隣に座っただけの未来

山田森湖

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第1話「金曜の夜、バーで隣に座っただけ」

第1話「金曜の夜、バーで隣に座っただけ」


金曜の夜は、だいたいこうだ。

定時で帰れるはずもなく、パソコンを閉じた頃には外はすっかり暗い。
二十代後半。社会人としては中堅扱いされ始めるくせに、裁量は増えず、責任だけが重くなる。
恋人もいない。別にいらないわけじゃない。ただ、余裕がないだけだ。

「……はぁ」

駅に向かう途中、思わずため息が漏れた。
このまま家に帰って、コンビニ弁当を食べて、動画を眺めて寝る。
そんな未来がはっきり見えすぎて、足が勝手に別の方向へ向いた。

気づけば、会社近くの小さなバーの前に立っていた。
看板も控えめで、常連以外は入りづらそうな店。
でも今日は、誰とも話さずに帰りたくなかった。

ドアを押すと、低めのジャズと、ウイスキーの甘い香りが迎えてくる。
カウンターは半分ほど埋まっていた。
空いている席に腰を下ろし、ハイボールを頼む。

そのときだった。

「……もう無理。ほんと、みんな好き勝手言いすぎ」

隣から、ぽつりと零れた声。
独り言にしては、はっきりしている。

ちらりと横を見ると、同じくらいの年の女性がグラスを傾けていた。
派手じゃない。仕事帰りらしいシンプルな服装。
でも、疲れた表情の奥に、妙に印象に残る目をしている。

思わず、口が動いた。

「……それ、わかります」

完全に余計な一言だったと思う。
でも彼女は驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。

「ですよね。急にすみません」

その笑顔が、思っていたより柔らかくて。
一気に酔いが回った気がした。

「金曜の夜に一人で飲んでる時点で、だいたい同じ気分ですよ」

そう言うと、彼女は小さく吹き出した。

「確かに。じゃあ、同類ですね」

そこからは、自然だった。
仕事の愚痴。上司の話。
「辞めたいけど、辞める勇気もない」
「将来どうなるんだろうって思いません?」
そんな言葉が、驚くほど似ていた。

「……私、大人になったはずなのに、全然余裕なくて」

グラスを見つめながら言う彼女の横顔が、妙に色っぽく見えた。
多分、アルコールのせいだ。

「俺もです。ちゃんと大人やってるフリは上手くなったんですけど」

視線が合う。
一瞬、空気が止まった気がした。

そのあと、どちらからともなく、距離が近づいた。
触れてはいない。でも、確実に意識している距離。

「……ねえ」

彼女が、少しだけ声を落とす。

「今日、このまま帰ります?」

心臓が、はっきり音を立てた。

誘われている。
でも軽いノリじゃない。
寂しさと衝動が、正直に混ざった問いかけ。

「正直に言うと……帰りたくないです」

そう答えた自分の声が、思ったより低くて驚いた。

彼女は一瞬迷うように唇を噛んでから、静かに言った。

「……私も」

店を出たあとの夜風が、やけに冷たかった。
並んで歩く。肩が、何度も触れそうになる。

この先どうなるのかなんて、考えなかった。
考えられなかった。

ただ、
バーで隣に座っただけのはずなのに、
この夜が、いつもと違うものになる予感だけが、はっきりとあった。
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