。
それを誤魔化すようにオレは愛想笑いを浮かべ、ポケットに入れていた未使用のハンカチを熊野に差し出した。
男が熊野であることに気づいた時点で、一瞬見なかったことにして立ち去ることも考えたけれど、目の前で涙を流す人をそのままっていうわけにもいかなかった。
未だ涙を流し続ける男、熊野 礼司は自分が泣いていることに気づいていないのか、涙を拭うでもなく差し出されたハンカチをキョトンとして見つめていた。
そして、室内なのにテーブルに雫がいくつもぽたぽたと落ちたことで、初めてそれが自分の頬を伝って落ちた涙だと気づいたようだった。
熊野はハッとして短く礼を言うと、ハンカチを受け取り目元を拭った。
泣いていることにも気づけない。それほどショックを受けていたということなのだろう。涙が止まらないのか目元にハンカチをあてたまま、ときおり鼻を啜る音も聞こえてくる。
そんなオレの知る熊野とは違う姿に、胸がギュッとして堪らない気持ちになった。オレにできることなんてないのかもしれないけれど、力になりたいと思った。
せめて熊野が自分を責めることがないよう。
これ以上間違った涙を流さないよう。
熊野には昔の自分のみたいになって欲しくはなかった。そう思うのはただのエゴかもしれないけれど、見て見ぬフリなんてできそうもなかった。
自称情報通の同僚によると、たしか年齢はオレよりも六つほど上の──『熊』である。
と言っても本当の熊というわけではなく、その大きな体躯と『熊野』という苗字から『熊』と恐れられているらしい。加えて鋭い目つきとあまり変化のない表情や低音ボイスも怖さを助長しているようだけれど、オレは熊野のことを怖いと思ったことは一度もなかった。
オレと熊野は部署も違うし階も五階と十階とで離れている為、経費の申請手続きをするくらいしか熊野と会う機会はない。それもそう多くはないので、オレたちはほとんど会うことがなかった。
だからオレは暴言暴力その他、熊野から危害を与えられていない、というわけではない。熊だと恐れている人たちも、申請書の提出期限が守れなかったり、書類の不備があればそれを注意される程度なのだ。
実際に何度か熊野が注意をしているところを見たことがあるけれど、注意の仕方も人格を否定するような理不尽ものではないし、仕事なのだから適当なことをすれば注意をされるのは当たり前だと思う。
それをイメージだけで『獰猛熊』や『人喰い熊』だなどと騒ぐ方がおかしいし、もはやそれはただの子どもっぽい悪口というレベルだ。
確かに愛想があるとはお世辞にも言えないけれど、ヘラヘラ笑って仕事ができないヤツよりはよっぽどいいし、立場や好き嫌いで態度を変えないところは好感が持てた。
それはそれとして、こんな場面を見られる方も気まずいだろうけれど、見てしまったオレも相当気まずい。
それを誤魔化すようにオレは愛想笑いを浮かべ、ポケットに入れていた未使用のハンカチを熊野に差し出した。
男が熊野であることに気づいた時点で、一瞬見なかったことにして立ち去ることも考えたけれど、目の前で涙を流す人をそのままっていうわけにもいかなかった。
未だ涙を流し続ける男、熊野 礼司は自分が泣いていることに気づいていないのか、涙を拭うでもなく差し出されたハンカチをキョトンとして見つめていた。
そして、室内なのにテーブルに雫がいくつもぽたぽたと落ちたことで、初めてそれが自分の頬を伝って落ちた涙だと気づいたようだった。
熊野はハッとして短く礼を言うと、ハンカチを受け取り目元を拭った。
泣いていることにも気づけない。それほどショックを受けていたということなのだろう。涙が止まらないのか目元にハンカチをあてたまま、ときおり鼻を啜る音も聞こえてくる。
そんなオレの知る熊野とは違う姿に、胸がギュッとして堪らない気持ちになった。オレにできることなんてないのかもしれないけれど、力になりたいと思った。
せめて熊野が自分を責めることがないよう。
これ以上間違った涙を流さないよう。
熊野には昔の自分のみたいになって欲しくはなかった。そう思うのはただのエゴかもしれないけれど、見て見ぬフリなんてできそうもなかった。
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