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第十三話:聖なる生贄と、狂気の秩序
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昨夜、トイレで胃液を吐き尽くしたケイスケの手は、今も微かに震えていた。
実家の重厚な長机。その冷たい木肌の上に、彼はボイスレコーダーを叩きつけた。 再生される肉欲の音声が、高村家の静謐な空気を切り裂く。
だが、期待していた「謝罪」も「狼狽」もそこにはなかった。
リビングに集まった家族五人。 漂うのは、罪人を裁く空気ではなく、道に迷った子供を憐れむような、ひどく歪んだ沈黙だった。
「兄さん……説明してくれ。これは不貞だ。裏切りだ。僕たちの……夫婦の絆を、踏みにじる行為だ……!」
ケイスケの叫びは、虚しく壁に跳ね返った。 対面に座る兄・ソウイチは、動揺するどころか、不思議なものを見るような、無垢な眼差しで弟を見つめていた。
その瞳には、自分が断罪されているという認識すら存在しない。
「ケイスケ、お前はまだ本質が見えていないんだね。これは、僕なりの『愛』なんだよ」
ソウイチは、穏やかに語り始めた。 その声は、かつて勉強を教えてくれた時と同じ、透き通った響きを帯びている。
「長男としてこの家を守る責任、そして不妊に悩む弟夫婦への憐憫。僕はね、自分の時間を削り、心を砕いて、君たちに『正解の幸福』を与えようとしたんだ」
「ケイスケ、お前のやり方で、ミサキちゃんの笑顔を守れていたと思うかい? 僕が彼女の精神を支え、肉体を受容の形へと整えたからこそ、今の初孫という奇跡があるんじゃないか」
悪意がない。 それが、ケイスケの心をもっとも深く抉(えぐ)った。
兄は本気で、自分を「犠牲的な救済者」だと信じ込んでいる。 狂信的なまでの「善意」。その毒は、すでに家族全員に回っていた。
「……そもそも、お前が嫁をほったらかしにしているから、ソウイチの手が必要になったのでしょう?」
冷たく放たれたのは、母の言葉だった。 ケイスケが驚愕して母を見ると、彼女は泣きながらソウイチに寄り添い、ケイスケに縋(すが)り付いた。
「お前のため、高村家のために、兄さんはどれほど苦しんだと思っているの? 好きでこんな汚れ役を引き受けたわけじゃないのよ。それを責めるなんて、お前はなんて酷い、恩知らずな弟なんだい!」
母は本気で、ソウイチを「泥を被った聖人」として崇めている。 父はといえば、置物のように黙したまま、深く頷くだけだった。
家長という権威さえも、すでにソウイチの「正しさ」というシステムの一部に組み込まれていた。
「……ごめんなさい、私が弱かったから……」
ミサキが、絞り出すような声で呟き、畳に額をすり付けた。 ケイスケはすがるように彼女を見つめた。
「ミサキ、君は嫌だったんだろう? 兄さんに無理やり、脅されていたと言ってくれ……!」
しかし、顔を上げた彼女の瞳に宿っていたのは、救済を求める光ではなかった。
「でも、これは二人のためだったの。ケイスケ君を幸せにするために、お義兄様が導いてくれたの……それだけは信じて!」
*
四面楚歌。 ケイスケの視界がぐにゃりと歪む。
幼少期から刷り込まれた「長男絶対」「家こそ全て」という価値観が、家族全員の言葉とソウイチの澄んだ瞳によって、彼の倫理観を黒く塗りつぶしていく。
兄の狂気よりも、それを「美徳」として讃えるこの家の空気が、何よりも恐ろしかった。
その時、母がゆっくりと立ち上がり、泣き崩れるミサキの肩を抱いた。
「そうよ。嫁というのはね、家を守り、夫を守るためには、ある程度の『汚れ』は必要なのよ……!」
母がポツリと漏らしたその一言。 その瞬間、石像のように動かなかった父が、ビクリと肩を震わせ、さらに深くうつむいた。
その異様な反応に、ケイスケは一瞬、真意を測りかねた。だが、追究する余地などなかった。
「お前の幸せのためなんだ、ケイスケ。分かってくれるよな?」
ソウイチが、最後の一歩を踏み出すように優しく囁いた。 家族全員の視線が、針のようにケイスケ一点に刺さる。
「正しいのは兄だ」「お前が間違っている」「お前が折れれば、全ては丸く収まる」。
プツン、と。 ケイスケの中で、自分を支えていた最後の糸が切れた。あるいは、彼もまた、この狂ったシステムに再接続されてしまったのかもしれない。
彼は膝から崩れ落ち、板の間に頭を垂れた。
「……ごめん。僕が、間違っていた。兄さんの恩を……踏みにじるようなことをして」
その謝罪の言葉がこぼれた瞬間、高村家の新しい秩序が完成した。 張り詰めていた空気が一気に緩み、リビングに安堵の溜息が漏れる。
「ミサキさん、あなたは何も悪くないわ。むしろ、よく決断してくれたわね」
母はミサキを抱きしめ、慈しむようにその髪を撫でた。
「この家の血を絶やさないために、自分の身を削ってくれたのでしょう? 辛かったわね。でも、そのおかげで跡取りができた。あなたは本当に立派な、高村家の嫁よ」
その言葉を聞いた瞬間。 ケイスケは見た。ミサキの瞳から、最後の一滴の「罪悪感」が消え去るのを。
代わりに宿ったのは、大役を成し遂げたという「達成感」と、共同体の一部になれたという「安堵」だった。
「……ありがとうございます。私、頑張りました」
ミサキは涙を拭い、晴れやかな、聖母のような顔で微笑んだ。
不貞は「聖なる犠牲」へと昇華され、蹂躙(じゅうりん)は「家族の承認」という免罪符を得た。 ケイスケは、その異様な光景を地面に伏したまま見つめていた。
(ああ……これが、僕の望んだ幸福だったんだ)
彼もまた、自ら進んで目を潰した。 その隣で、ソウイチだけが。
一人、完璧に調律されたこの世界を、至高の喜びと共に眺めていた。
実家の重厚な長机。その冷たい木肌の上に、彼はボイスレコーダーを叩きつけた。 再生される肉欲の音声が、高村家の静謐な空気を切り裂く。
だが、期待していた「謝罪」も「狼狽」もそこにはなかった。
リビングに集まった家族五人。 漂うのは、罪人を裁く空気ではなく、道に迷った子供を憐れむような、ひどく歪んだ沈黙だった。
「兄さん……説明してくれ。これは不貞だ。裏切りだ。僕たちの……夫婦の絆を、踏みにじる行為だ……!」
ケイスケの叫びは、虚しく壁に跳ね返った。 対面に座る兄・ソウイチは、動揺するどころか、不思議なものを見るような、無垢な眼差しで弟を見つめていた。
その瞳には、自分が断罪されているという認識すら存在しない。
「ケイスケ、お前はまだ本質が見えていないんだね。これは、僕なりの『愛』なんだよ」
ソウイチは、穏やかに語り始めた。 その声は、かつて勉強を教えてくれた時と同じ、透き通った響きを帯びている。
「長男としてこの家を守る責任、そして不妊に悩む弟夫婦への憐憫。僕はね、自分の時間を削り、心を砕いて、君たちに『正解の幸福』を与えようとしたんだ」
「ケイスケ、お前のやり方で、ミサキちゃんの笑顔を守れていたと思うかい? 僕が彼女の精神を支え、肉体を受容の形へと整えたからこそ、今の初孫という奇跡があるんじゃないか」
悪意がない。 それが、ケイスケの心をもっとも深く抉(えぐ)った。
兄は本気で、自分を「犠牲的な救済者」だと信じ込んでいる。 狂信的なまでの「善意」。その毒は、すでに家族全員に回っていた。
「……そもそも、お前が嫁をほったらかしにしているから、ソウイチの手が必要になったのでしょう?」
冷たく放たれたのは、母の言葉だった。 ケイスケが驚愕して母を見ると、彼女は泣きながらソウイチに寄り添い、ケイスケに縋(すが)り付いた。
「お前のため、高村家のために、兄さんはどれほど苦しんだと思っているの? 好きでこんな汚れ役を引き受けたわけじゃないのよ。それを責めるなんて、お前はなんて酷い、恩知らずな弟なんだい!」
母は本気で、ソウイチを「泥を被った聖人」として崇めている。 父はといえば、置物のように黙したまま、深く頷くだけだった。
家長という権威さえも、すでにソウイチの「正しさ」というシステムの一部に組み込まれていた。
「……ごめんなさい、私が弱かったから……」
ミサキが、絞り出すような声で呟き、畳に額をすり付けた。 ケイスケはすがるように彼女を見つめた。
「ミサキ、君は嫌だったんだろう? 兄さんに無理やり、脅されていたと言ってくれ……!」
しかし、顔を上げた彼女の瞳に宿っていたのは、救済を求める光ではなかった。
「でも、これは二人のためだったの。ケイスケ君を幸せにするために、お義兄様が導いてくれたの……それだけは信じて!」
*
四面楚歌。 ケイスケの視界がぐにゃりと歪む。
幼少期から刷り込まれた「長男絶対」「家こそ全て」という価値観が、家族全員の言葉とソウイチの澄んだ瞳によって、彼の倫理観を黒く塗りつぶしていく。
兄の狂気よりも、それを「美徳」として讃えるこの家の空気が、何よりも恐ろしかった。
その時、母がゆっくりと立ち上がり、泣き崩れるミサキの肩を抱いた。
「そうよ。嫁というのはね、家を守り、夫を守るためには、ある程度の『汚れ』は必要なのよ……!」
母がポツリと漏らしたその一言。 その瞬間、石像のように動かなかった父が、ビクリと肩を震わせ、さらに深くうつむいた。
その異様な反応に、ケイスケは一瞬、真意を測りかねた。だが、追究する余地などなかった。
「お前の幸せのためなんだ、ケイスケ。分かってくれるよな?」
ソウイチが、最後の一歩を踏み出すように優しく囁いた。 家族全員の視線が、針のようにケイスケ一点に刺さる。
「正しいのは兄だ」「お前が間違っている」「お前が折れれば、全ては丸く収まる」。
プツン、と。 ケイスケの中で、自分を支えていた最後の糸が切れた。あるいは、彼もまた、この狂ったシステムに再接続されてしまったのかもしれない。
彼は膝から崩れ落ち、板の間に頭を垂れた。
「……ごめん。僕が、間違っていた。兄さんの恩を……踏みにじるようなことをして」
その謝罪の言葉がこぼれた瞬間、高村家の新しい秩序が完成した。 張り詰めていた空気が一気に緩み、リビングに安堵の溜息が漏れる。
「ミサキさん、あなたは何も悪くないわ。むしろ、よく決断してくれたわね」
母はミサキを抱きしめ、慈しむようにその髪を撫でた。
「この家の血を絶やさないために、自分の身を削ってくれたのでしょう? 辛かったわね。でも、そのおかげで跡取りができた。あなたは本当に立派な、高村家の嫁よ」
その言葉を聞いた瞬間。 ケイスケは見た。ミサキの瞳から、最後の一滴の「罪悪感」が消え去るのを。
代わりに宿ったのは、大役を成し遂げたという「達成感」と、共同体の一部になれたという「安堵」だった。
「……ありがとうございます。私、頑張りました」
ミサキは涙を拭い、晴れやかな、聖母のような顔で微笑んだ。
不貞は「聖なる犠牲」へと昇華され、蹂躙(じゅうりん)は「家族の承認」という免罪符を得た。 ケイスケは、その異様な光景を地面に伏したまま見つめていた。
(ああ……これが、僕の望んだ幸福だったんだ)
彼もまた、自ら進んで目を潰した。 その隣で、ソウイチだけが。
一人、完璧に調律されたこの世界を、至高の喜びと共に眺めていた。
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