ひとつの恋、いくつもの物語【学生純愛短編集】

山田森湖

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君の汗が、初めて“触れたい”と思った匂いだった

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君の汗が、初めて“触れたい”と思った匂いだった

放課後、美術室の窓を開けると、外から野球部の声が聞こえてきた。
金属バットの乾いた音、走る足音、グラウンドを焼く夕方の匂い。
私はその音の向こうにいる一人の背中を、毎日のように追っていた。

——二年の宮下蓮(れん)先輩。

美術部とは真逆の、太陽の下が似合う人。
肌は焼けて、声は大きく、私とはきっと一生交わらない世界にいるはずだった。
けれど、絵を描くうちに、いつの間にか目で追っていた。
線の流れ、影の濃淡、汗の光。
描くために見ていたはずが、気づけば“見たい”になっていた。

その日、偶然が重なった。
顧問に頼まれ、文化祭のポスター用に“運動部の練習風景”をスケッチしてほしいと言われたのだ。
グラウンドの端に座ってスケッチブックを広げると、先輩がこちらに気づいた。

「美術部か。暑いのによく描くな」
「……描かせてもらってるだけです」

顔を上げた瞬間、汗が首筋を伝っていくのが見えた。
その光が、妙に生々しくて、視線を逸らせなかった。

先輩は笑って、タオルで乱暴に髪を拭った。
そのとき、風が吹いて、汗の匂いが届いた。
土と太陽と、少しのシャンプーの残り香。
胸の奥が、熱くなった。

——この匂いを、もっと近くで感じてみたい。

そんなこと、思うはずじゃなかった。
けれど、一度意識すると止まらなかった。

練習が終わるころ、先輩が水筒を持ってこっちに歩いてきた。
「おつかれ。描けた?」
「……まだ途中です」

汗で少し濡れたユニフォームの袖が、すぐ近くにあった。
その距離だけで、息が苦しくなる。
「よかったら、休憩室で描けば?日焼けしちゃうぞ」
「え……」

誘われるなんて思っていなかった。
緊張で手が震えたけれど、頷いた。

野球部の休憩室は、夏の熱気がまだ残っていた。
ロッカーの金属の匂い、湿ったタオルの香り、そして——
先輩の汗の匂い。

「ここ、汚いけど、まあ座って」
先輩がタオルを投げて、窓を開ける。
光が差し込んで、彼の腕が照らされた。
その筋肉の影を、思わず目で追ってしまう。

「そんな見られると、恥ずかしいな」
「……すみません、描く癖で」
「癖か。じゃあ、描いてみる?」
「え?」
「俺を」

心臓が跳ねた。
冗談だと思いたかったのに、先輩は真剣だった。
「さっきからずっと、目で追ってたろ?」

否定できなかった。
「……はい」
「俺、どんなふうに見えてる?」

スケッチブックを持つ手が汗で滑る。
「強そうで……でも、優しそうで」
「優しそう、ね」
先輩は笑って、少し近づいてきた。

距離が近い。
息が混ざる。
匂いが、強くなる。

「……汗、くさいだろ?」
「……違います」
「じゃあ、どんな匂い?」
「……触れたい、って思う匂いです」

言葉が出た瞬間、自分でも驚いた。
先輩も一瞬、黙った。

それから——
「……変わってるな」
と、小さく笑って、私の頭を軽く撫でた。

指先が髪をなぞる。
その温もりに、心が震えた。

「絵、描いていい?」
「うん」

先輩は、タオルを肩にかけたまま、窓のほうを向いた。
その横顔を見ながら、鉛筆を走らせた。
首筋、鎖骨、シャツの隙間から覗く肌。
線を引くたび、胸の奥が熱くなる。

気づけば、先輩の視線がこちらに戻ってきていた。
「そんな真剣に見られたら、照れるな」
「……すみません」
「謝んな。俺も……なんか、変な気分になる」

沈黙。
蝉の声が遠くで鳴っていた。

「……さっきの、触れたいってやつ」
「はい……」
「本当に触れてみる?」

息が止まった。
返事の代わりに、首を小さく縦に振った。

先輩の手が、ゆっくりと私の手を取った。
掌が熱い。
その熱が腕を伝って、全身に広がる。
指先が震えて、でも、逃げなかった。

——これが、“触れる”ってことなんだ。

心臓の音が大きすぎて、言葉が出なかった。
彼はそっと手を離し、「……また描いてよ」とだけ言った。

文化祭のあと、完成した絵を見た先輩が言った。
「君の絵に、俺がちゃんといる。次は——君の部屋で描いてもらってもいい?」
照れくさそうな笑顔。
その瞬間、私は初めて“恋”という言葉を実感した。
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