幸福論 ~善意という名の洗脳~

武蔵

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episode:0 「総」に込められた呪い

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高村家はこの地方において、もはや一個の家族という概念を超えた、ひとつの「統治機構」であった。

江戸の昔からこの泥濘(ぬかるみ)の如き広大な土地に根を張り、小作人の血と汗を養分として、その権勢は地主、金貸し、そしてバブルの狂乱という時代の波を飲み込み、肥大化し続けてきた。

この家において守られるべきは「長子尊重」という名の狂信的な教義である。

長男は神聖不可侵の象徴であり、次男以下は、その象徴を支えるための「予備」あるいは「部品」に過ぎない。

私、高村ユウイチはその部品として生を受けた。 三兄弟の次男。兄のソウスケは、歩くたびに家の重みを響かせるような絶対的な支配者であり、私はその影を踏むことすら許されない存在だった。

反発を試みたこともあった。だが、この家の門を叩く風の音さえも、私に「服従」を強いる。 いつしか私は、この不条理を飲み込み、個としての自意識を殺すことこそが、高村家という名の檻(おり)の中で生きるための唯一の「幸福論」なのだと自分に言い聞かせるようになっていた。

一九九一年(平成三年)。 バブルの終焉が、断頭台 of 刃のように空中に静止していたその年、私は二十五歳でヨシコと結婚した。

彼女は真面目で、野に咲く名もなき花のような慎ましさを持っていた。 東京へ逃げ、家という呪縛から彼女を遠ざけたい――。 その微かな希望を、兄ソウスケのたった一言、「近くにしなさい」この言葉に全てが打ち砕かれた。 そして、地獄の入口へと私達夫婦を誘う。

新婚生活は、実家から数キロ離れた、兄の指定した場所に建てられた家で始まった。

ヨシコとの時間は、砂漠で見つけたオアシスのようだった。共に食事を作り、週末のドライブで潮風に吹かれる。

「ユウイチさん、私、今が一番幸せです」

彼女がそう笑うたび、私はこの家の呪縛から逃げ切れたのだと錯覚した。

しかし、その幸福の薄皮を剥がすのは、いつも本家からの使いだった。 兄の妻、ユウコ義姉さんが「嫁教育」という名目で出入りし始めると、家の空気は一変した。

「ヨシコさん、そのお辞儀の角度。高村の女は、膝で頭を下げるのではないの。背負っている『家』の重さで頭を下げるのよ」

義姉さんの言葉は、優雅な真綿で首を絞めるような、逃げ場のない圧迫感に満ちていた。

ヨシコの笑顔は次第に消え、肌は陶器のように白く冷たくなっていった。 私は両親に、そして兄に「もう少し加減をしてほしい」と訴えた。

だが、兄ソウスケは冷徹な双眸を私に向け、静かに言い放った。

「ユウイチ、お前は甘い。女を磨くのは愛ではなく、その家の『型』に嵌めることだ。それがこの家で生きるための慈悲だということが、まだ分からないのか?」

私は、沈黙するしかなかった。 守ってあげられない私への失望が、ヨシコの心を蝕んでいく。 彼女は自分の実家へ助けを求めた。しかし、その行為が、兄に知られることとなった。

ある、重苦しい湿気を孕んだ夜。 ヨシコは本家へと呼び出された。

案内されたのは、代々の先祖の視線が突き刺さるような、威厳に満ちた和室だった。 部屋に足を踏み入れた瞬間、不自然なほど甘ったるい香料の匂いが鼻腔を突いた。それは花の香りというよりは、何かが腐敗し始める直前の、濃密な死の香りに似ていた。

和室の奥、行灯(あんどん)の微かな光の中に、ユウコ義姉さんが佇んでいた。 その距離は、絶妙に遠く、絶妙に冷たい。

「そんな顔をしなくていいわ、ヨシコさん、これからあなたに高村家の嫁になれるかどうかの話をするわ」

ユウコの声は、地下水のように冷たく、一定の温度を保っていた。

「この家ではね、女は最初から“妻”にはならないの。……先に“器”になるのよ。受け取るための、形を与えられる。そしてそれが出来て初めてあなたはこの家から守られる存在になれるの」

「器……? 守られる……?」

ヨシコは、その言葉の意味を脳が拒絶するのを感じた。

「耐えるためじゃない。空(から)であるためよ。満たされる前の、静かな空洞」

ユウコは障子越しに差し込む、青白い月光に横たわった。

「高村家の長男は、個人ではないの。この家の数百年という時間が、最初に宿る場所。人の形をした『象徴』なのよ。だから――」

ユウコの視線が、蛇のようにヨシコの喉元を這った。

「嫁が本当の意味でこの家の中に入るには、その『象徴』に直接触れなければならない。弟の妻でいるうちは、まだあなたは『外の人間』なのよ」

ヨシコは激しい眩暈を覚えた。

「何を……何を仰っているのですか? よくわかりません」

ユウコはヨシコの目をみつめながら言葉を継いだ。

「器とは子を宿す器です。……高村家の長男を一人宿す『器』になればいいの。つまりソウスケさんの子供を宿すのです」

ヨシコは理解が出来なかった。 なんで私が義兄の子供を産まなければならないのか。しかも妻であるユウコさんがそれを言うのか。 パニックになっているところで、ユウコさんは話を続けた。

「守られる存在、つまりあなたはその瞬間に特別な存在になれる。高村家はあなたの実家に対し、特別便宜を図り、あなたを含めた家族を助けます」

ユウコは冷徹な追い打ちをかけるように、ヨシコが最も隠しておきたかった傷口に指をかけた。

「あなたの実家の借金、お父様の事業の失敗……。高村家がすべて肩代わりしましょう。その代わり、……高村家の長男を一人宿す、『器』になればいいの」

借金の肩代わり。両親がどれほど苦労しているかはヨシコもよく知っている。 助けてあげたい心がうずく。しかし心の奥底には夫ユウイチを裏切れないという思いがある。

「それは……取引、ですか」

ヨシコの声は、絞り出すような絶叫に近い囁きだった。

「この家では、それを『保護』と呼ぶの。……奪われるんじゃない、選ばれるのよ」

「ユウイチさんは……」

そういいかけると、被せるように、

「ユウイチさんも、了承しているわ」

その一言が、ヨシコの最後の支えを打ち砕いた。

「家の判断だと、彼は理解している。あなたという女性を、この家の一部として永遠に繋ぎ止めるための、不可避の儀式だと」

放心状態のヨシコにユウコは一歩近づき、耳元で、地獄の底から響くような告白を囁いた。

「私の時も、そうだったわ。……私は長男の嫁として入ったので、義父――つまり、今の大旦那様が息子の父親なの。……ごめんね、ヨシコさん……」

ユウコの瞳は充血し、狂気と諦念が入り混じった寂しい光を放っていた。 「ごめんね」という言葉が、誰に対する謝罪なのか。 自分を売った自分自身への悔恨か、それともこれから同じ穴へ落ちる後輩への憐憫か。 ヨシコには、それを解き明かす気力さえ残っていなかった。

「……一時間後。隣の部屋に、ソウスケさんが来ます」

ユウコの宣告が、和室の静寂を切り裂いた。

「沐浴を済ませなさい。着替えはあそこに用意してあります。……受け入れるしかないわ。あなたの実家の平穏も、ユウイチさんとのこれからの生活も、すべては今夜のあなたの『受容』にかかっているの」

ヨシコは、死刑台へ向かう囚人のような足取りで風呂場へ向かった。

湯船に浸かりながら、彼女は自分の身体を見つめた。 今までユウイチのものだと信じて疑わなかったこの肌が、今、無機質な「家」の共有物に変わろうとしている。

実家の借金、両親の安堵、そして夫の沈黙。 それらすべてが、彼女の皮膚を、骨を、重く、重く締め付けていた。

風呂から上がると、隣の寝室には、糊の利いた純白の布団が敷かれていた。 その白さは、これから行われる「汚濁」を際立たせるための、残酷な舞台装置のように見えた。

用意されていたのは、薄い絹の寝巻き。 肌が透けるようなその布地は、彼女から最後の尊厳を奪い去るための意匠だった。

部屋を支配するのは、重苦しい静寂と、あの甘ったるい匂い。

ヨシコは正座し、指先を震わせながらその時を待った。 頭の中では、ユウイチとのドライブで見た青い海が、真っ黒なインクで塗りつぶされていく。

やがて、廊下を渡る「足音」が聞こえてきた。 規則正しく、傲慢で、重厚な音。 それは、一個の人間が近づく音ではなく、高村家という巨大な怪物が、新しい獲物を飲み込みに来る足音だった。

障子が開く。 そこには、家長の威厳を纏ったソウスケが立っていた。

彼の眼差しに情欲はない。あるのは、新しく手に入れた「農地」を検分するような、冷徹な所有欲だけだった。

「……よく決断したな、ヨシコ」

ソウスケの低い声が、和室の空気を震わせる。 ヨシコは、もはや涙を流すことさえ忘れた虚ろな瞳で、ゆっくりと伏した。

「……はい。……宜しく、お願いいたします」

それは、一個の女が消え、高村家の「器」が誕生した瞬間だった。 障子が閉まり、部屋の灯が消える。

闇の中で、ソウスケの手がヨシコの肩にかかったとき、彼女の心は、二度と開かない氷の檻の中に閉じ込められた。

これが、後に「ソウイチ」という怪物を生み出す、忌まわしき「正解」の始まり。 高村家における、完成された絶望の序曲であった。
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