隣に座っただけの未来

山田森湖

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第15話「震える声で」

第15話「震える声で」


 正直に言うと、逃げたかった。

 彼女と会う約束をしたその日、仕事は順調だったし、体調も悪くない。
 なのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。

 理由は、わかっている。

 今日、言おうと思っていたからだ。

 ――付き合ってほしい。

 たったそれだけの言葉なのに、頭の中で何度も繰り返すたび、喉がきゅっと縮こまる。

 これまでの俺なら、ここまで本気になる前に、曖昧なまま距離を取っていたと思う。
 都合のいい関係に慣れていたし、それでいいと思っていた。

 でも、彼女は違った。

 会えば会うほど、
 触れれば触れるほど、
 「失いたくない」という感情が、はっきり形を持ってしまった。

 その日も、いつもと同じように彼女の部屋で過ごしていた。

 コンビニで買ったワインを飲みながら、他愛もない話をする。
 仕事の愚痴、最近見た映画、昔の失敗談。

 彼女は、よく笑う。
 それを見るたび、胸が少し痛くなる。

 こんなふうに笑わせられるのが、いつまで許されるんだろう、と。

 ソファで並んで座り、自然と距離が縮まる。
 彼女の肩に触れた自分の腕が、わずかに震えているのがわかった。

「……どうしたの?」

 気づかれてしまうくらい、ぎこちなかったらしい。

「いや、なんでもない」

 そう答えながら、内心では必死だった。

 言え。
 今、言わなきゃ。

 彼女は、何も疑わずに微笑んでいる。
 その無防備さが、余計に俺を追い詰めた。

 キスをした。

 いつもみたいに、ゆっくりと。
 彼女の反応を確かめるように。

 柔らかい唇。
 慣れたはずの感触なのに、今日は妙に胸にくる。

 そのまま、体を重ねた。

 肌に触れるたび、
 抱きしめるたび、
 「このままじゃいけない」という思いが強くなる。

 彼女を求める気持ちと、
 誤魔化したくないという気持ちが、ぶつかり合っていた。

 終わったあと、彼女は俺の胸に頬を寄せて、静かに呼吸している。

 その重みが、あまりにも現実的で。

 俺は、天井を見つめながら、決めた。

 逃げるのは、もうやめよう。

「……なあ」

 自分でも驚くほど、声が低く、震えていた。

「ん?」

 彼女が顔を上げる。
 少し眠そうな目で、でもちゃんと俺を見ている。

 この目から、逃げちゃいけない。

「俺さ」

 一度、息を吸う。
 喉が、からからだった。

「最初は、軽い気持ちだった」

 彼女の表情が、少しだけ固まる。
 それでも、黙って聞いてくれている。

「でも……今は違う」

 胸の奥が、熱くなる。

「一緒にいると、楽で。安心して。
 いなくなるのを想像すると、すごく嫌で」

 言葉が、思った以上に素直に出てきた。

「……好きだ」

 一瞬、空気が止まった。

 彼女の目が、大きく見開かれる。

 俺は、続けた。

「ちゃんと、付き合いたい。
 中途半端な関係じゃなくて」

 震える声を、必死で抑える。

「俺と、付き合ってください」

 言い終わった瞬間、心臓が耳元で鳴っているみたいだった。

 彼女は、何も言わなかった。

 その沈黙が、怖かった。

 後悔が、頭をよぎる。
 やっぱり、重かっただろうか。
 今の関係の方が、楽だったんじゃないか。

 でも次の瞬間。

 彼女の目から、ぽろっと涙が落ちた。

「……なんで、泣くんだよ」

 慌ててそう言うと、彼女は笑いながら、首を振った。

「嬉しくて」

 その一言で、全身の力が抜けた。

 彼女は、少し照れたように、でもはっきり言った。

「こちらこそ、お願いします」

 その瞬間、胸の奥に溜まっていた不安が、一気にほどけた。

 抱きしめると、彼女は迷いなく腕を回してくる。

 その温もりが、
 「選ばれた」という実感を、静かに、でも確かに教えてくれた。

 ――俺は、もう逃げない。

 この人を、ちゃんと大切にする。

 震える声で始まったこの関係を、
 今度は、震えない覚悟で続けていこうと思った。
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