森へ消えた悪役令嬢

ともえなこ

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「はい、これをどうぞ」

イザークが差し出してきたのは、森で採れたばかりの野菜を使ったスープ。湯気が立ち上り、ほんのりと優しい香りが漂う。

「美味しそう……ありがとう」

グレイスは木の器を両手で抱え、大事そうに口をつける。長かった逃亡生活と体調不良でまともな食事をしていなかった彼女にとって、この温かいスープは何よりもありがたい恵みだった。

「ゆっくり食べてくださいね」

イザークはそう言うと、さりげなく薬草の調合具合を確かめる。彼はこの森での生活に熟練しており、グレイスにも丁寧に手ほどきをしてくれている。

「ねえ、イザーク。私、もう少しここの生活に慣れてきたら、何か仕事を探したほうがいいのかしら」

グレイスはふと疑問を口にする。公爵令嬢としての名誉や生活は一旦失った今、王都や家族のもとへ戻れるかもわからない。新たに生きていくための手段を模索するのは当然の考えだった。

「そうですね。あなたが森で暮らすことに抵抗がなければ、狩りや農作業を手伝うのもいいですが……」

彼女の淑女としての育ちを考えれば、無茶をさせるわけにはいかない。イザークの声はどこか遠慮がちだ。

「狩りや農作業……私には難しそうだけど、もう何も知らないままで生きていくわけにはいかないもの。少しずつ学ばせてください」

グレイスの瞳には、新たな決意が宿っていた。かつてはドレスを身にまとい、舞踏会や社交の場に身を投じていたが、今やその人生は失われてしまった。それでも、助けてくれる人がいるならば、もう一度やり直せるかもしれない。

「わかりました。……ただ、本当に王都には戻らなくていいんですか?」

イザークが問う。その深い瞳に、グレイスは少しだけ言葉を詰まらせる。

「正直、戻りたい気持ちもあります。だけど……ハロルド殿下が私を信じてくれなかったのに、戻ってどうなるのかしら。悪役令嬢と罵られて、追い詰められるだけじゃないかと思うと……」

グレイスの声は微かに震えた。婚約破棄されたあの日の光景が脳裏に蘇る。周囲の冷たい視線、何の誤解も晴らさずに去っていく王太子の姿。思い出すと、今でも胸が締め付けられる。

「あなたが苦しむならば、ここにいるほうが良いかもしれませんね。安心して暮らせる場所を作るのは、悪い選択ではないと思います」

イザークは静かな口調で答える。まるで自分のことのように親身になってくれる彼の存在が、今のグレイスを支えていた。

「でも、そのうち……私の家族はどうしているかしら。妹のシャーロットは……」

小さな声で呟くと、イザークは優しく微笑む。

「血の繋がりは途切れませんよ。あなたの気持ちが整えば、いつでも会いに行けばいい」

「……そうね」

グレイスはその言葉に救われるような気持ちになった。自分が今いるこの場所は、追放と逃亡の果てに辿り着いた場所。でも、ここでイザークと共に穏やかな時間を過ごすうちに、少しずつ心の痛みが癒えていくのを感じる。

「私は、お茶を用意します。少し休みましょう」

イザークが立ち上がり、薪をくべる。その姿を見つめながら、グレイスは木製のスプーンを握りしめ、小さく微笑んだ。

「こういう小さな幸せを、私が感じられる日が来るなんて……」

かつては王宮の煌びやかさの中に自分の生きる場所があると疑わなかった。だけど、森の静寂やイザークの優しさは、あの華やかさとは違う真の安らぎをもたらしてくれる。

――夜の森に逃げ込んで良かったかもしれない、と初めて思えた瞬間だった。
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