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最終話:幸福の肖像
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あれから、一年が過ぎた。
日曜日の昼下がり。レースのカーテン越しに差し込む陽光は、微細な塵を浮き上がらせながら、気怠い澱(よど)みとなってリビングに沈殿している。
かつてこの時間は、家族の安らぎであったはずだ。しかし今の私にとって、それは兄・ソウイチが「正解の調律」を施しに来るまでの、嵐の前の静寂に過ぎなかった。
ソファに深く腰を下ろしたミサキは、どこか落ち着かない様子で指先を弄んでいる。その瞳は潤み、頬は内側からの熱を孕んだように上気していた。
ふと、魔が差した。私は、自分の内側から漏れ出たのではないような、異質な声で尋ねた。
「なぁ、ミサキ。僕と結婚して、幸せか?」
鏡を覗き込むような、無意味な問い。ミサキは一瞬、何かに弾かれたようにキョトンとしたが、すぐに春の陽光が弾けるような、完璧な笑顔を咲かせた。
「幸せよ。ケイスケ君と子供に恵まれて……こんなに幸せなことは、他にないわ」
彼女は、聖母のような慈愛を湛えたまま、思い出したように小さく手を打った。
「そうそう、ケイスケ君に報告があるの。実は……二人目ができたよ」
「おめでとう……!」
祝福の言葉は、思考を介さず条件反射で口から飛び出した。だが、私の脳の片隅では、冷徹な一言が刹那に過(よぎ)った。――「誰の子だ?」。
ミサキは、私の疑念を嘲笑うかのような無邪気さで、とんでもない言葉を続けた。
「間違いなく、ソウイチさんの子よ。お義母様からも、強く頼まれていたの。やっぱり、高村家の正統な血筋……長男の血が必要だものね」
思考が、白い霧に包めていく。だが、ミサキは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに語る。
「一意、戸籍の上では私とケイスケ君の子供になるけれど……お兄様に似た兄弟がいたほうが、この家のためにもいいわよね?」
その論理は、あまりに自然で、あまりに狂っていた。彼女の中で、義兄との交配は「不倫」という卑俗な言葉を通り越し、一族への「崇高な貢献」として完全に正当化されていたのだ。
「……そうか。ミサキ、よく頑張ったね」
「あら、ケイスケ君。そんなに泣くほど嬉しいなんて。よかったわ」
「え?」
私は我に返り、壁に掛けられた鏡を見た。 そこには、満面の笑みを浮かべながら、その表情とは裏腹に、目から大粒の涙をボロボロと流し続ける男の顔があった。
なぜ、泣いている? 悲しいのか? 悔しいのか? 違う。私は幸せなはずだ。家族が増え、家が繁栄するのだから。
感情と生理現象が、完全に乖離している。私の心は、あの中学三年生の放課後、あるいはもっと昔、紫の野草を黒く塗りつぶされたあの日に、とっくに死んでしまっていたのかもしれない。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
「悪い悪い、ミサキちゃん。待たせたかな」
兄・ソウイチが、我が物顔で入ってきた。私の涙は止まらない。だが、口だけが自動人形(オートマタ)のように滑らかに動く。
「おかえり、兄さん」
兄は少し気怠そうにコートを脱ぎながら、当然のように言い放った。
「聞いたと思うけど、ミサキちゃんから『胎教』をお願いされたから、これからは土日も泊まり込むよ。……それから、ケイスケ。これ」
テーブルに置かれた封筒。中を確認すると、八百万円という数字が刻まれた、新車の契約書が入っていた。
「ミサキちゃんが移動する時、お腹の負担にならないような車をさっき契約してきた。支払いだけ、頼むな」
私は中身を精査することもなく、深い安堵と共に頷いた。
「分かった。ありがとう、兄さん。ミサキのために……助かるよ」
兄は満足そうに頷き、ミサキの肩を抱き寄せた。
「今度、二人でお礼をしないとね」
ミサキも冗談めかして笑い、二人は流れるような動作で寝室へと消えていこうとした。
その時だ。兄はふと思い出したように振り返り、私の肩にその大きな掌を置いた。そして、凍りつくような「真理」を耳元で囁いた。
「……何を驚いているんだい? 当たり前のことだよ」
「え……?」
「お袋も、ミサキと同じなんだよ。……つまり、僕たち二人も、親父の子供ではないかもしれないってことさ」
脳裏に、あの影の薄い、いつも悲しげな目で私を見ていた父の顔が浮かんだ。母が言っていた言葉が、今、死神の鎌のように私の首筋を撫でる。――『私もそうして、この家を守ってきた』。
「ケイスケ、お前は親父に似て優しいな。……僕たちは、兄弟であって、兄弟じゃないのかもしれないな」
兄は優しく微笑むと、ミサキを伴って寝室の奥へと消えていった。
扉が閉まる直前。衣擦れの音と共に、ソウイチの声が聞こえてきた。
「どれ、準備はできているかな。……これをつけての生活はどうだい?」
ミサキの下腹部から微弱な振動の器具を取り出しした。そして、ネットリとした液体が内腿を伝う。
「少し恥ずかしいですけど……体の芯が、ずっと熱くなる感じがして」
「子宮の冷えを取る補助器具だ。丈夫な跡取りが育つよ。……じゃあ、今日も始めようか」
「はい……っ」
私はソファに座り直し、つけっぱなしだった韓国ドラマの続きに目を向けた。 画面の中では、豪雨に打たれる美男美女が、心臓を抉り出すような悲痛な顔で抱き合っている愛憎劇が騒がしく繰り広げられている。
その向こう側から聞こえてくるのは、妻の、そして私の戸籍上の子供のための、「胎教」という名の調律の音に陶酔した吐息。
兄が刻む、正確で無慈悲なリズム。
頬を伝う涙は冷たいのに、私の心はどこまでも平坦で、静かだった。
この絶望こそが、高村家の正解。 この地獄こそが、私の望んだ「幸福」なのだから。
エピローグ
白。視界のすべてが、暴力的なまでに純白に塗りつぶされていた。
高村ケイスケは、その白銀の世界の中で、ただ一点、壁の染みを見つめていた。かつて兄が、私の描いた紫の野草を黒いインクで塗りつぶしたあの日のように、私の意識もまた、均一な無機質さによって塗りつぶされようとしていた。
ここは、かつて兄が語っていた「ナツミさん」が幽閉されていた場所と同じ病院だった。消毒液の匂い、規則的な足音、そして時折遠くから聞こえる、誰かの乾いた叫び。
私の精神は、あの日、壁越しに聞いた「胎教」の響きに耐えきれず、粉々に砕け散った。
目を閉じれば、今もフラッシュバックが私を襲う。シーツが擦れる音、ミサキの震える吐息、そして兄の「正しい」教え。それらが混ざり合い、巨大な黒い渦となって私の喉を焼き、呼吸を奪う。
PTSD――医師が下した診断名は、私にとっては何の意味も持たなかった。ただ、私の魂が「高村家」という機構から排除されたという通告に過ぎなかった。
カツン、カツン。 廊下に響く足音が、私の心臓を細い針で突き刺す。
「……ケイスケ、調子はどうだい」
扉が開いた。そこには、数年前と少しも変わらぬ、聖者のような微笑を湛えた兄・ソウイチと、そして……かつて私の妻であった女性、ミサキが立っていた。
ミサキの腕には、生まれたばかりの三男が抱かれている。ソウイチとの「施術」を経て、この世に送り出された、完璧な「陽の気」を継ぐ子供だ。
「ケイスケ、顔色が良くなったみたいで安心したわ」
ミサキが、慈愛に満ちた瞳で私を見つめる。 彼女の表情には、私を裏切ったという罪悪感など、微塵も存在しなかった。むしろ、聖母のような無垢な輝きさえあった。
「お義兄さんと相談して、決めたの。これが、今のあなたにとって一番の『正解』だって」
ソウイチが、事務的な、しかし温かみのある手つきで一通の書類をテーブルに置いた。
離婚届だった。
私の病状では、もはや夫婦としての平穏な生活は不可能であるという「診断」に基づき、隠密裏に進められた手続きの最終局面。
「ケイスケ、お前はもう自由なんだ。家族という義務から解放され、この静かな場所で自分を『調律』し直す。それがケイスケにとっての幸福論だよ」
「……そう。私が身を引くことが、ケイスケくんを愛するということだと気づいたの」
ミサキが、うっとりとした表情で続けた。
「私がソウイチさんと再婚して、この子たちと『正しい家』を維持していくこと。あなたが安心して帰ってくる場所を守り続けること。それが、私たちの愛の形なのよ」
その論理は、あまりに自然で、あまりに狂っていた。 彼女は本気で、私を捨てることを「至高の愛」だと信じ込んでいる。兄によって書き換えられた彼女の脳内では、不倫も、背信も、すべてが「家族への献身」という崇高な物語へと昇華されていた。
私は、動かない唇を震わせ、ただ頷くことしかできなかった。 鏡を見なくてもわかる。今の私は、きっとあの日のように、満面の笑みを浮かべながら、目から血のような涙を流しているはずだ。
「……ありがとう、兄さん。ありがとう、ミサキ」
自動人形(オートマタ)の声が、白い部屋に虚しく響いた。 ソウイチは満足げに頷き、ミサキの肩を抱き寄せた。二人は、完璧な夫婦の肖像画のように、光の中へと消えていった。
夕暮れ時。 かつて私がミサキと三軒茶屋で夢見た「等身大の幸福」の残骸は、もはやどこにもない。
あの家は今、ソウイチの城(キャッスル)として君臨している。 ガレージには、私が支払いを引き受けた八百万円の新車が鎮座し、庭には「正しい気」を呼び込むための植物が整然と並べられている。
そこでは今日も、儀式が繰り返されているはずだ。
夕食を終えた後の、静謐な寝室。 ソウイチの大きな掌が、ミサキの白く柔らかな肌を「調律」していく。
「陽の気」を受け入れ、完全に屈服したミサキが、かつて私には決して見せなかった、獣のような、あるいは神懸かりのような、艶めかしい嬌声を上げる。
「ああ、ああぁっ、あなた……っ! 私を……私を、正しくして……っ!」
その声は、高村家の壁を越え、夜の帳(とばり)へと溶けていく。 それは、善意という名の洗脳が完成し、一個の人格が完全に消失したことを告げる、呪われた凱歌。
病室の窓の外、月が冷たく光っている。 私は、白い天井を見つめながら、遠い空の下で響いているであろう、妻の――いや、兄の女の絶頂を幻聴する。
私の心は、もう何も感じない。 ただ、どこまでも平坦で、どこまでも静かな、完成された絶望の中にいた。
これが、高村家の幸福。 これが、私たちの、永遠の「正解」。
頬を伝う冷たい雫が、白い枕に小さな黒い染みを作った。 それさえも、やがて来る完全なる忘却の中に、消えていく。
日曜日の昼下がり。レースのカーテン越しに差し込む陽光は、微細な塵を浮き上がらせながら、気怠い澱(よど)みとなってリビングに沈殿している。
かつてこの時間は、家族の安らぎであったはずだ。しかし今の私にとって、それは兄・ソウイチが「正解の調律」を施しに来るまでの、嵐の前の静寂に過ぎなかった。
ソファに深く腰を下ろしたミサキは、どこか落ち着かない様子で指先を弄んでいる。その瞳は潤み、頬は内側からの熱を孕んだように上気していた。
ふと、魔が差した。私は、自分の内側から漏れ出たのではないような、異質な声で尋ねた。
「なぁ、ミサキ。僕と結婚して、幸せか?」
鏡を覗き込むような、無意味な問い。ミサキは一瞬、何かに弾かれたようにキョトンとしたが、すぐに春の陽光が弾けるような、完璧な笑顔を咲かせた。
「幸せよ。ケイスケ君と子供に恵まれて……こんなに幸せなことは、他にないわ」
彼女は、聖母のような慈愛を湛えたまま、思い出したように小さく手を打った。
「そうそう、ケイスケ君に報告があるの。実は……二人目ができたよ」
「おめでとう……!」
祝福の言葉は、思考を介さず条件反射で口から飛び出した。だが、私の脳の片隅では、冷徹な一言が刹那に過(よぎ)った。――「誰の子だ?」。
ミサキは、私の疑念を嘲笑うかのような無邪気さで、とんでもない言葉を続けた。
「間違いなく、ソウイチさんの子よ。お義母様からも、強く頼まれていたの。やっぱり、高村家の正統な血筋……長男の血が必要だものね」
思考が、白い霧に包めていく。だが、ミサキは悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに語る。
「一意、戸籍の上では私とケイスケ君の子供になるけれど……お兄様に似た兄弟がいたほうが、この家のためにもいいわよね?」
その論理は、あまりに自然で、あまりに狂っていた。彼女の中で、義兄との交配は「不倫」という卑俗な言葉を通り越し、一族への「崇高な貢献」として完全に正当化されていたのだ。
「……そうか。ミサキ、よく頑張ったね」
「あら、ケイスケ君。そんなに泣くほど嬉しいなんて。よかったわ」
「え?」
私は我に返り、壁に掛けられた鏡を見た。 そこには、満面の笑みを浮かべながら、その表情とは裏腹に、目から大粒の涙をボロボロと流し続ける男の顔があった。
なぜ、泣いている? 悲しいのか? 悔しいのか? 違う。私は幸せなはずだ。家族が増え、家が繁栄するのだから。
感情と生理現象が、完全に乖離している。私の心は、あの中学三年生の放課後、あるいはもっと昔、紫の野草を黒く塗りつぶされたあの日に、とっくに死んでしまっていたのかもしれない。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
「悪い悪い、ミサキちゃん。待たせたかな」
兄・ソウイチが、我が物顔で入ってきた。私の涙は止まらない。だが、口だけが自動人形(オートマタ)のように滑らかに動く。
「おかえり、兄さん」
兄は少し気怠そうにコートを脱ぎながら、当然のように言い放った。
「聞いたと思うけど、ミサキちゃんから『胎教』をお願いされたから、これからは土日も泊まり込むよ。……それから、ケイスケ。これ」
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「ミサキちゃんが移動する時、お腹の負担にならないような車をさっき契約してきた。支払いだけ、頼むな」
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「分かった。ありがとう、兄さん。ミサキのために……助かるよ」
兄は満足そうに頷き、ミサキの肩を抱き寄せた。
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ミサキも冗談めかして笑い、二人は流れるような動作で寝室へと消えていこうとした。
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「……何を驚いているんだい? 当たり前のことだよ」
「え……?」
「お袋も、ミサキと同じなんだよ。……つまり、僕たち二人も、親父の子供ではないかもしれないってことさ」
脳裏に、あの影の薄い、いつも悲しげな目で私を見ていた父の顔が浮かんだ。母が言っていた言葉が、今、死神の鎌のように私の首筋を撫でる。――『私もそうして、この家を守ってきた』。
「ケイスケ、お前は親父に似て優しいな。……僕たちは、兄弟であって、兄弟じゃないのかもしれないな」
兄は優しく微笑むと、ミサキを伴って寝室の奥へと消えていった。
扉が閉まる直前。衣擦れの音と共に、ソウイチの声が聞こえてきた。
「どれ、準備はできているかな。……これをつけての生活はどうだい?」
ミサキの下腹部から微弱な振動の器具を取り出しした。そして、ネットリとした液体が内腿を伝う。
「少し恥ずかしいですけど……体の芯が、ずっと熱くなる感じがして」
「子宮の冷えを取る補助器具だ。丈夫な跡取りが育つよ。……じゃあ、今日も始めようか」
「はい……っ」
私はソファに座り直し、つけっぱなしだった韓国ドラマの続きに目を向けた。 画面の中では、豪雨に打たれる美男美女が、心臓を抉り出すような悲痛な顔で抱き合っている愛憎劇が騒がしく繰り広げられている。
その向こう側から聞こえてくるのは、妻の、そして私の戸籍上の子供のための、「胎教」という名の調律の音に陶酔した吐息。
兄が刻む、正確で無慈悲なリズム。
頬を伝う涙は冷たいのに、私の心はどこまでも平坦で、静かだった。
この絶望こそが、高村家の正解。 この地獄こそが、私の望んだ「幸福」なのだから。
エピローグ
白。視界のすべてが、暴力的なまでに純白に塗りつぶされていた。
高村ケイスケは、その白銀の世界の中で、ただ一点、壁の染みを見つめていた。かつて兄が、私の描いた紫の野草を黒いインクで塗りつぶしたあの日のように、私の意識もまた、均一な無機質さによって塗りつぶされようとしていた。
ここは、かつて兄が語っていた「ナツミさん」が幽閉されていた場所と同じ病院だった。消毒液の匂い、規則的な足音、そして時折遠くから聞こえる、誰かの乾いた叫び。
私の精神は、あの日、壁越しに聞いた「胎教」の響きに耐えきれず、粉々に砕け散った。
目を閉じれば、今もフラッシュバックが私を襲う。シーツが擦れる音、ミサキの震える吐息、そして兄の「正しい」教え。それらが混ざり合い、巨大な黒い渦となって私の喉を焼き、呼吸を奪う。
PTSD――医師が下した診断名は、私にとっては何の意味も持たなかった。ただ、私の魂が「高村家」という機構から排除されたという通告に過ぎなかった。
カツン、カツン。 廊下に響く足音が、私の心臓を細い針で突き刺す。
「……ケイスケ、調子はどうだい」
扉が開いた。そこには、数年前と少しも変わらぬ、聖者のような微笑を湛えた兄・ソウイチと、そして……かつて私の妻であった女性、ミサキが立っていた。
ミサキの腕には、生まれたばかりの三男が抱かれている。ソウイチとの「施術」を経て、この世に送り出された、完璧な「陽の気」を継ぐ子供だ。
「ケイスケ、顔色が良くなったみたいで安心したわ」
ミサキが、慈愛に満ちた瞳で私を見つめる。 彼女の表情には、私を裏切ったという罪悪感など、微塵も存在しなかった。むしろ、聖母のような無垢な輝きさえあった。
「お義兄さんと相談して、決めたの。これが、今のあなたにとって一番の『正解』だって」
ソウイチが、事務的な、しかし温かみのある手つきで一通の書類をテーブルに置いた。
離婚届だった。
私の病状では、もはや夫婦としての平穏な生活は不可能であるという「診断」に基づき、隠密裏に進められた手続きの最終局面。
「ケイスケ、お前はもう自由なんだ。家族という義務から解放され、この静かな場所で自分を『調律』し直す。それがケイスケにとっての幸福論だよ」
「……そう。私が身を引くことが、ケイスケくんを愛するということだと気づいたの」
ミサキが、うっとりとした表情で続けた。
「私がソウイチさんと再婚して、この子たちと『正しい家』を維持していくこと。あなたが安心して帰ってくる場所を守り続けること。それが、私たちの愛の形なのよ」
その論理は、あまりに自然で、あまりに狂っていた。 彼女は本気で、私を捨てることを「至高の愛」だと信じ込んでいる。兄によって書き換えられた彼女の脳内では、不倫も、背信も、すべてが「家族への献身」という崇高な物語へと昇華されていた。
私は、動かない唇を震わせ、ただ頷くことしかできなかった。 鏡を見なくてもわかる。今の私は、きっとあの日のように、満面の笑みを浮かべながら、目から血のような涙を流しているはずだ。
「……ありがとう、兄さん。ありがとう、ミサキ」
自動人形(オートマタ)の声が、白い部屋に虚しく響いた。 ソウイチは満足げに頷き、ミサキの肩を抱き寄せた。二人は、完璧な夫婦の肖像画のように、光の中へと消えていった。
夕暮れ時。 かつて私がミサキと三軒茶屋で夢見た「等身大の幸福」の残骸は、もはやどこにもない。
あの家は今、ソウイチの城(キャッスル)として君臨している。 ガレージには、私が支払いを引き受けた八百万円の新車が鎮座し、庭には「正しい気」を呼び込むための植物が整然と並べられている。
そこでは今日も、儀式が繰り返されているはずだ。
夕食を終えた後の、静謐な寝室。 ソウイチの大きな掌が、ミサキの白く柔らかな肌を「調律」していく。
「陽の気」を受け入れ、完全に屈服したミサキが、かつて私には決して見せなかった、獣のような、あるいは神懸かりのような、艶めかしい嬌声を上げる。
「ああ、ああぁっ、あなた……っ! 私を……私を、正しくして……っ!」
その声は、高村家の壁を越え、夜の帳(とばり)へと溶けていく。 それは、善意という名の洗脳が完成し、一個の人格が完全に消失したことを告げる、呪われた凱歌。
病室の窓の外、月が冷たく光っている。 私は、白い天井を見つめながら、遠い空の下で響いているであろう、妻の――いや、兄の女の絶頂を幻聴する。
私の心は、もう何も感じない。 ただ、どこまでも平坦で、どこまでも静かな、完成された絶望の中にいた。
これが、高村家の幸福。 これが、私たちの、永遠の「正解」。
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