隣に座っただけの未来

山田森湖

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第16話「こちらこそ」

第16話「こちらこそ」


 胸が、まだうるさい。

 彼が「付き合ってください」と言ったあの声が、
 頭の中で何度も再生されて、勝手に心拍数を上げる。

 あんなに震えている声、初めて聞いた。

 それが、どうしようもなく嬉しくて。
 同時に、少しだけ可笑しくて。

 ――この人も、ちゃんと怖かったんだ。

 そう思えた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなった。

 「こちらこそ」と答えたあと、
 彼に強く抱きしめられた。

 ぎゅっと、逃げ場がないくらい。

 でも、不思議と苦しくなかった。
 むしろ、やっと居場所に戻れたような感覚だった。

 彼の胸に頬を押しつけると、鼓動が早い。
 私のせいだと思うと、くすぐったい。

「……そんなに緊張してた?」

 からかうように聞くと、彼は少し間を置いてから、照れたように答えた。

「してたに決まってるだろ」

 その言い方が、妙に可愛くて。
 思わず、笑ってしまった。

 今まで、何度も体を重ねてきたはずなのに。
 恋人になった途端、距離の測り方がわからなくなる。

 触れていいのは同じなのに、
 意味だけが、まるで変わってしまった。

 キスをしたのは、私からだった。

 さっきまでと同じ唇なのに、
 触れた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。

 「好きな人」として触れるキスは、
 こんなにも、心臓に直接くるんだと知った。

 彼の手が、背中に回る。
 さっきよりも、ずっと慎重で、優しい。

 それが逆に、意識させる。

 彼の指先が、私の肌の上をなぞるたび、
 「恋人になった」という事実が、何度も身体に刻まれる。

「……変な感じ」

 思わず漏らすと、彼は小さく笑った。

「俺も」

 その一言で、緊張が少し溶けた。

 ベッドに横になると、
 今まで何度も見たはずの天井が、今日は違って見えた。

 彼が、私の髪を撫でる。

 今までだって、こういうことはしてくれていたのに。
 今日は、そこに「大事にしたい」という感情が、はっきり混ざっている。

 わかってしまうのが、怖いくらい。

 彼の口づけは、ゆっくりで。
 焦らすようで、確かめるようで。

 そのたび、胸の奥が甘く疼いた。

 身体が熱を持つのと同時に、
 心まで、じんわり溶けていく。

 ――ああ、これはもう、戻れないな。

 そう思った。

 繋がった瞬間、
 今まで感じたことのない安心感があった。

 求め合っているはずなのに、
 どこか「一緒にいる」感覚が強い。

 彼が私を見つめる目が、
 欲情だけじゃなく、感情を含んでいるのがわかる。

 それが、どうしようもなく嬉しくて。

「……見ないで」

 そう言いながら、
 本当は、見てほしかった。

 彼は、そんな私の矛盾を全部受け止めるみたいに、
 額にキスを落とす。

「可愛いから、無理」

 そんなこと言われたら、反則だ。

 身体が、自然と彼を受け入れる。
 名前を呼ばれるたび、胸が震える。

 今までの“都合のいい関係”とは、明らかに違う。

 これは、
 「選び合っている」感覚だった。

 終わったあと、
 彼は私を抱いたまま、なかなか離れなかった。

 汗ばんだ肌が、ぴったり重なる。
 その密着が、心地いい。

「ねえ」

 私がそう言うと、彼はすぐ反応した。

「なに?」

 その声が、少し嬉しそうなのに気づいて、
 また胸が熱くなる。

「……ちゃんと、言ってくれてありがとう」

 ずっと待っていた、とは言わなかった。
 でも、気持ちは伝わったと思う。

 彼は少し黙ってから、
 私の髪に顔を埋めるようにして言った。

「待たせて、ごめん」

 その言葉で、全部許せた。

 この人となら、
 不器用なままでも、ちゃんと進める気がした。

 恋人になったばかりで、
 未来のことなんて、まだ何もわからない。

 でも。

 今はただ、
 この腕の中にいられることが、嬉しい。

 ――こちらこそ。

 心の中で、もう一度そう呟いた。
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