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第十二話:裏が表になる瞬間
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妊娠が判明して以来、ソウイチの「侵食」は、プログラムという名の施術にとどまらず、生活にまで入り込む。
ケイスケが仕事から帰宅すると、玄関には当然のように兄の靴が並んでいる。リビングからは、ミサキと兄が親密に笑い合う声が漏れ、時には二人が向かい合って、夫婦のような距離感で夕食を囲んでいることさえあった。
それだけではない。洗面所には兄の愛用する髭剃りが置かれ、脱衣所には使い古された兄のタオルが掛かっている。クローゼットを開ければ、ケイスケのスーツの隣に、ソウイチの上質なシャツが領土を広げるように増えていく。
ある夜、ケイスケは耐えかねて、湯上がりのミサキに尋ねた。
「最近、兄さんがよく来ているようだけど……何か相談事でもあるのかい?」
ミサキは、以前の怯えが嘘のような、屈託のない笑顔で夫を振り返った。
「特にはないわ。ただ、お義兄さんは私が妊婦だからって、家事や育児の予行演習をサポートしてくれているの。ケイスケさんは仕事が忙しいでしょう? お義兄さんがいてくれるから、私、毎日がすごく安心なの」
確かに、ミサキの表情は驚くほど明るい。かつてその瞳に宿っていた、ソウイチへの恐怖や罪悪感の影は霧散し、代わりに「正解の幸福」を享受する者の平穏が満ちていた。
ケイスケは、そのあまりの白々しさに芽生えた疑念を、自らの手で握り潰した。
(兄さんには感謝しかないはずだ。彼女を、僕たちを救ってくれたのは兄さんなんだから……)
その「小さな違和感」が爆発したのは、予定よりも数時間早くケイスケが帰宅した日のことだった。 玄関には、あの黒い革靴。兄が来ている。
「ただいま」
声をかけたが、返事はない。いつもならミサキが足早に出迎えるはずの廊下には、静寂だけが横たわっていた。
胸騒ぎを覚えながら、吸い寄せられるように寝室の前へ向かう。その瞬間、扉が開き、ミサキが慌てて飛び出してきた。
「あ、おかえりなさい……!」
ケイスケは、その場で凍りついた。
ミサキの髪は乱れ、着崩れたワンピースの肩からは白い肌が覗いている。頬は火照ったように赤く染まり、その瞳は潤み、焦点が定まっていない。彼女の全身から立ち上る、濃厚で甘ったるい「情事」の匂い。
「……兄さんは?」
震える声で問うと、寝室の奥からソウイチが悠然と姿を現した。彼は上半身裸にTシャツを引っ掛けただけの姿で、濡れた髪を無造作にかき上げている。
「やあ、ケイスケ。早かったな」
「え……? まさか、何を……!」
脳裏を過ぎる最悪の光景。だが、ソウイチは毅然として、まるで子供の我儘を窘めるような冷静さで答えた。
「ベッドの調子を見てくれというから、確認していただけだ。赤ちゃんが生まれるのに、軋みが気になるというからね。……どうした、そんな恐ろしい顔をして」
ソウイチの瞳には、微塵の動揺も、疚しさもなかった。そのあまりの堂々とした態度に、ケイスケの思考は麻痺する。ミサキもまた、視線を泳がせながら、兄の言葉をなぞるように繰り返した。
「そ、そうなの。ベッドの安全性が気になって……。お義兄さん、本当に親身になってくれて……」
明らかな嘘。稚拙な言い訳。 だが、ソウイチはケイスケの肩にそっと手を置き、かつて中学生の彼を「救った」時と同じ、魔力のような説得力を持って囁いた。
「心配するな、ケイスケ。僕が君のためにならないことを、一度でもしたことがあったか?」
「……いや、ないよ」
ケイスケは、反射的にそう答えてしまった。
信じなければ、自分の人生が、ミサキとの幸せが、そして腹の中にいる子が、「正解」ではなくなってしまう。彼は、自ら真実から目を逸らすことを選んだ。
しかし、魂の底から発せられる警告音は、無視し続けるにはあまりに鋭すぎた。 翌日、ケイスケは会社に行く間際、自宅のリビングと寝室に小型のボイスレコーダーを仕掛けた。
その夜。彼が再生した音声データは、彼の理性を、誇りを、そして人生を完膚無きまでに破壊した。
『……っ、あ、ああ……っ! お義兄さん……お義兄さん……っ!』
『いい声だ。……なぁ、ミサキ。僕の言う通りにしていれば、家庭は安泰だろう?』
『はい……。お義兄さんのおかげです……ケイスケさんも、喜んでくれています……』
そこから聞こえてくるのは、規則正しく、しかし激しくベッドが軋む音。 そして、自分が一度も引き出したことのない、妻の野獣のような、恍惚に満ちた絶叫。
『お腹の子に、最高の胎教をしてやろう。……弟の身代わりとして、僕がたっぷりと注いであげるからね』
『ありがとうございます、お義兄さん……っ! もっと、もっと深く……!』
スピーカーから溢れ出す、肉と肉がぶつかり合う湿った音。 ミサキはソウイチのリードに従い、もはや自ら快楽を貪り、義兄を「愛の執行者」として崇拝していた。
ケイスケは、暗い部屋で一人、ボイスレコーダーを握りしめた。
それは、兄が丹念に作り上げた「幸福」という名の地獄の記録だった。 自分が愛し、感謝し、すべてを委ねてきた「絶対的な正解」の正体は、ただのおぞましい侵略だったのだ。
ケイスケが仕事から帰宅すると、玄関には当然のように兄の靴が並んでいる。リビングからは、ミサキと兄が親密に笑い合う声が漏れ、時には二人が向かい合って、夫婦のような距離感で夕食を囲んでいることさえあった。
それだけではない。洗面所には兄の愛用する髭剃りが置かれ、脱衣所には使い古された兄のタオルが掛かっている。クローゼットを開ければ、ケイスケのスーツの隣に、ソウイチの上質なシャツが領土を広げるように増えていく。
ある夜、ケイスケは耐えかねて、湯上がりのミサキに尋ねた。
「最近、兄さんがよく来ているようだけど……何か相談事でもあるのかい?」
ミサキは、以前の怯えが嘘のような、屈託のない笑顔で夫を振り返った。
「特にはないわ。ただ、お義兄さんは私が妊婦だからって、家事や育児の予行演習をサポートしてくれているの。ケイスケさんは仕事が忙しいでしょう? お義兄さんがいてくれるから、私、毎日がすごく安心なの」
確かに、ミサキの表情は驚くほど明るい。かつてその瞳に宿っていた、ソウイチへの恐怖や罪悪感の影は霧散し、代わりに「正解の幸福」を享受する者の平穏が満ちていた。
ケイスケは、そのあまりの白々しさに芽生えた疑念を、自らの手で握り潰した。
(兄さんには感謝しかないはずだ。彼女を、僕たちを救ってくれたのは兄さんなんだから……)
その「小さな違和感」が爆発したのは、予定よりも数時間早くケイスケが帰宅した日のことだった。 玄関には、あの黒い革靴。兄が来ている。
「ただいま」
声をかけたが、返事はない。いつもならミサキが足早に出迎えるはずの廊下には、静寂だけが横たわっていた。
胸騒ぎを覚えながら、吸い寄せられるように寝室の前へ向かう。その瞬間、扉が開き、ミサキが慌てて飛び出してきた。
「あ、おかえりなさい……!」
ケイスケは、その場で凍りついた。
ミサキの髪は乱れ、着崩れたワンピースの肩からは白い肌が覗いている。頬は火照ったように赤く染まり、その瞳は潤み、焦点が定まっていない。彼女の全身から立ち上る、濃厚で甘ったるい「情事」の匂い。
「……兄さんは?」
震える声で問うと、寝室の奥からソウイチが悠然と姿を現した。彼は上半身裸にTシャツを引っ掛けただけの姿で、濡れた髪を無造作にかき上げている。
「やあ、ケイスケ。早かったな」
「え……? まさか、何を……!」
脳裏を過ぎる最悪の光景。だが、ソウイチは毅然として、まるで子供の我儘を窘めるような冷静さで答えた。
「ベッドの調子を見てくれというから、確認していただけだ。赤ちゃんが生まれるのに、軋みが気になるというからね。……どうした、そんな恐ろしい顔をして」
ソウイチの瞳には、微塵の動揺も、疚しさもなかった。そのあまりの堂々とした態度に、ケイスケの思考は麻痺する。ミサキもまた、視線を泳がせながら、兄の言葉をなぞるように繰り返した。
「そ、そうなの。ベッドの安全性が気になって……。お義兄さん、本当に親身になってくれて……」
明らかな嘘。稚拙な言い訳。 だが、ソウイチはケイスケの肩にそっと手を置き、かつて中学生の彼を「救った」時と同じ、魔力のような説得力を持って囁いた。
「心配するな、ケイスケ。僕が君のためにならないことを、一度でもしたことがあったか?」
「……いや、ないよ」
ケイスケは、反射的にそう答えてしまった。
信じなければ、自分の人生が、ミサキとの幸せが、そして腹の中にいる子が、「正解」ではなくなってしまう。彼は、自ら真実から目を逸らすことを選んだ。
しかし、魂の底から発せられる警告音は、無視し続けるにはあまりに鋭すぎた。 翌日、ケイスケは会社に行く間際、自宅のリビングと寝室に小型のボイスレコーダーを仕掛けた。
その夜。彼が再生した音声データは、彼の理性を、誇りを、そして人生を完膚無きまでに破壊した。
『……っ、あ、ああ……っ! お義兄さん……お義兄さん……っ!』
『いい声だ。……なぁ、ミサキ。僕の言う通りにしていれば、家庭は安泰だろう?』
『はい……。お義兄さんのおかげです……ケイスケさんも、喜んでくれています……』
そこから聞こえてくるのは、規則正しく、しかし激しくベッドが軋む音。 そして、自分が一度も引き出したことのない、妻の野獣のような、恍惚に満ちた絶叫。
『お腹の子に、最高の胎教をしてやろう。……弟の身代わりとして、僕がたっぷりと注いであげるからね』
『ありがとうございます、お義兄さん……っ! もっと、もっと深く……!』
スピーカーから溢れ出す、肉と肉がぶつかり合う湿った音。 ミサキはソウイチのリードに従い、もはや自ら快楽を貪り、義兄を「愛の執行者」として崇拝していた。
ケイスケは、暗い部屋で一人、ボイスレコーダーを握りしめた。
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