10 / 32
10
しおりを挟む
彼の素顔
王都視察の翌日。
私は、自室の窓からぼんやりと外を眺めていた。
頭の中に蘇るのは、昨日のアレクシス王子の姿。
子供に向ける、あの優しい眼差し。
そして、ほんの一瞬だけ見せた、照れたような笑顔。
私が知っている彼は、氷のように冷たく、常に冷静で、国益という名の鎧をまとった王子だ。
けれど、昨日見た彼は、少しだけ違った。
その鎧の下に、温かい血の通った、一人の男性がいるのかもしれない。
そんなことを考えていると、なんだか胸がそわそわして、落ち着かなくなった。
「……少し、風にでも当たりましょうか」
私は、誰に言うでもなく呟き、部屋を出た。
侍女を伴わず、一人で王宮の広大な庭園を散策する。
色とりどりの花が咲き誇る美しい庭は、私のささくれた心を少しだけ癒してくれた。
しばらく歩いていると、庭園の奥の方から、何やら気合いの入った声と、乾いた音が聞こえてきた。
「ハッ!」
「セアッ!」
カァン! と、硬い木が打ち合う鋭い音。
好奇心に引かれ、私は音のする方へと、ゆっくりと足を向けた。
生垣の向こうに見えたのは、近衛騎士団が使用する訓練場だった。
屈強な騎士たちが、汗を流しながら、剣や槍の訓練に励んでいる。
その光景から、なんとなく目が離せずにいると、訓練場の隅の方で、一際、目を引く人影を見つけた。
「……王子、殿下……?」
そこにいたのは、アレクシス王子だった。
彼は、上等な上着を脱ぎ捨て、白いシャツ一枚という軽装だった。
それどころか、袖を乱暴にまくり上げ、胸元も大きくはだけさせている。
普段の、寸分の隙もない姿からは、到底想像もできないラフな格好だった。
彼の相手をしているのは、近衛騎士団長。
二人は木剣を構え、互いに距離を測っている。
次の瞬間、先に動いたのは王子だった。
鋭い踏み込みと共に、木剣が唸りを上げて騎士団長に襲いかかる。
速い。
そして、重い一撃。
騎士団長は、それを辛うじて受け止めるが、その表情には驚きが浮かんでいた。
王子の瞳は、普段の冷静な青色とは違い、獲物を狩る獣のような、鋭い光を宿していた。
流れる汗が、彼の首筋を伝い、鍛え上げられた胸板を濡らしていく。
陽光を浴びて、その汗がキラキラと輝いて見えた。
私は、生垣の物陰に身を隠しながら、その光景から目が離せなくなっていた。
まるで、美しい猛獣を見ているかのようだった。
気高く、荒々しく、そして、どうしようもなく魅力的で。
カァン!
再び、激しい打ち合いの音。
王子の動きには、一切の無駄がない。
流れるような剣捌き。力強い体幹。
それは、ただの王族の嗜みなどというレベルのものではなかった。
厳しい訓練を積み重ねてきた者だけが持つ、本物の強さ。
国を守る、ということ。
民を守る、ということ。
彼がいつも口にするその言葉は、決して口先だけのものではないのだと、その姿が雄弁に物語っていた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
不意に、王子と目が合った。
彼はこちらの存在に気づいていたのだ。
私は、びくりと肩を震わせ、咄嗟に身を隠そうとする。
だが、遅かった。
彼は、騎士団長に稽古の終わりを告げると、汗を拭いながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。
どうしよう。
盗み見していたことが、バレてしまった。
きっと、また「何をしている」と、冷たい声で問い詰められるに違いない。
私は、気まずさで俯いた。
「……レベッカ」
彼の声が、すぐ近くで聞こえる。
私は、おそるおそる顔を上げた。
「……申し訳、ございません。その、偶然、通りかかっただけで……」
言い訳がましい言葉しか出てこない。
しかし、彼の口から出たのは、意外な言葉だった。
「息抜きか? それとも、俺の監視か?」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
冗談を言っているのだと、すぐにわかった。
汗で濡れた彼の顔は、普段よりもずっと精悍で、男性的で……。
ドクン。
自分の心臓が、大きく音を立てたのを、はっきりと感じた。
顔が、熱い。
きっと、耳まで赤くなっていることだろう。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
私は、そう言うのが精一杯だった。
「どうしたというの、私は……」
その動揺は、彼に見抜かれてしまっただろうか。
アレクシス王子は、何も言わず、ただ、興味深そうな目で、私をじっと見つめていた。
その青い瞳に見つめられると、まるで心の中まで全て見透かされてしまうようで、私はたまらなくなって、彼に背を向けた。
「ご、ごきげんよう!」
そう言い捨てて、私はその場から逃げ出すように走り去った。
これが、恋という感情の始まりなのだと、この時の私は、まだ気づいていなかった。
王都視察の翌日。
私は、自室の窓からぼんやりと外を眺めていた。
頭の中に蘇るのは、昨日のアレクシス王子の姿。
子供に向ける、あの優しい眼差し。
そして、ほんの一瞬だけ見せた、照れたような笑顔。
私が知っている彼は、氷のように冷たく、常に冷静で、国益という名の鎧をまとった王子だ。
けれど、昨日見た彼は、少しだけ違った。
その鎧の下に、温かい血の通った、一人の男性がいるのかもしれない。
そんなことを考えていると、なんだか胸がそわそわして、落ち着かなくなった。
「……少し、風にでも当たりましょうか」
私は、誰に言うでもなく呟き、部屋を出た。
侍女を伴わず、一人で王宮の広大な庭園を散策する。
色とりどりの花が咲き誇る美しい庭は、私のささくれた心を少しだけ癒してくれた。
しばらく歩いていると、庭園の奥の方から、何やら気合いの入った声と、乾いた音が聞こえてきた。
「ハッ!」
「セアッ!」
カァン! と、硬い木が打ち合う鋭い音。
好奇心に引かれ、私は音のする方へと、ゆっくりと足を向けた。
生垣の向こうに見えたのは、近衛騎士団が使用する訓練場だった。
屈強な騎士たちが、汗を流しながら、剣や槍の訓練に励んでいる。
その光景から、なんとなく目が離せずにいると、訓練場の隅の方で、一際、目を引く人影を見つけた。
「……王子、殿下……?」
そこにいたのは、アレクシス王子だった。
彼は、上等な上着を脱ぎ捨て、白いシャツ一枚という軽装だった。
それどころか、袖を乱暴にまくり上げ、胸元も大きくはだけさせている。
普段の、寸分の隙もない姿からは、到底想像もできないラフな格好だった。
彼の相手をしているのは、近衛騎士団長。
二人は木剣を構え、互いに距離を測っている。
次の瞬間、先に動いたのは王子だった。
鋭い踏み込みと共に、木剣が唸りを上げて騎士団長に襲いかかる。
速い。
そして、重い一撃。
騎士団長は、それを辛うじて受け止めるが、その表情には驚きが浮かんでいた。
王子の瞳は、普段の冷静な青色とは違い、獲物を狩る獣のような、鋭い光を宿していた。
流れる汗が、彼の首筋を伝い、鍛え上げられた胸板を濡らしていく。
陽光を浴びて、その汗がキラキラと輝いて見えた。
私は、生垣の物陰に身を隠しながら、その光景から目が離せなくなっていた。
まるで、美しい猛獣を見ているかのようだった。
気高く、荒々しく、そして、どうしようもなく魅力的で。
カァン!
再び、激しい打ち合いの音。
王子の動きには、一切の無駄がない。
流れるような剣捌き。力強い体幹。
それは、ただの王族の嗜みなどというレベルのものではなかった。
厳しい訓練を積み重ねてきた者だけが持つ、本物の強さ。
国を守る、ということ。
民を守る、ということ。
彼がいつも口にするその言葉は、決して口先だけのものではないのだと、その姿が雄弁に物語っていた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
不意に、王子と目が合った。
彼はこちらの存在に気づいていたのだ。
私は、びくりと肩を震わせ、咄嗟に身を隠そうとする。
だが、遅かった。
彼は、騎士団長に稽古の終わりを告げると、汗を拭いながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。
どうしよう。
盗み見していたことが、バレてしまった。
きっと、また「何をしている」と、冷たい声で問い詰められるに違いない。
私は、気まずさで俯いた。
「……レベッカ」
彼の声が、すぐ近くで聞こえる。
私は、おそるおそる顔を上げた。
「……申し訳、ございません。その、偶然、通りかかっただけで……」
言い訳がましい言葉しか出てこない。
しかし、彼の口から出たのは、意外な言葉だった。
「息抜きか? それとも、俺の監視か?」
その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
冗談を言っているのだと、すぐにわかった。
汗で濡れた彼の顔は、普段よりもずっと精悍で、男性的で……。
ドクン。
自分の心臓が、大きく音を立てたのを、はっきりと感じた。
顔が、熱い。
きっと、耳まで赤くなっていることだろう。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
私は、そう言うのが精一杯だった。
「どうしたというの、私は……」
その動揺は、彼に見抜かれてしまっただろうか。
アレクシス王子は、何も言わず、ただ、興味深そうな目で、私をじっと見つめていた。
その青い瞳に見つめられると、まるで心の中まで全て見透かされてしまうようで、私はたまらなくなって、彼に背を向けた。
「ご、ごきげんよう!」
そう言い捨てて、私はその場から逃げ出すように走り去った。
これが、恋という感情の始まりなのだと、この時の私は、まだ気づいていなかった。
56
あなたにおすすめの小説
当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜
平山和人
恋愛
公爵令嬢エルナは、熱烈に追いかけていた第一王子シオンに冷たくあしらわれ、挙句の果てに「婚約者候補の中で、お前が一番あり得ない」と吐き捨てられた衝撃で前世の記憶を取り戻す。 そこは乙女ゲームの世界で、エルナは婚約者選別会でヒロインに嫌がらせをした末に処刑される悪役令嬢だった。
「死ぬのも王子も、もう真っ平ご免です!」
エルナは即座に婚約者候補を辞退。目立たぬよう、地味な領地でひっそり暮らす準備を始める。しかし、今までエルナを蔑んでいたはずのシオンが、なぜか彼女を執拗に追い回し始め……? 「逃げられると思うなよ。お前を俺の隣以外に置くつもりはない」 「いや、記憶にあるキャラ変が激しすぎませんか!?」
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます
腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった!
私が死ぬまでには完結させます。
追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。
追記2:ひとまず完結しました!
【完結】私が誰だか、分かってますか?
美麗
恋愛
アスターテ皇国
時の皇太子は、皇太子妃とその侍女を妾妃とし他の妃を娶ることはなかった
出産時の出血により一時病床にあったもののゆっくり回復した。
皇太子は皇帝となり、皇太子妃は皇后となった。
そして、皇后との間に産まれた男児を皇太子とした。
以降の子は妾妃との娘のみであった。
表向きは皇帝と皇后の仲は睦まじく、皇后は妾妃を受け入れていた。
ただ、皇帝と皇后より、皇后と妾妃の仲はより睦まじくあったとの話もあるようだ。
残念ながら、この妾妃は産まれも育ちも定かではなかった。
また、後ろ盾も何もないために何故皇后の侍女となったかも不明であった。
そして、この妾妃の娘マリアーナははたしてどのような娘なのか…
17話完結予定です。
完結まで書き終わっております。
よろしくお願いいたします。
婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?
パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。
しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。
「予備」として連れてこられた私が、本命を連れてきたと勘違いした王国の滅亡フラグを華麗に回収して隣国の聖女になりました
平山和人
恋愛
王国の辺境伯令嬢セレスティアは、生まれつき高い治癒魔法を持つ聖女の器でした。しかし、十年間の婚約期間の末、王太子ルシウスから「真の聖女は別にいる。お前は不要になった」と一方的に婚約を破棄されます。ルシウスが連れてきたのは、派手な加護を持つ自称「聖女」の少女、リリア。セレスティアは失意の中、国境を越えた隣国シエルヴァード帝国へ。
一方、ルシウスはセレスティアの地味な治癒魔法こそが、王国の呪いの進行を十年間食い止めていた「代替の聖女」の役割だったことに気づきません。彼の連れてきたリリアは、見かけの派手さとは裏腹に呪いを加速させる力を持っていました。
隣国でその真の力を認められたセレスティアは、帝国の聖女として迎えられます。王国が衰退し、隣国が隆盛を極める中、ルシウスはようやくセレスティアの真価に気づき復縁を迫りますが、後の祭り。これは、価値を誤認した愚かな男と、自分の力で世界を変えた本物の聖女の、代わりではなく主役になる物語です。
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる