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2謀濤編

2謀濤編-2

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 黒川艦長は、重々しい気分に駆られながら発令所に向かった。
 シュラ艦長の言外の要求を無視したことについて、どうしても気がとがめたのだ。助けを待つ者がいるかもしれない。ならば助けたいと思うのは当然の感情だ。しかし今はまだ戦闘中。生き残ることに集中しなければならない。『きたしお』の艦長として、乗組員七十二名と員数外七名、そして新たに加わったシュラ達全員の生命を負っているのだから。

「艦長! ソーナーが鰭進音聴知。S八九、九〇の二つ。感一かんひと。まっすぐ進んできます!」

 発令所に入ったところで哨戒長が告げた。
 やはり来たかという思いで黒川は頭を切り換える。

「距離と方角、深さは!」
『三〇八度、距離は約一万七〇〇〇ヤード。深さ一二〇ひゃくふたじゅう。速度は一五じゅうごノット! さらに増速中』
「シクヴァルは来たか?」

『シクヴァル』とは、鎧鯨の持つ長大な牙のことで、ロシア製兵器を連想させるという理由で乗員達からそう呼ばれている。

『まだです』
「さすがに遠過ぎるのでしょう」

 哨戒長の解釈に頷いた黒川は、背後の海図を覗き込むと数秒間考えた。さらなる深海へ逃げるべきか、それとも戦うべきか。

『S八九、S九〇、なおも近付く。深さ二一〇ふたひゃくじゅう。速度二〇ふたじゅうノット!』
「敵を撃破する。配置につけ、魚雷戦よ~い」

 黒川は戦う決心を下した。

『配置につけ、魚雷戦用意!』

 発令所からの命令が艦内全てに伝えられ、『きたしお』の乗組員達は当直、非番を問わず全員が配置についていった。


「艦長、配置よし」

 哨戒長の報告が耳に入る。黒川は頷きながら発令所内を見渡した。

「S八九とS九〇は?」
『さらに近付く! 距離一万一〇〇〇』

 黒川は哨戒長に命じた。

「距離一万から回避運動、はじめ!」
「了解」

 頷いた哨戒長が、操舵手の木内海士長に少し近付き、命じた。

「取り舵二〇ふたじゅう度!」
「取り舵二〇度、ヨーソロー!」

 操舵手が舵を左に切る。
 すると『きたしお』が傾き、針路も三四〇度、三三五度、三三〇度と左に転じていった。そして鎧鯨を一旦真正面に捉えるも、そのままさらに左へと回頭かいとうしていった。
 それはシクヴァルをかわすための円運動である。
 深度も潜航長が上下五〇メートルの範囲で絶えず変化させていた。こちらが位置を変えてさえいれば、長距離から狙いを定めることは難しくなるはずだ。

『S八九、S九〇、ともに深さ三〇〇。感二かんふた。変針、変速の兆候なし』

 その間、目標の動きに変化がないことを水測員が報告してくる。
 やがて発射管室より報告が上がる。

「一番発射はじめよし」
「二番発射はじめよーし」
「次に撃つ! 一番をS八九、二番をS九〇に合わせ」

 黒川は魚雷発射を決断したことを告げる。そして針路の数値をにらみながら、回頭機動かいとうきどうを続けて敵を再び正面に捉える時を待ったのである。

てきの評定終わり!」

 発令所右舷みぎげん側に並ぶ管制員が、目標へのデータ入力作業を進めている。
 やがて左回りの旋回運動でぐるりと一周し、艦首が再びS八九、S九〇へと向かう。

かじ中央」

 その瞬間、黒川が舵を戻すよう命じた。
 潜水艦は魚雷を発射する際、直進している必要がある。そして魚雷が目標を捉えるまではそのまま進み続けなくてはならない。誘導のための細いワイヤーが艦と魚雷を繋いでおり、急な方向転換をするとこれが切れてしまうためである。
 もちろん魚雷にも敵を捉えるセンサーは装備されている。だからワイヤーが切れたとしても敵の追跡は続くのだが、潜水艦本体ほど優秀でないため、目標を見失ったり欺瞞ぎまんされやすい。
 従って必中を期するならば、出来る限り長く誘導して魚雷を敵に近付ける必要があった。
 だがそれはすなわち、『きたしお』本体も等速直進運動を続けることを意味する。巨大なシクヴァルを持つ鎧鯨にとってよい標的だ。
 これを狙撃に例えるなら、敵に狙いを付けるため草むらから顔を出し、銃を構え続けている状況だ。意識を一点に集中するため周りが見えない。攻撃の瞬間は最も無防備で狙われやすいのだ。

「ヨーソロー、舵中央」

 操舵手が、舵が中央に戻ったことを告げた。『きたしお』はこれにより、しばし目標に向けて真っ直ぐ進む。

「発射用意。一番、二番、撃て!」

 黒川の命令に従って水雷すいらい長がキーを操作する。

「セット、シュート、ファイヤー」

 艦首側の発射管室から、圧搾あっさく空気の強烈な噴出音が響く。

『一番、二番、発射方位三〇六度、魚雷出た!』

 水測員の報告が艦内に響く。

「誘導開始します」
「誘導はじめ、誘導間隔十秒」

 黒川は歯を食い縛ると、睨むようにして水測員の報告と、発令所乗組員達の指示と報告に耳を澄ました。

『S八九、S九〇ともに変針、変速の兆候なし。感度上がる。感三かんさん!』

 やがてモニターに、魚雷が目標を見つけたことを報せるマークが点灯した。

「ワイヤーカットします!」
「誘導とめ、ワイヤーカット!」
「発射管一番、二番、ワイヤーカット!」

 その時を待っていたように黒川は命じた。

「哨戒長、回避運動を再開!」
「了解! おもーかーじ!」

 操舵手が指示を受け、今度は舵を大きく右に切る。すると艦が右に傾いていく。
 そこで水測員が叫んだ。

『シクヴァル、左を通過!』

 音速で進むシクヴァルの存在は、艦に命中するか、近傍を通り過ぎるかして初めて探知できる。まさに間一髪であった。

『S九〇針路、変針します!』
「一番、二番、命中しますっ!」

 同時に、猛烈な爆発音が海中を伝播して『きたしお』を揺すった。さらに大きな衝撃がもう一度起きる。

『目標方向に爆発音!』

 やがて残響が消え海底は静まり返る。
 しばらくの間、耳を澄ましてじっと聞き耳を立てていた水測員が告げる。

『目標消滅。S八九、S九〇ともに消滅!』

 乗組員達は口を閉じたまま、拳を立て、あるいは腕を突き上げて悦びを表す。満面の笑みを浮かべながら隣の同僚の肩を叩く者もいる。
 しかし艦長の黒川だけが静かに、考えるように黙り込んでいた。


「妙に手応えがなかったな」

 黒川の呟きに、副長の八戸はちのへ二佐が答えた。

「S八五に比べたら確かにあっけなさ過ぎました。ですが、S八五がとりわけ優秀な個体であったのかもしれません。単独で広大な縄張りを保有していたのですから、能力相応だったとも言えます」
「確かにそれで説明は可能だな……」

 だがたとえそうだとしても簡単過ぎた気がする。何か詐術さじゅつにかけられたような悪い予感があった。
 そのため黒川は水測室に命じる。

「まだ鎧鯨がいるかもしれない。周囲への警戒をげんとなせ。どんな兆候も聞き漏らすな! TASSを出せ」
『了解』

 艦尾から曳航ソーナーTASSが伸ばされていく。
 こうして『きたしお』は、魚雷戦配置のまま静かにアヴィオン海を進んでいったのである。


 TASSが完全に伸ばされた。これにより長いケーブルに数珠じゅず繋ぎに設置されたセンサーの力で、かなり遠くからやってくる音も拾うことが可能となる。

「水測室、どうだ?」
『反応はありません』

 怪しい気配はないと返す水測員の言葉を受け、敵を撃破したのだという油断めいた空気が乗組員達の間に流れていった。


 おやしお型潜水艦『きたしお』は海上自衛隊の誇る新鋭潜水艦である。
 AIP(非大気依存推進)機関を搭載した『そうりゅう』型が登場し、さらにはリチウム電池搭載型建造計画も進むため、型式としては最も古いものとなっている。
 しかし海上自衛隊の潜水艦の更新速度は、他国と比べても著しく速い。
 前述したように一年に一隻ずつ新鋭艦が造られるため、その都度定数から押し出されて一隻ずつ退役していく。つまり古くて役に立たないからではなく、ただ定数を超えるという理由で、他国では十分に最新鋭・現役としての扱いを受ける艦齢にもかかわらず、除籍されていくのである。
 それだけに、『きたしお』の各種センサーは十分に優秀であった。
 新しい機械に付きものの不具合は、バージョンアップによって全て解消されている。その意味では、まだ顕在化していない欠点を抱える可能性のある最新鋭艦よりも、かえって優秀と言える。
 しかも指揮官の黒川をはじめとする乗組員達は経験を積んだベテランばかりで、『きたしお』の長所も短所も全て把握している。目をつむっていても、艦内のどこに何があるのかが分かるほどだ。
 しかしそんな『きたしお』でも、海中という特殊な環境による問題を克服することは出来ない。潜水艦において外の様子を知る方法は、音や磁気の探知以外にないからだ。
 海底は無音の世界ではない。水の流れ、地殻の変動、さまざまな雑音が充満している。そこから目標の音だけを抽出するのが水測員の役割なのだが、そんな彼らでも海底にぴたっと張り付き、息を凝らしている目標を探知することは困難だった。
 ましてや相手が磁気に反応しない生物ならばなおさらだ。
 そのため『きたしお』は、深さ六〇〇メートルの海底に張り付いていた鎧鯨S八九に気付くことが出来なかったのだ。
『きたしお』の放った二本の魚雷は、S八九、S九〇それぞれに向かって正確に突き進んだ。しかしS九〇がS八九をかばうように針路を変更したことで、二本の魚雷はS九〇に直撃した。
 S八九はS九〇が被弾している間に静かに潜航して海底に張り付き、『きたしお』が近くに寄ってくる瞬間をじっと待っていたのである。
 その計画は、『きたしお』がわずかでも針路を変更したら無意味になってしまう。だが鎧鯨は海の王者の本能に全てを託して待ち続けた。復讐の時が来るのを、じっと、じっと、息を凝らして待ったのである。そして――


 ロンデル標準時二三一四ふたさんひとよん時――


 その時が来た。

『真下です! 真下から鎧鯨が浮き上がってくるっ! S八九です!』

 最初にその存在を感知したのは、水測室の松橋二曹であった。
 黒川はその声を聞いた瞬間に命じた。

「面舵いっぱい!」

 操舵手は、反射神経の及ぶ限りの速度で舵を右に切った。

「面舵いっぱい、ヨーソロー!」

 だが、微速で進んでいた『きたしお』は敵の突撃を咄嗟に躱せるほど敏捷びんしょうには動けなかった。次の瞬間、真下から突き上げるような凄まじい衝撃が起こる。

「うわっ!」
「つ、つかまれ!」

『きたしお』の艦体は激しく揺すられ、鎧鯨が激突した艦尾部分にいたっては床にあったものが天井に届くほどだった。乗組員達の何人かは天井に頭をぶつけてしまった。

「ぐはっ!」

 そしてそのまま落下し、再び床に叩き付けられる。
 彼らは二度の衝撃にもだえ、うめいた。
 打ち所が悪くて気を失う者までいた。その一人が機関室に居た機関長の舞鶴まいづる三佐だった。

「き、機関長!」

『きたしお』にとっての不幸はさらに続く。
 艦尾から曳航えいこうしていたTASSのケーブルが、海面に向かって真っ直ぐ上昇する鎧鯨の体躯の凹凸や突起に絡みつく。これによって『きたしお』艦尾が大きく持ち上げられ、艦首を海底に向けた姿勢で釣り上げられてしまったのである。
 艦内は大混乱に陥った。
 横に置かれていた筒が直立し、床であったものが壁と化し、それまで隔壁かくへきであったものが甲板となる。固定されていなかった全ての物が、そして乗組員達が、重力によって下方へと引っ張られていく。

「うわわわわ!」

 問題はそれぞれが立っていた場所、置かれていた位置によって、下までの落差が四メートルにも五メートルにもなってしまったことだった。
 乗組員達の多くは最初の衝撃で艦内各所の突起物やパイプ類に辛うじてしがみつき、この倒立にも耐えることが出来た。

「た、助けてくれ!」

 だが、全員が無事だった訳ではない。
 咄嗟の動作が遅れた者、一度目の衝撃で既に体力や意識を失っていた者、そして同僚を救おうと手を離していた者などがあちこちで身体を強打し、艦内で負傷者が続出したのである。


 医務室となっていた士官食堂では、この倒立の衝撃で治療用の道具類が散らばった。
 治療台からオデットの腕がだらりと垂れる。
 台に縛り付けられていたため彼女が床に投げ出されることはなかったが、医官の湊や衛生員はそうもいかない。あちこちに頭をぶつけた揚げ句、士官食堂前方へと落下して壁面に激突した。

「ぐふっ!」

 湊は思わず叫んだ。

「艦がひっくり返りそうになる時は言えって言ったろ!?」
「こんなの予測できる訳ないっすよ!」

 頭上に降り注ぐ手術器具。二人は頭を抱えて身を庇いながら、そう叫ぶことしか出来なかった。


 士官食堂の真下にある科員食堂でもこれと同じことが起こっていた。
 しかも空間が広く、様々な備品が置かれ、更にそこにいた人数が多かったことがより災難の度合いを高めた。

「うわっ!」
「きゃあ!」
「ひぃ」

 シュラやオー・ド・ヴィは咄嗟にテーブルにしがみついたが、プリメーラとアマレットは間に合わず傾斜とともに前方に滑り落ちていく。
 そして二人はアクアス達とテーブルを囲んでいた徳島にぶつかった。
 徳島はケミィ達を庇いながら、二人も支えようとして懸命に踏ん張る。しかしあらがいきれず、三人ひと塊となってアクアス達とともに前方隔壁に転がっていった。
 これに追い打ちをかけるように、床に固定した椅子の中に格納されていたじゃが芋やら玉ねぎやらがどんどん降り注ぎ、散らばっていく。

「いたたた、痛い痛い」

 じゃが芋であっても高いところから降ってくれば地味に痛い。
 ケミィ達は頭を抱えながら悲鳴を上げている。
 しかし徳島はじゃが芋で済んで幸いだと思っていた。
 これが調理場で汁物でも作っている最中だったら、熱湯が降り注いできたかもしれない。あるいは包丁などの鋭利な調理器具だったかもしれない。そう考えて徳島は一人ぞっとするとともに、降ってきたのがじゃが芋だったことに安堵したのだった。


「徳島君、無事ですか?」
「う……くっ」

 落ちるべきものが全て落ち、転がるべきものが全て転がると、艦内の騒ぎも落ち着いてくる。

「徳島君!?」
「と、統括!?」

 徳島が頭上を見上げると、江田島がテーブルにしがみついてこちらを心配そうに見ていた。
 どうやら艦は艦首を下に倒立したまま安定してしまったらしい。もともと床に固定してあったテーブルは、今や壁の上方に張り付いているように見える。江田島はシュラやオー・ド・ヴィとともにそれを掴んでこちらを見下ろしていた。

「プリム! アマレット! 無事かい!?」

 江田島の背後から、シュラが呼びかける。
 二人は徳島をクッションにして、うつ伏せに倒れている。倒れ込む時に徳島が咄嗟に庇ったので、頭などは打っていないはずだった。

「大丈夫ですか?」

 徳島は二人に声を掛けた。

「え、あ! ……はい」

 するとプリメーラは、自分が誰にのしかかっているのかに気付き、飛び跳ねるような勢いで後ずさる。それを見た徳島は、自分は心底嫌われているのだと悟った。
 いささか傷ついたが、それも仕方がないことである。彼女が親友と呼んで慕うオデットを傷つけたのは、確かに自分なのだから。
 徳島は気を取り直すと、次にケミィ達アクアスを見渡した。皆目を回して横たわり、魚のごった煮を作ろうとしている鍋の底のような有り様だったが、何とか無事のようだ。

「みんな無事です。お二人も無事ですよ」

 徳島は皆の様子を上司に報告した。

「怪我人はないようです」
「ならば結構。徳島君、我々はすぐに発令所に参りますよ!」
「はい?」
「科員食堂がこの有り様なんです。あそこはもっと酷いことになっているはずです。急いで行かなくては!」

 江田島はそう言ってテーブルから降り始めた。
 続いてシュラとオー・ド・ヴィもその後ろに続き、鍋底のごとき隔壁に降りてきた。

「副長、ボク達は何をすればいい?」
「シュラ艦長とオー・ド・ヴィさんはこの場に残っていてください。艦の姿勢が元に戻る時にきっとまた大騒ぎになるでしょう。その時にプリメーラさんと、アマレットさんをお願いします。アクアスの皆さんもこの場に待機で。いいですね?」

 徳島はシュラとオー・ド・ヴィの二人に、プリメーラ達を託した。そして江田島とともに艦首方向へ向かったのであった。


 徳島と江田島は、長い縦穴と化した艦内を艦首に向かってくだっていった。
 艦内に縦横に走る配管に掴まり、ぶら下がり、あちこちの突起や梯子段に足をかけながら降りていく。そして隔壁のふちに腰を下ろし、発令所の入り口から下を覗き込んだ。

「これは不味まずいですね」

 中を覗いた江田島が舌打ちした。
 発令所の底となった艦橋のハッチ、操舵席、そしてその周辺の隔壁に幹部や乗組員達が折り重なるようにして倒れている。
 黒川艦長の姿もその中に混ざっていた。
 江田島は深度計の数字に目をやる。
 艦がこんな姿勢のままだから海底に向かって沈んでいるのかと思いきや、深度を示す数字は何故か減っている。つまり『きたしお』は浮き上がっているのだ。

「これは……はっ、そういうことか。徳島君、急ぎましょう!」
「は、はい」

 徳島は、まず海図室に降りた。
 海図台の縁に手をかけ、ぶら下がるようにして二番潜望鏡に慎重に足を下ろす。そしてさらに下にある一番潜望鏡へ降りていった。
 だが、そこから下はもう足の踏み場もなかった。
 哨戒長、哨戒長付、潜航せんこう長、左右の管制員、IC員、そして艦長、さらに海図室にいた副長らがびっしりと倒れていた。
 最も酷い状態なのは、操舵席の木内海士長だった。管制員達が彼の背後から伸しかかるように折り重なっている。

「お、おい、返事しろ!」
「うう……」

 徳島が声をかけると辛うじて呻き声が聞こえた。
 続いて降りてきた江田島が、仕方がないとばかりに皆が折り重なる隙間に足を下ろそうとする。しかしうっかり黒川艦長の太腿を踏んづけてしまった。

「痛っ、だ、誰だ!」

 江田島はちょうどよいとそのまま黒川艦長を揺すり起こした。

「黒川艦長、私です。起きてください、起きてください!」
「え、江田島か? くっ……」

 黒川の顔が苦痛に歪む。

「しっかりしてください、艦長!」

 江田島は自分の手が真っ赤になっていることに気付いた。
 落下の際、黒川は頭部をどこかにぶつけたのだろう。頭皮が裂けて血が滲み出ていた。

「え、江田島……『きたしお』はどうなっている?」
「艦尾を上に倒立してます。そして海面に向かって上昇しています」

 答えながら江田島はハンカチを取り出し黒川の頭部に巻いた。

「と、倒立だと? それでいて浮き上がってると言うのか?」
「おそらくTASSが鎧鯨に引っかかっているのでしょう。このままでは『きたしお』は釣り上げられてしまいます。あるいは奴は、浅い深度にまで我々を引き上げて、そこで仕留めるつもりなのかもしれません」
「くそっ、誰か! 動ける幹部はいるか!? 誰か、誰か返事をしろ! 副長、艦の指揮をとれ! 機関長! 船務長!」

 江田島は念のため周囲を見渡してから告げた。

「いえ、今ここで動けるのは、私と徳島二曹だけです。この有り様ですから、他の部署の幹部が駆けつけて来るまで時間がどれほどかかるかも分かりません……」
「そ、操舵員はどうか?」

 その話の合間にも、徳島は操舵手の上に折り重なっている管制員を一人ずつがし、横に転がしていた。そうして操舵手の救出に成功したのだが、徳島は頭を振った。

「木内の意識は、ありません」
「まさか、し……?」
「いえ」

 徳島は頸動脈に指を当て、脈の有無を確かめた。

「心拍や息はあります。大丈夫です。生きてます」
「よ、よかった……だが、仕方ない。舵は徳島二曹がとれ。江田島、艦の指揮はお前に託すしかないようだ、お前ならこの状況でもなんとか……」

 だが艦長の黒川は、そこまで告げて意識を失った。

「艦長! 艦長!!」

 江田島は黒川がまだ生きていることを確認すると、彼の頭部を壊れ物のようにそっと横たわらせたのであった。


 江田島と徳島は黒川の意識が途切れると互いに顔を見合わせた。そして間髪容れずに江田島が命じる。

「徳島君、横舵、下げ舵いっぱいです」
「下げ舵いっぱい、ヨーソロー!」

 徳島は操舵席につくと、舵を床に押し込むようにして下げる。
 操作が逆のように思えるが、艦は今逆立ちして浮き上がっている。つまり後進しているので、下げ舵にすることで艦首が上がると考えたのだ。
 すると横舵の舵角だかくを示す針が下がっていく。そして二五ふたじゅうご度を超えて振り切れた。

「ヨーソロー、下げ舵いっぱい!」

 しかし艦体の傾きは少しも和らぐことはない。

「統括、深さ一〇〇を切りました。九五、九〇……」
「徳島君、前進原速!」

 そこで江田島は前進を命じた。

「は、はい」

 徳島がレバーを押して前進をかける。
 舵を上げてもぴくりともしないのは、浮き上がる鎧鯨の力に負けているからだ。ならばまずは下方に沈もうとする力で鎧鯨に対抗すればいい。江田島はそう考えていた。
 現代の船の出力調整は、回転数を上げるのではなくプロペラピッチを変えることで行う。回転速度は同じままピッチを深くとることで推力が増大するのだ。
 案の定、ガツンという衝撃とともに深度の表示の変わり方――つまり浮き上がる速さが目に見えて遅くなった。
 ギシギシとワイヤーがきしむ音がする。
 浮かび上がろうとする鎧鯨の力と、海に潜ろうとする『きたしお』の力とが拮抗きっこうしているのだろう。

「徳島君、前進第一戦速! 横舵中央」
「前進第一戦速、横舵中央ヨーソロー!」

 そのまま鎧鯨と力任せの引っ張り合いになった。

「前進第二戦速!」
「前進第二戦速、ヨーソロー!」

 徳島がさらに速度を上げると今度は艦がゆっくり沈み始める。ようやく力で勝り始めたのだ。しかしそれも長くは続かない。

「うわっ」

 衝撃とともに艦内のあちこちで悲鳴と呻き声が上がる。
 ガクンという衝撃と墜落感が『きたしお』の艦体を揺らした。それに伴い深度計の表示が急激に増していく。その速度は落下を思わせる勢いだった。
 艦の重さとプロペラが生み出す推進力で、艦は海底に向かって直進しているのだ。凄まじい勢いで水圧が増し、艦体を容赦なく締め付ける。金属の軋む音が鳴り響いた。

「と、統括、落ちてます!」
「TASSのケーブルが引き千切れたんでしょう! 徳島君、このまま進んでください!」
「は、はいっ! 横舵上げ舵いっぱい!」
「違います! 横舵中央のままっ!」
「お、横舵中央!? ヨ、ヨーソロー!」

 江田島の奴は一体何を考えているんだ、と徳島は思った。このまま真っ直ぐ進めば海底に突き刺さってしまう。
 しかし徳島には江田島に逆らうという発想はない。これまで江田島がしてきたことには常に何らかの理由があり、大抵はうまくいった。だからそれを信じる以外ないのである。
 徳島はちらりと深度の表示に目を走らせた。数字はどんどん増えている。

三二〇さんびゃくふたじゅう、三四〇、三六〇! 統括、鍋がそろそろ噴きこぼれそうです!」

 江田島は必ず上げ舵の指示を出す。それがいつであっても対応できるよう徳島はしっかりと舵を握って身構えた。鍋が噴きこぼれるというのは、早く命じて欲しいという彼独特の催促だった。

「まだです。徳島君、まだですよ!」

 だが江田島は耐えるよう命じた。

「了解。でも、どうして?」
「貴方は感じませんか? 背筋が寒くなるようなこの殺気を。『きたしお』のすぐ後ろから鎧鯨が迫ってきてるんです。このまま艦首を上げたりしたら、体当たりしてきた奴に海底まで叩きつけられてしまいます!」
「そ、それじゃあ!?」
「そうです。鎧鯨の奴と我慢比べです! 徳島君、前進いっぱい!」
「ぜ、前進いっぱいヨーソロー!」

 江田島が言ったように、『きたしお』の背後には鎧鯨S八九の姿があった。だが『きたしお』はさらに加速して鎧鯨を引き離しにかかった。
 すると艦内のあちこちのパイプから海水が噴出し始めた。
 鎧鯨の体当たりを食らってダメージを負ったせいだろう。普段なら大丈夫なはずの深度でも漏水が始まったのだ。

「統括、各所で漏水!」
「大丈夫! この程度でお漏らししてしまうのはこののいけない癖です。でも大丈夫、きっとやれます!」

 艦内の各所では、パイプにぶら下がっていた乗組員達が必死に噴出を止めようとしている。
 そして深度計を睨んでいた江田島が、ようやく叫んだ。

五二〇ごひゃくふたじゅう、五四〇、五六〇!」
「今です! 横舵上げ舵いっぱい!」
「上げ舵いっぱい、ヨーソロー」

 この時を待っていた徳島が、舵をぐいっと引いて叫んだ。

「うおお、もどれーーー」

 すると横舵が利いて艦首が急速に上がっていく。

「ヨーソロー、上げ舵いっぱい!」

『きたしお』の艦首がさらに持ち上がり、床と壁がそれぞれ甲板と隔壁の役割を取り戻していく。
 隔壁に落ちていた物品が次々と甲板に転げ落ちていった。発令所の幹部達も、再び床へと投げ出されて呻き声を上げた。
 艦の傾きは一気に回復していく。しかしながら海底はすぐそこ。このまま『きたしお』の艦首は海底に激突してしまうかと思われた。そしてすぐ後ろには鎧鯨が迫っている。

「ダウン二〇ふたじゅう、ダウン一五、ダウン一〇……」

 そこでついに、『きたしお』は水平を取り戻した。

「横舵中央! 停止!」
「てーし!」

 これが航空機ならば、広い翼がブレーキとなって下方に向かうベクトルを打ち消してくれただろう。だが、潜水艦に翼はない。申し訳程度に付いている潜舵と横舵だけでは下方への力は打ち消せない。結果、『きたしお』はその艦底を激しく海底にこすりつけてしまった。
 凄まじい衝撃により、艦内の乗組員達は再び殴り倒されたように転げ回る。
 しかし同時に海底では、『きたしお』が泥と砂を煙幕のようにまき上げながら、半分のめり込むように静止した。
 おかげで鎧鯨は『きたしお』を見失った。暗黒の深海でも、砂煙は煙幕として効果があったようだ。鎧鯨はしばらく周囲を漂っていたが、近くに音も気配もないと悟ると、針路を変えて浮き上がっていった。


 鎧鯨独特の鰭進音が遠のいていく。
 衝撃に耐えるため潜望鏡にしがみついたままだった江田島は、周囲から敵の気配がなくなると力を抜いて嘆息した。

「あ、危ないところでした!」
「し、死ぬかと思いましたよ、統括」
「油断しないでください、徳島君。まだ、終わった訳ではありません。奴は少し離れた位置からこちらの様子をじっと窺っていることでしょう。このままここに残っていたら、我々はまな板の上のこいになりかねません。早々にここから移動しないと……徳島君、前進微速。アップ一〇、深さ四五〇を目指してください」

 徳島は復唱しながらゆっくり舵を引き、『きたしお』を海底から上昇させていった。
 一方の江田島は、マイクに手を伸ばすと艦内に告げた。

「医官はただちに発令所に! 手の空いた乗組員も発令所に! 各部署、被害状況を報告」

 すると頭や腕肩を押さえた乗組員が発令所に現れる。皆、擦りむいたり、打撲するなどして何らかのダメージを負っているが、江田島の呼びかけに応えてやってきたのである。
 湊医官は、床に倒れている幹部と管制員達を見ると駆け寄った。

「か、艦長!」

 黒川の頭部に巻かれた江田島のハンカチは真っ赤に染まっていた。

「艦長の具合はどうですか?」

 遅れてやってきた機関長が問いかける。

「よく調べないと分からんが、頭を強く打ったせいで気を失っているのは確かだ」

 湊三佐は小型の懐中電灯を取り出すと、黒川の瞼を持ち上げ、瞳孔どうこうが縮小するかどうか、眼球が偏ったほうを向いていないかなどを調べていった。

「ど、どうして江田島統括が指揮を執っていらっしゃるのですか?」

 機関長は中之島なかのしまに立つ江田島を見て首を傾げた。『きたしお』の乗組員ではない江田島が指揮を執るのは通常あり得ないことなのだ。

「緊急事態なので黒川艦長に託され、不本意ながら指揮を執らせていただきました。代わりに貴方がやりますか?」

 江田島が確認するように尋ねる。
 副長や哨戒長まで倒れている有り様を見た機関長は、それも無理からぬ状況であったと理解して黒川艦長の判断を受け入れた。彼自身、艦が倒立した衝撃で意識を失ってしまっていたという負い目もあった。

「このまま一佐が指揮をお執りください」
「では、一段落つくまでは指揮を預かります。まず、湊三佐は怪我人達をここから連れ出して手当を! そして機関長は、負傷した潜航管制員の代わりを呼び集めてください。まだ戦闘状況は続いているんです!」
「りょ、了解」

 医官の指揮で怪我を負った潜航管制官達が連れ出されていく。
 そして代わりの要員がやってきて、それぞれ椅子を起こし、床に散らばったファイルや物品を拾い集めてコンソールへ向かった。

「ヨーソロー深さ四五〇」

 やがて徳島が、江田島の求めた深さに達したことを告げた頃には、発令所はその機能を完全に取り戻していた。

『S八九は九八度方向。当艦の右後方に回り込もうとしています』

 スピーカーから松橋二曹の声がする。水測室の機能も復活したようだ。

「では徳島君、面舵いっぱいです! 魚雷で仕留めますよ」

 徳島は舵を大きく右に回した。

「おもーかーじいっぱーい、ヨーソ……ん?」

 だが、艦は何故か彼が期待したように動かない。
 僅かに右に旋回しようとしているのは、針路表示がゆっくり右にずれていくことからも分かる。しかしその動きは面舵をいっぱいに切った時のものとは違っていた。
 徳島は何度か操作を繰り返し、舵が中央にも戻らないことを確認すると告げた。

「縦舵故障!」
「縦舵が!? 肝心な時に限ってこれですか?」
「あれだけの衝撃です。壊れもしますよ!」

 舞鶴機関長が言った。

「致し方ありませんね」

 江田島が頷く。そして命じた。

「縦舵故障、機側操舵きそくそうだ配置につきなさい!」


『機側操舵、配置につけ! 機側操舵、配置につけ!』

 スピーカーにより艦内に新たな配置が命じられると、動ける乗組員達が持ち場へ向かっていく。
 潜水艦も機械である以上、故障することがある。
 今回『きたしお』に襲いかかったトラブルは、艦尾にある縦舵、つまり艦を右や左に回頭させる装置が動かなくなってしまうというものだった。通常そういう時は、乗組員を艦尾に送り、原因の調査をしつつ直接舵板だばんを動かして、艦の針路を操るという対策がとられる。
 だが現場からの報告はそれもすぐには出来ないというものであった。舵板が右に五度曲がった状態で何かと接触して固まり、これを動かすには装置を打撃するなどの措置が必要だという。要するに、「故障した機械をぶっ叩いていいか?」ということだった。

「行いなさい!」

 対して江田島は「やれ」と応え、続けて水測室に問いかけた。

「S八九はどこですか?」
『現在、一二二ひゃくふたじゅうふた度。当艦の右から後方へと回り込みつつあります。後ろに回り込まれるとこっちが何も出来ないのだと気付かれたのかもしれません!』
「そうでしょうね」

 その代わりにこちらもS八九がシクヴァルを放ってこないことが分かった。もう弾切れなのか、それともこの深さではシクヴァルは使えないのか。いずれにせよ攻撃がなかったことからもそれは窺い知れた。もっともその代わりに体当たり攻撃にさらされているため脅威度は変わらない。だがシクヴァルがないと分かっただけでも、戦術的な選択肢は広がるのだ。

「統括! 煮ますか? 焼きますか?」

 徳島が舵を握ったまま問いかけた。
『きたしお』は今、緩やかな右旋回を続けていて進行方向を変えることが出来ない。浮き上がるか、深く潜航するか、動くとすればそのどちらかだ。そして敵は、こちらの死角となる真後ろに回り込み、近付いてこようとしている。早急に対応しなければならなかった。

「敵さんがその気ならばいいでしょう、相手をしてあげます。徳島君、ここはひとつタタキに料理しましょう。前進いっぱい」
「タタキで一杯、前進いっぱい、ヨーソロー」

 江田島は艦の速度が上がっていくことを確認すると、武器を管理する右舷側管制員に命じた。

「四番発射よーい」
「と、統括! 現在当艦は前進一杯で右旋回中です」

 舞鶴機関長が警告した。
 今、発射管から魚雷を押し出すと、横合いからの乱流で魚雷のバランスが崩れてしまう。
 しかし江田島は気にしないとばかりに言い放った。

「かまいません。四番にS八九のデータを入力! 失探ロストしたらターゲットを探知するまで自停しているように!」
「りょ、了解」

 発令所の乗組員達は、江田島の考えがまるで分からないという顔をしていた。それでも指示に従って作業を進めていく。
 その間にも艦尾からは壊れた舵を直そうとする打撃音が響く。しかし修理が完了したという報告はまだない。簡単に直るような故障ではないということだろう。
 発射管室からの返事はすぐに入った。

「四番、発射よーいよし」
「鎧鯨の位置は?」

 水測員が答える。

『本艦の真後ろと思われます。いや、右舷後方で併走!』
「徳島君、回避任せます!」

 徳島が叫んで答えた。

「任されました!」

 水測員が叫ぶ。

『来ます!』
「いまだ!」

 徳島は鎧鯨を避けるため舵を思いっきり引いた。
 全速で突き進む『きたしお』は上に傾き一気に上昇する。

『鎧鯨、真下を通過! 左舷ひだりげん側に出ます』

 水測員が敵の位置を逐一報せてくれる。

「徳島君、下げ舵二〇ふたじゅう
「下げ舵二〇。ヨーソロー!」

 江田島の指示で徳島はすぐさま深度を戻した。弾切れだからではなく、今の深さにいるからシクヴァルが使えないのだとしたら、深度を浅くすることは自殺行為だ。
 体当たりを避けられ『きたしお』の左舷側に出た鎧鯨が、浮き上がって追ってくる。すると徳島は再び艦を深く潜らせてこれを躱した。
 追ってきた鎧鯨は、今度は『きたしお』の上に出てしまう。徳島はその動きにつけ込み、速度を落としてやり過ごした。

「前進半速!」
「続いて前進、第一戦速!」

 すると鎧鯨も身をひるがえして『きたしお』に速度を合わせる。
『きたしお』から大きく引き離されると、強引に距離を詰めてくる。体当たりが何度もスカされ頭にきているらしい。動き方がどんどん粗暴になってきた。

「距離は?」

 江田島が水測員に問いかける。

『分かりませんが、相当に近い。後方、十数ヤードです!』

 発令所の乗組員達はそれを聞いて舌打ちした。
 魚雷を撃つには後ろに張り付いている鎧鯨を引き離す必要がある。魚雷爆発に巻き込まれない距離を開けなければならないのだ。しかしながら江田島は命じた。

「四番、発射!」
「セ、セット、シュート、ファイヤー」

 水雷長がキーを操作し、左舷側の発射管から魚雷が海中へ押し出される。

『四番魚雷出た。八九度……いや、艦体に接触、迷走しています!』

 案の定、艦が右旋回していることで発生する乱流を浴びた魚雷は、海中に飛び出した途端突き飛ばされるように左に転がって迷走した。
 誘導のワイヤーもたちまち切れ、ほどなくして海中に漂った。

「ったく、何考えてんだよ」

 誰かの呟きが発令所内に放たれる。江田島の指示はとても『きたしお』を救うためのものではないという思いからだろう。

「くそっ、誰かなんとかしてくれ」

 しかし江田島はそんな声を無視して平然と指揮を続けていた。

「徳島君、第二戦速」
「第二戦速ヨーソロー」

 徳島は江田島の命じるままに艦の速度を上げた。
『きたしお』は長大な円を描くように右に旋回している。
 針路の表示を見ると、今は真南の一八〇度を超えて少しずつ西へと回頭していた。同じ場所でぐるぐる回って既に二周。このまま進めば三周目に入るだろう。

「縦舵修理よし!」

 その時、艦尾から舵の修理が終わったという報告が入った。その報告は同時に、舵がきちんと動くか試してくれという意味でもある。

「た、助かった」

 これで左右必要な方向に転舵できる。乗組員達もようやくこの危機的状況から脱出できると安堵した。だが江田島は直った縦舵を試そうともせずそのまま進み続けた。

「統括、舵を試さないんですか?」

 徳島が問いかける。

「この状態で舵を試している余裕なんかありませんからね! 徳島君、今はこのまま舵角右五度を維持しなさい。合図したら舵を中央に……徳島君、いいですか? 合図を待ってくださいね!」
「了解」

 徳島は改めて舵を握り直した。
 発令所内に不信感が漂う中、江田島は水測室に問いかける。

「ソーナー 敵は?」
『真後ろです。すぐ後ろを付いてきています』
「では、五番発射よーい」

 五番発射管にはデコイが装填されている。

「五番管よし」

 デコイの発射準備が整ったという報せが来ると、江田島は針路の数字を再び睨みつけた。針路は真北を経て東へと向かう。
 やがてその数字が五〇度、六〇度、七〇度に達した時、江田島が叫ぶ。

「徳島君、今です!」
「舵中央! ヨーソロー!」

 修理された縦舵は期待通り動き、針路八〇で『きたしお』をまっすぐ前進させた。そして艦の機動が長大な円運動から抜け出した途端、江田島は命じた。

「ベント開け! 五番発射!」

 メインタンク内にわずかに残っていた空気が全て海中へ放出される。
 突然目の前に放出された大量の泡に驚いたS八九は、大きく避けて『きたしお』の真後ろよりれた。

「五番魚雷出た。八二度、走行開始!」
「潜横舵下げ舵いっぱい! 停止!」
「停止!」
「てーし!」

 直後、機関を停止。
 艦は慣性の力でしばし前進する。そしてメインタンク内に残存していた空気を排出したことで、深度を静かに深めていった。

「全員、音を立ててはいけませんよ!」

 江田島は息を潜めるよう乗組員達に命じたのである。


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